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「三段撃ち」という名の神話『動乱の日本戦国史』

歴史の神話を解体する:長篠の戦いと織田信長の勝算

はじめに:教科書の「常識」を疑う

私たちが学校の日本史の教科書で教え込まれてきた歴史の「定番ストーリー」というものは、案外アテにならないことが多い。たとえば、織田信長が長篠の戦いで武田勝頼の騎馬軍団を、新兵器である「三段撃ち」の鉄砲で一方的に粉砕したという有名なエピソードもその一つである。歴史ファンなら誰もが知るこのドラマチックな名場面だが、近年の歴史研究の進展によって、いかにそれが後世に作られたフィクションや誇張に満ちているかが次々と暴き出されている。

呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで 』を読むと、私たちが信じ込んできた歴史の定番がいかに危うい土台の上に成り立っているかがよくわかる。歴史学の世界では、新しい史料の発見や綿密な読み直しによって、昨日までの「常識」が簡単にひっくり返る。長篠の戦いにおける鉄砲の運用をめぐる論争も、まさにそのような知の格闘の最前線なのである。

「三段撃ち」という名の神話

長篠の戦いといえば「鉄砲の三段撃ち」である。千丁の鉄砲を三列に並べ、交代で撃つことで切れ目ない銃撃を浴びせかけたという戦術は、かつては信長の天才的な軍事センスを示す動かぬ証拠とされていた。しかし、近年の研究者たちの分析によって、この「三段撃ち」の記述がある『信長公記』などの解釈を巡り、激しい議論が戦わされている。

そもそも当時の鉄砲の運用実態を考えてみれば、素人が思い描くような近代戦のような整然とした銃撃戦ができたかどうかは非常に怪しい。鈴木真嗣や平山優といった気鋭の研究者たちがそれぞれの著書や論文で指摘しているように、史料の記述を細かく突き合わせていくと、私たちがイメージするような組織的な一斉射撃のシステムが存在したとする解釈には無理があることが見えてくる。当時の軍隊組織や兵士の訓練度を直視するならば、一斉射撃のような高度な連携プレーを戦場で正確に実行するのは不可能に近かったはずなのだ。

それにもかかわらず、なぜ「三段撃ち」のような鮮烈なイメージが定着したのかといえば、それは後世の人間がドラマ性を求めて物語を膨らませたからに他ならない。歴史というのは、往々にしてシンプルなわかりやすさや、英雄の天才性を際立たせる劇的な演出のほうへと流れやすいものである。しかし、実際の歴史の現場は、もっと泥臭く、偶発的で、混沌としたものなのだ。

武田軍の敗因と信長の勝算

では、実際の長篠の戦いの本質はどこにあったのだろうか。武田勝頼がなぜあのような無謀とも思える攻撃に踏み切ったのか、そして織田・徳川連合軍はどのような勝算を持って臨んだのかを考える必要がある。

武田軍の強さは当時天下に鳴り響いていたが、長篠城をめぐる攻防戦において、勝頼は戦略的な焦りを抱えていた。周囲の情勢や補給の現実を無視してまで攻撃を継続せざるを得なかった武田側の事情があったのである。一方の織田・徳川連合軍は、堅固な馬防柵を築き、あらかじめ敵を引きずり込むための綿密な陣形を整えていた。

結局のところ、この戦いの勝敗を分けたのは、奇抜な新戦術の有無などではなく、兵力や火力の圧倒的な物量差、そして組織としての総合力の差であった。信長が優れていたのは、奇抜なアイデアを発明したことではなく、圧倒的な物量を組織的に運用し、敵の嫌がる状況を淡々と作り出すという、極めて現実的な采配にあったのだ。武田側が抱えていた構造的な弱点を見抜き、そこに兵力を集中させて着実に追い詰めていく。そのやり方は、派手な演出こそないものの、冷徹なまでに合理的である。

歴史を見るということ

私たちは、とかく歴史のなかにドラマチックな英雄や、世界を変えるような天才のひらめきを見つけたがる。しかし、呉座の著作が教えてくれるのは、そうしたわかりやすい物語から一歩引いて、地道な史料批判と当時のリアリティに立ち返ることの重要性である。

「鉄砲の三段撃ち」というロマンあふれる神話が剥ぎ取られたあとに残るのは、冷徹な兵糧の計算であり、物量の勝負であり、泥臭い人間模様である。歴史の真実というものは、往々にしてそういう地味なディテールの積み重ねのなかにある。私たちが過去を振り返るときに必要なのは、お仕着せの物語に酔うことではなく、史料の行間から当時の人々の生々しい打算や苦闘を読み解こうとする、冷めた眼差しなのではないだろうか。

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