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【第24話】セイジ32歳、証券会社勤務「母の日〜『後で』が命取り」

五月の夜風は、まだ少し肌寒さをはらんでいた。しかし、東京のど真ん中、高架下を吹き抜ける風には、湿った排気ガスの匂いと、どこか焦ったような街の熱気が混じっている。 その高架下の一角に、時代から取り残されたような小さな灯りがあった。赤提灯に書かれた「やきとり」の文字。そこだけが、モノクロームの昭和へ続く入り口のように、ぼうっと闇に浮かんでいる。

屋台の主人、寅吉は、使い込まれた団扇をゆっくりと動かしていた。炭火の上で脂を滴らせる鶏肉が、パチパチと小気味よい音を立てる。その煙の向こう側、カウンターの端に、今夜の客であるセイジが座っていた。

セイジ、三十二歳。大手証券会社の法人営業部に籍を置く彼は、いわゆる「エリート」の端くれだ。隙のない紺のスーツ、ミリ単位で整えられた髪型、そして、左手首に巻かれたスイス製の機械式腕時計。その時計は、彼がこの十年間、一分一秒の誤差も許さず戦ってきた証でもあった。

だが、今夜のセイジの顔には、隠しようのない疲労が張り付いていた。 彼は、手元のグラスに注がれた酒には目もくれず、一心不乱にスマートフォンの画面をスクロールしていた。ニューヨーク市場の開場を控え、指先は常に数字の変動を追いかけている。

「……はい、佐藤です。いえ、あの銘柄はボラティリティが高すぎます。今はホールド一択でしょう。……ええ、明日の寄り付きで判断します。失礼します」

ワイヤレスイヤホンを通じた彼の声は、冷徹な機械のようだった。通話が終わると同時に、別のチャットアプリから通知が飛ぶ。セイジはそれを素早く処理し、また次の数字へと意識を飛ばす。彼にとって、この屋台の椅子は休息の場ではなく、ただ「戦場を移動しただけ」の出張所に過ぎなかった。

寅吉は、熱々に焼かれた二本の「ねぎま」をセイジに手渡した。

「おい、先生。せっかくの炭火だ、冷めねぇうちに食いな」

「……ああ、すみません。今、大事な局面なんです」

セイジは顔も上げずに答えた。彼の視線は依然として画面に釘付けだ。

「僕ら証券マンにとって、時間はただの数字じゃない。『価値』そのものなんです。一秒遅れれば数千万が吹き飛ぶ。だから、止まってる暇なんてないんですよ」

「価値、か。立派な言葉を知ってるな」

寅吉は、鼻の頭を掻きながら、少し濁った声で笑った。

「だがな、あんたがそうやって必死に守ってる『数字の価値』とやらと、今、この目の前で消えていく『炭の匂い』。どっちが本当の贅沢か、考えたことはあるかい?」

セイジは、ようやくスマートフォンを置き、少し苛立ったように寅吉を見た。

「寅さん。昭和の頃とは違うんです。今は情報がすべてだ。僕がこうして働いているから、世の中の経済は回っている。自由や安心だって、結局はそれを支える『資金力』があって初めて手に入るものなんですよ」

「僕が必死に数字を追っているのは、自分や家族の将来を、何があっても揺るがないものにするためなんですから。形のない愛や感謝なんて言葉より、最後は『金』という力が家族を守る。もし将来、親が病気に倒れても、僕に稼ぎがあれば最高の病院だって、一番いい施設だって、金に糸目をつけずに用意してやれる。感情論に浸る暇があるなら、一円でも多く積み上げて、どんな事態にも対応できるようにしておく。それが、僕ができる最も確実で、最高の責任の果たし方だと思ってるんです」

「……金、か。そりゃあ、ねぇよりはあった方がいい。だがな、セイジ。あんた、自分の母親を『効率』で管理しようとしてるんじゃねぇのか?」

「管理じゃありません、責任ですよ。僕が一分一秒を惜しんで数字を追うのは、将来、母に何の不自由もさせないためだ。それが僕の責任の果たし方なんです」

その言葉を待っていたかのように、セイジのスマートフォンが再び震えた。 仕事の通知ではない。画面に浮かび上がったのは、登録された『母さん』という文字だった。

セイジは一瞬、眉をひそめた。そして、周囲に聞こえるような深い溜息をついた。

「……またか」

彼は通話ボタンを押すと、声を低くして早口で捲し立てた。

「もしもし、母さん? ……うん、元気だよ。だから、今は仕事中だって言ってるだろ。……え? 母の日? 分かってるよ、ちゃんとカタログで胡蝶蘭を頼んでおいたから。日曜に届くはずだよ。……え、電話? いや、日曜も接待ゴルフが入るかもしれないし……。ああ、もういいよ。とにかく忙しいんだ。また『後で』かけるから。じゃあね」

プツリ、と一方的に通話を切る音が、狭い屋台の店内に響いた。 セイジは、逃げるようにスマートフォンをポケットにねじ込んだ。

「……ったく。用もないのに、わざわざこの時間に電話してくるなんてな。僕の仕事がどれだけ過酷か、分かってないんだ」

「……『後で』、か」

寅吉がぽつりと呟き、焼き台から一本の串を差し出した。

「おい、先生。その尖った神経を、こいつで一度リセットしな」

差し出されたのは、炭火で余分な脂を落とし、表面に岩塩が白く浮き出た「砂肝」だった。セイジは無造作に一粒、口に放り込む。

「熱っ……。でも、この歯ごたえが……」

噛み締めた瞬間、コリコリとした独特の弾力と、噛むほどに溢れ出す淡白ながらも力強い肉の旨味が、セイジの眠っていた感覚を直撃した。一筋縄ではいかないその強固な食感に、スマホを握りしめていた指先の力がふっと抜ける。

「驚いたな。ただの臓物だと思ってたのに、こんなに筋の通った食感がするなんて」

顎を動かして必死に噛み締めながら、セイジは二の矢、三の矢と砂肝を頬張った。その一瞬だけ、ニューヨークの市場も、数千万の損益も、彼の意識から完全に消え去っていた。

「へっ、いい音させてやがる。……いいか、セイジ。あんたが『後で』と後回しにしてる時間も、この砂肝と同じだ。柔らかい言葉で包んだつもりでも、その芯にある現実は、そう簡単に噛み切れるもんじゃねぇんだぜ」

寅吉の声は、高架下を走る電車の轟音にかき消されそうなほど静かだったが、セイジの耳には不思議と重く届いた。

「あんた、今、そのおふくろさんに一番残酷な言葉を吐いたぜ」

「残酷? 僕はただ、仕事が忙しいと言っただけですよ」

「違うな」

寅吉は団扇を置き、セイジの左手首に巻かれた腕時計を指差した。

「その時計、何十万もするんだろ? 誤差もねぇ、完璧な代物だ。だが、その完璧な時計を使ってあんたがやってるのは、『今』という時間をゴミ箱に捨てることだけだ」

「何を……」

「あんたが『後で』と言ったその言葉。それには、金利もつかなきゃ、返済の保証もねぇ。あんたは証券マンなんだろ? だったら分かるはずだ。いつ破綻するか分からねぇ債券を、親に押し付けてるのが今のあんたの状態だよ」

寅吉の目が、煙の中で鋭く光った。

「セイジよ。おふくろさんの時計はな、あんたの時計とは進む速さが違うんだ。あんたが『成功』とやらを掴んで戻ってくるまで、おふくろさんの時計が止まって待っててくれるとでも思ってるのかい?いいか、親孝行に『満期』なんてねぇんだ。ある日突然、市場が閉まるように終わっちまう。その時に手元に残るのが、あんたが積み上げた数字だけだったら……そいつは笑えねぇ大損害だぜ」

セイジは反論しようとしたが、言葉が喉の奥でつっかえた。 屋台の裸電球の下、寅吉の刻まれた顔の皺が、セイジが今まで見てきたどんなチャート図よりも、複雑で深い「真実」を物語っているように見えた。

寅吉は、手元の冷えたグラスを指先で弾いた。カラン、と氷が虚ろな音を立てる。

「セイジ、あんたはさっき『母の日のカタログで胡蝶蘭を頼んだ』と言ったな。……立派なもんだ。だがよ、あんたが送ったその花が、箱から出されて、居間のどこに置かれるか、想像したことはあるかい?」

セイジは答えに詰まった。故郷の、少し古びた実家の風景。最後に帰ったのはいつだったか。

「……そこまでは。でも、一番いいやつを選びましたから」

「花はな、枯れるんだよ。だが、あんたがさっき放った『後で』っていう言葉は、枯れずにあの人の胸の奥に澱(おり)みたいに溜まっていくんだ。……俺には見えるぜ。一人きりの食卓で、あんたが一方的に切ったスマホを見つめながら、『忙しいのはいいことだね』と自分に言い聞かせてる、おふくろさんの姿がな。おふくろさんは、あんたの『成功』を食って生きてるんじゃねぇ。あんたという『人間』を想って生きてるんだよ」

寅吉は、鶏皮の串を、セイジに突き出した。

「あんたが『後で』と先延ばしにするたびに、おふくろさんの時間は削られ、あんたとの距離は宇宙の果てみたいに遠ざかっていく。証券マンなら、リスク管理は得意なんだろう? なら教えてくれ。……もし、その『後で』の前に、おふくろさんの時計が止まっちまったら、あんたはどうやってその損失を埋め合わせるつもりだ?」

セイジの心臓が、ドクンと大きく波打った。 証券業界で叩き込まれた「最悪のシナリオを想定せよ」という鉄則。それが今、仕事ではなく自分の人生に突きつけられていた。

「寅さん、僕は……。母に苦労をかけたくなくて、必死に走ってきたんです。地方の公立校から、奨学金をもらって、この世界で這い上がって。十分な資産さえ築ければ、いつか最高の形で報いられると信じてた。もっと余裕ができたら、その時に……」

「余裕? そんなもん、一生来ねぇよ」

寅吉の声が、地面を這う地鳴りのように低く響いた。

「人間はな、手に入れたもんに合わせて、また新しい『忙しさ』を自分で作り出す生き物だ。あんたが年収を一千万にしようが、一億にしようが、その『後で』という癖は治らねぇ。……いいか、セイジ。親孝行に『いつか』なんてねぇんだ。今すぐ、その汚ねぇスマホを握り直して、声を聞かせてやる。それ以外の投資は、全部ゴミだと思え。世界中の株価が暴落しても、あんたを『世界一』だと信じてる投資家は、故郷に一人しかいねぇんだぜ」

その時、セイジのポケットの中で、再びスマートフォンが震えた。 また仕事の連絡か。彼は反射的に端末を取り出し、画面を確認した。

そこにあったのは、母からのLINEメッセージだった。

『セイジ、お仕事頑張ってるね。さっきはごめんね。無理しなくていいから。胡蝶蘭、楽しみにしてるよ。体だけは、本当に大切にしてね。おやすみ。』

その文字を見た瞬間、セイジの視界が歪んだ。 自分が「コスト」だと思っていた母からの連絡。それは、自分がどれだけ冷たくあしらっても、決して途切れることのない「無償の祈り」だった。

セイジの指先が、細かく震え始めた。 彼は、自分がどれだけ傲慢だったかを思い知らされた。何十億の金を動かしているつもりで、自分の一番大切な「根っこ」を腐らせていた。

「……寅さん」

セイジの声は、ひどく掠れていた。

「僕は、間違ってました。母が待ってくれているのを、当たり前だと思ってた。僕の時計だけが、正しく進んでいると思い込んでいたんです」

寅吉は、静かに団扇を置いた。

「……気づけたなら、まだマシだ。その震えてる指で、今度は何を入力するんだ?」

セイジは、溢れそうになる涙を堪え、震える指で返信を打ち始めた。

『ごめん。胡蝶蘭もいいけど、明日の夜、そっちに行くよ。顔を見て話したい。』

送信ボタンを押した瞬間、セイジの胸のつかえが、ふっと軽くなった。

ふと、幼い頃の記憶が蘇る。母がいつも、仕事帰りの父が買ってくる焼き鳥を、嬉しそうに並べていた光景を。

「寅さん、勘定を。……それから、焼き鳥、包んでもらえますか。母が好きだった『塩のねぎま』。冷めちまうかもしれないけど、持っていきたいんです」

寅吉は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「ああ、任せな。冷めても旨いのが、俺の焼き鳥だ。……だがな、セイジ。温め直すのはあんたの仕事だぜ。言葉で、な。心の冷えだけは、炭火じゃどうにもならねぇからよ」

セイジは深く頭を下げ、屋台を後にした。 高架下の雑踏を歩く彼の足取りは、先ほどまでの「追われる者」のそれではなく、自らの意思で「会いに行く者」の力強さに満ちていた。

屋台では、寅吉が再び炭に火を熾していた。

「……ったく。どいつもこいつも、失う寸前まで宝物に気づかねぇ。……まあ、それが人間か」

夜空を見上げた寅吉の目には、都会のネオンに紛れた、小さな、けれど確かな一番星が映っていた。


【おまけ】〜あんたの「持ち時間」の使い道〜

おい、そこを行くあんた。 今夜のセイジの話、どう聞いたかい?

「自分はあいつほど冷たくねぇよ」なんて、鼻で笑ってねぇか。あるいは、胸の奥がチクリと痛んで、思わず自分のスマホを握りしめちまったか。

今の世の中、右も左も「効率」だの「コスパ」だのって、やかましいよな。 一分一秒を惜しんで数字を追いかけて、立派な肩書きや分厚い財布を手に入れる。そりゃあ、悪いこっちゃねぇ。生きていくには金も看板も必要だ。

だがよ、一つだけ忘れちゃいけねぇことがある。

「あんたの大切な人の持ち時間」は、あんたが稼ぐ金じゃ、一秒だって買い戻せねぇんだ。

「後で」って言葉はな、魔法の逃げ道じゃねぇ。 いつか崩れることが決まってる、危うい積み木みたいなもんだ。

おふくろさんや親父さん、あるいはあんたを待ってる誰か。 あの人たちが本当に欲しがってるのは、カタログから選んだ高い花じゃねぇんだよ。 「元気か?」っていう、たった五秒のあんたの声だ。 「今夜は月が綺麗だね」っていう、なんでもねぇあんたの言葉だ。

いいか。 世界中の株価が暴落して、あんたが積み上げた数字がゼロになっちまったとしてもだ。 あんたが今日、誰かに届けた「温もり」だけは、絶対に暴落しねぇ。そいつだけは、あんたの心の金庫に一生残る「本物の財産」になる。

母の日だからって、気負う必要はねぇ。 高い酒も、洒落た店もいらねぇよ。 ただ、スマホを置いて、大切な人の目を見て、自分の声で話しな。

心の冷えを温め直せるのは、最新のヒーターじゃねぇ。 あんたの、不器用で温かい「言葉」だけなんだからよ。

さて、今夜はもう店仕舞いだ。 あんたも、あんたの大事な投資家に、一本電話でも入れてやりな。 案外、向こうもあんたの声を待ってるぜ。

じゃあな。また屋台で会おうや。


「🏮🏮🏮これを読んで少しでも心が動いたなら、その感想を一言でいい。あんたの言葉を聞かせてくれ。待ってるぜ・・・🍶」

次回【第25話】ハルカ22歳、新社会人「初任給、親への恩返し」


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昭和の寅吉 おぅ、今夜の話が心に沁みたなら、焼き鳥一本分(190円)ほどお捻りを置いていってくれねえか。あんたのその心意気が、次の旨い話を焼き上げるための『炭代』にさせてもらうぜ。よろしくな!