Shun Onitsuka

名字が変わった。

0歳の頃に両親と離別した私は、どこの誰とも知らぬ人間の名字を名乗ることになり、これまでの間を生きてきた。なんとなく違和感であったが仕方のないことだと割り切っていた。

先月状況が変わり、私は養子縁組を結んだ。
もっとも里母の姓を名乗れることになったのだ。

養子縁組を結んだ最終的な理由としては、財産相続のためであったが、彼女と私の間には、意外にも長い歴史がある。

7歳のある頃、施設で普段通り算数のドリルを解いていた私は、先生に「しゅんに会いたい人が来てるよ」となんとも調子のいい口ぶりで呼ばれたので、ワクワクしながら面会室について行った。

そこにいたのは40代ほどの夫婦で、後の里親になる人たちだった。初対面の大人を前に気恥ずかしく、居心地の悪さを感じていた私は、ホワイトボードに算数の続きを解いていた。しかし、その背に感じた温かい眼差しと優しい言葉ですぐに安心できる場所だとわかった。

先生に「これから今日はこの人たちと遊びに行っておいで」と言われたので、その当時気になっていたトイザらスとかっぱ寿司という贅沢すぎる場所に連れて行ってもらった。

それからというもの、正月やお盆という行事の時だけ
外泊が許されていたので、大型連休はその夫婦の家で過ごすことを8年ほど続けた。

あの家で過ごす数日間を楽しみに、普段の生活をやり過ごしていたと言っても過言ではない。

 15歳の時、私は過ちを犯した。
そのせいで長らく住んでいた施設には住めなくなり、一時保護所の世話になった。

1年ほど里親とは連絡が取れなくなり(面会には来てくれていたそうだが、拒否されてたらしい)、私は第2の施設に移送された。

そこでは、施設長が無自覚な横暴者で幅を利かせていた。以前いた施設より自由はなく、中学校に登校する時のみ外出が許された。45人ほどいた施設ではヒエラルキーが存在していて、ボスと言われていた年上のお兄さんがいた。それもずいぶん凶悪で手当たり次第、年下に暴力を振るっていた。

息を吐く間もないその監獄で、私は身を守るように部屋に籠もり、コンポから流れる音楽だけを貪り食っていた。

しかし、悪意は私の聖域にまで土足で踏み込んできた。ある日、何よりも大切にしていたTaylor SwiftのCDが叩き割られ、引き裂かれた歌詞カードの無惨な破片が、私が眠る布団の周りを呪詛のように囲んでいた。

 許せなかった。

一年ぶりに里親から手紙が届いた。私が新天地で頑張っていることに対する励ましの言葉などが書かれていた。私はすぐに会いたくなった。

その手紙にはお年玉(5000円)が同封されていた。
当時小遣いが1ヶ月500円だった私は、テンションが上がり、そのことを1人の友人に相談した。

「これどこに隠せば誰にもバレないかな」

お金を受け取ってはいけない施設のルールと、バレたら先輩に半殺しになるのを避けるために、隠蔽を手伝ってもらった。

その友人には度々、悩み相談をしていたし、一時保護所で一緒だったこともあり、施設に彼が入所してきた時には、救済に近いものを覚えた。

次の朝、私は何事よりも先に、5000円の在処を確認した。なんと、タンスの上の卒アルの中に閉まっておいたはずの5000円がないではないか。

私はその事実に狼狽し、友人の方へ向かった。
「ねぇ、昨日隠した5000円がなくなったんだけど」

友人は答えた。「まじで?やば笑 先輩が盗んだんじゃない?」

以前からの先輩の横行により、その言葉を鵜呑みにした私は憤りを抑えることができず、先輩の部屋へ向かった。

「僕が里親から貰った手紙とポチ袋みたいなもの知らないですか?タンスの上に隠しておいたんですけど、さっき見たら無くなってて」

「え、知らんよ」と冷笑気味に先輩は言った。

怪しさに勘づいた私は、素直に引き下がることができなかったが、これ以上問うても殴られるだけだと判断し、程なく真相の追及を諦めた。

後で先輩の子分から聞いた話だが、5000円を盗んだのは私の友人であった。さらには、先輩と友人は仲良しになっていた。

 許せなかった。

湯船に一緒に浸かりながら話していたあの愚痴や、施設の脱走計画のあれこれが全て先輩に筒抜けだったそうだ。

そのうち、私は高校へ入学した。先生からは、施設から徒歩5分圏内の商業高校への入学を勧められたが、
そんな娯楽のない通学路を避けたいがために、私は電車で30分かかる山奥にある偏差値36の高校へ入学した。 

毎日の通学がとても楽しくて、たくさんの友達にも恵まれた。幸い、レズビアンの親友もいて、私がゲイであることがなんの苦でもない環境に一時的に身を置くことができた。

帰り道にはみんなでまねきねこ(カラオケ)にいき、
門限まで遊ぶのが日課だった。

だが、なんにせよお金のなかった私は、ある非道を犯してしまった。

里親との外泊がようやく許されたころだった。
里親が運転する車で家までの道すがら、私は里親の財布からお金を盗んだ。一度だけではなく、二度も盗んでしまったのだ。

里親は1度目にくすねた時から知っていたらしく、2度目の後に、施設に面会に来た。形相を変えた、里親2人が私に怒鳴った。
「なんでそんなことしたんだ。信用もなくして、彼女(里母)も傷付けたんだから謝りなさい。」
彼女は私の仕打ちに号泣していた。

私は謝り、彼らの寛大な心によりなんとか赦された。
同時に今の心境や、不満も共有してみた。

すると、里親はこの状況をなんとかしたいと身を乗り出して、一心に私の悩みを聞いてくれた。

高校一年間が終わるころ、私は里親の家に正式に引き取られることになった。今までは大型連休にしか行けなかったあの家に、住むことになった。

最初のうちは、順調だった。
里母が尽力して探してくれたおかげで高校も名だたる進学校に転入できた。

そこは男子校だった。
6月ごろの転入だったので、孤立感やつまらなさをひしひしと感じ、男子校ならではのノリや空気が合わず、登校するのが嫌になった。今となっては、そもそも私が誰とも会話をしようと試みなかったことを反省している。

男子校をさっさと退学した後、土木で働こうと思いたった私は、里母に相談してみた。しかし、「何があっても大学は行った方がいい」と、か細い糸をどうにか繋ぎ止めるように説得され、通信制の高校に入るよう促された。同時に「オーストラリアに学会で行くことになったけど、行く?」と言われた。

樹木の緑と照りつける陽の白が揺蕩うメルボルンは、いたずらに歩くには最高の街であった。スーパーに行けば、お気に入りの曲が流れていて、カフェに行けば、食べたこともないような甘ったるいケーキがあった。レジで店員(ブロンドヘアで目が青い)と言葉を交わした時の照れ臭さは今でも覚えている。

日本と変わらないことと言えば、喧嘩であった。
慣れない土地で、慢性的なストレスを抱えた2人は毎日のように喧嘩をしていた。

帰国後、見慣れたはずの日本の景色は完全にその位相を変えていた。見慣れたはずの通学路なのに、まるで違う。これまで素通りしていた路地の魅力や、道端に咲く花の花弁の脈動に、立ち尽くしていた。

世界を知るということは、ただ知識を得ることではなく、自分のなかの感受性の枠組みが壊され、再構築されることなのだと知った。

それからというもの、とんとん拍子にことが進んだ。

大学に行くために入塾し、朝から晩まで粉骨砕身して勉強に励んだ。

見事に抜毛症とチック症を患ってしまった。

今でこそ良くなりつつあるものの、頭頂部に鉛筆を刺すのが気持ちよかった。

それでも、里母は何度も私の隣に座り、「大丈夫」と言い続けた。

血は繋がっていない。

それでも、人生でいちばん長く私を見捨てなかった人だった。

先月、養子縁組を結び、私は鬼塚姓になった。

文字列でしかなかった私の名前に、ようやく、温もりを感じることができる。

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