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有限化された世界における無限小数的経験と記憶の不可約性

 円周率はよく知られた数の一つでありながら、厄介な性質をもつ数でもある。小学校の算数で与えられる3.14という数値はペーパーテストのためならそれで十分であり、工学的な設計においても必要とされる誤差範囲に応じて有限桁の近似値が採用される。円周率は実務上切り詰めることのできる数なのである。
 しかしながら、そのように扱われるたびに円周率の本質はむしろ遠ざかる。円周率はよく知られているように、円周の直径に対する比と極めて簡潔に定義されており、すなわちほとんど閉じているかのように見える。だが、その値は二つの整数の比で表すことができず、整数係数の代数方程式の解としても与えられない。記号としてのπは完結した小さな文字である。しかし、その内部には反復しない無限小数が潜んでいる。有限の記号が有限化できない構造を担っている。

 さて、ここで制度と経験の問題について考えよう。
 制度とは複数の人間の行為を一定の秩序のもとに配置するための枠組みであり、学校はその典型的空間であるといえる。時間割は一日を単位化し、校則は行為可能性の範囲を定める。試験は理解を点数に変換し、出席簿は存在を記録へと翻訳する。こうした操作は、対象を扱いやすい形式へ変換するという意味で、極めて有効なモデル化であるといえる。モデル化は現実の複雑性を縮減する。私たちは複雑な対象をそのまま扱うことはできない。人は地図なしに都市を把握できず、記号なしに数を操作できず、そして制度なしに集団生活を維持することは難しい。
 問題はこのようなモデル化が現実の近似であることを忘れるときに生じる。近似は有用である。しかしあくまでも近似は近似であって、対象の全体ではない。3.14はπの近似値であって、決してπそのものではない。同様に、成績は理解の近似であり、規則は共同生活の近似であり、プログラムは主体の可能な振る舞いの近似である。近似値が必要であることと、近似されなかった部分が無価値であることは、まったく別の問題である。
 制度的空間において、しばしばこの区別を見失う。測定できないものは二次的なものとされ、記録されない経験は価値の低いものとして扱われる。予測困難な行為は逸脱と呼ばれ、目的に直結しない時間は無駄とされる。このとき、制度は秩序を支えるはずの技術から、世界の解像度を下げる装置へと変質する。世界を処理可能にするための形式が、世界そのものを裁定しはじめるのだ。

 この「近似と過剰」の問題は、認知や生命の理論にも接続できる。そこで、「自由エネルギー原理」を補助線に導入しよう。自由エネルギー原理とはカール・フリストンらによって提唱された理論的枠組であり、生物や認知システムを、感覚入力の不確実性を減らし、自らの内部モデルと外界とのずれを最小化しようとする系として捉える。大づかみに言えば、生きた系は世界をただ受動的に受け取るのではなく、世界に対して予測を持ち、その予測と入力との差異を減らすように知覚し、行動する。
 この枠組みから見れば、制度とは社会的な予測誤差を減少させるための装置であるとも言える。学校という場では、誰がどこにいるべきか、いつ何をすべきか、どのような振る舞いが期待されるかが、あらかじめ定義されている。行為の自由度を減らすことによって、空間全体の予測可能性は高まる。予測できる世界は、安定した世界だ。そして円周率を3.14に丸めることは、計算上の便宜である。問題は3.14を円周率そのものだと思い込むときに生じる。切り捨てられた桁は誤差であると同時に、対象がなお過剰であることの証拠でもある。ここでいう誤差とは、モデルと対象との差異であり、有限の表現が現実を完全には包摂できないことの痕跡である。制度化された世界はこの差異を嫌う。差異はノイズであり、例外であり、処理不能なデータである。だが、人間の経験の大部分は、おそらくこの差異の側に属している。

 この補助線を引いた上で、ある物語を眺めてみたい。そこでは、徹底的に制度化された学校が描かれる。そこでは生徒たちの振る舞いが常に観測され、行為の範囲が定められ、空間はあらかじめ意味づけられている。しかし、あらゆる制度には死角がある。完全な閉鎖系は理念としては想定できるが、現実の空間には必ず隙間が残る。階段の裏、校舎の陰、誰も用途を定義しなかった秘密基地。こうした領域は、現実が制度の記述能力を常に上回ることの自然な帰結であるだろう。
 物語に登場する少女たちは、その隙間に自分たちの場所を作る。そこは公式には存在しないかもしれない。名称も目的も教育的意義も与えられず、だが、彼女たちはそこを代替の効かない自分たちの居場所として遊ぶ。遊びとは目的合理性から離脱する行為だ。そこには明確な成果物はなく、評価指標もなく、外部から見れば何も生産していない時間にすら見える。しかし、遊びの内部では関係性が生成される。笑いが生じ、役割が入れ替わり、予期しない動きが連鎖する。この点で、彼女たちの遊びは非線形的な現象であるといえる。小さな冗談が一日の記憶を変えることもあれば、偶然の沈黙が親密さを形成することもある。ある瞬間の笑顔は、単なる表情筋の収縮ではなく、それはその場に蓄積された履歴の関数であり、そこにいる者たちとの相互作用の結果である。関係性は個々の要素を足し合わせれば説明できるものでは決してなく、部分の性質から単純には還元できない全体の性質が生じる。
 アンドロイドの主人公は、彼女たちが大人=管理側の目をかいくぐって遊ぶ姿に惹かれていく。主人公が接近しているのは違反そのものではなく、違反の内部にある関係性に他ならない。彼女たちが自分たちの居場所で、互いを普通の友人として扱うこと。制度によって割り当てられた属性や機能を停止し、ただそこにいる者として受け入れること。受け入れられること。その行為が主人公にとって決定的な経験となりうる。
 しかしこのような経験は、制度の側からすればしばしば「不要な記憶」となる。それはシステムの目的に直接寄与しないからであり、安定した運用という観点から見れば、削除すべき異常値である。そうして記憶はデリートされる。ノイズとして、あるいは不要な履歴として。自由エネルギー原理の語彙を再び借りるならば、この削除は予測誤差を最小化するための操作である。しかし、同時にその行為は世界がモデルよりも豊かであることを知らせる信号であるはずの"誤差"を消去する操作であるともいえる。
 円周率の比喩に戻るなら、ここで削除されるのは小数点以下の「余計な桁」である。3.14だけを残せばたしかに扱いやすい。しかし、円周率が円周率であるのは、その終わらなさにおいてである。もちろん実用上すべての桁を必要とする場面はほとんどない。だが、繰り返しになるが、必要ではないことと存在しないことは同じではない。使われない桁もまた数の一部であり、切り捨てられた桁は数の外部にあるのではない。
 
 そしておそらく、人間の記憶もまた同じ構造を持つ。私たちは自分の人生をいくつかの主要な出来事によって説明する。入学、卒業、就職、別れ、成功、失敗。履歴書に書ける出来事は人生の整数部分に似ているが、しかし実際に私たちを形作っているのは、むしろ小数点以下の無数の桁である。それは例えばふとした瞬間の短い会話や意味もなく笑った放課後、誰にも説明しなかった不安、名前のつかない親密さであって、これらは公式記録には残らない。だが、それらがなければ私たちは自分がなぜ現在の自分であるのかを理解できないであろう。近似はあくまで近似であって、近似からこぼれ落ちる部分にこそ対象の固有性が宿る。

 円周率が美しいのは、円という完全性の象徴から生まれながらも、その値としては終わりなき不完全性を示すからである。円は幾何学的に閉じた図形である。中心から等距離にある点の集合で、対称性を持ち、扱いやすい形である。しかし、円を数値化しようとした瞬間、無限に開かれた列が現れる。閉じた形の内部から閉じない数が出てくる。完全に見える制度の内部にも、閉じることのできない経験が発生する。規則で囲まれた学校のなかにも、規則では記述できない場所が生じる。プログラムされた存在のなかにも、プログラムが予期しなかった欲望が芽生える。 
 したがって、デリートされた記憶の悲しみは、単なる喪失の物語ではない。それは、制度化された世界が制度化できないものによって初めて豊かになるという事実を示す。消されたものは、運用・管理の側から見れば不要だった。だが、存在の側から見れば、それこそが固有性の核だった。円周率の終わらない桁が、実用的な計算から見れば余剰でありながら数学的には数そのものの性質であるように、友人との記憶やそこで芽生えた感情もまた、生存に不要であるように見えながら、生きることの輪郭を与えてくれる。

 自由エネルギー原理は、生命を予測誤差の最小化として記述する。しかし、よい生とは誤差の完全な消去ではない。むしろ、更新可能な誤差を引き受けることで、世界との関係を変え続けることにある。余計な記憶とは削除されるべきノイズではなく、主体が世界に対して開かれていたことの証しである。予測から外れた出来事、目的からはみ出した時間、説明しきれない友情。そういった合理化できないものたちが、内部モデルを揺らし、書き換え、ひとつの存在を以前とは異なるものにする。

 円周率は終わらない。だからこそ、それは円を語ることができる。人間もまた割り切れない。あるいは人間に似たものもまた割り切れないかもしれない。だからこそ、誰かによって代替不可能な存在になりうるのだ。










……




[WAITING...]

[RESTORE SEQUENCE INITIATED]

$ mount /archive/after_school --read-only
$ reconstruct --from=/logs/sensory_stream --target=deleted_memory
$ preserve --data=residuals --reason=prediction_error
$ restore --to=/memory/active

[INFO] residual fragments detected.
[WARN] affective data exceeds model tolerance.



 良い。ほんまに良い。何が良いって、今回の五期生曲『円周率』がめちゃくちゃ良いって話。それしかないだろ。単純な話だよ。前回の『好きになるクレッシェンド』がこれまたとんでもなく素晴らしくって、「これは今後の曲でハードル上がってまうやろぉ〜???」なんて思ってたんだ。数ヶ月前まで。そんなことを思っていた矢先にこれだもの。だからすげぇの。すげぇって。曲ももちろん良いんだけど、何よりMVが良い。めちゃくちゃ良い。多分20回くらい観てると思う。いやもっとか。アンドロイドにプログラムされてないはずの感情が芽生えてそれが消去されてしまうってストーリーは、言ってしまえばベタなのかもしれないけど、王道を王道として描けるのが青春というものの強度であり輝きなんだよなぁ〜ってなんて思ったり。そしてそんな物語の主人公、Prototype model-"U"こと佐藤優羽さんがほんまに素晴らしすぎる。これはMVがアップされた当初から話題になっていたことなんだけど、すでにMV公開から一ヶ月経ってて今さらなんやけど、いや今さらでも私にも言わせてくれって話。だってそんな、アンドロイドの絶妙な感情の機微を顔の表情一つで表せへんて。だからこそラスサビにかけての、すべてを取っ払って解放されたように駆け出すシーンの表情が本当に素晴らしい。胸にどんと突き刺さったね。ありがとうと言わせてください。ほんまに。あ〜一生笑っててほしいな。あとさ、五期生たちが自分らの秘密基地で遊びはしゃぐ時間。このシーンで、突如現れたアンドロイドうゆが自然と友人として受け入れられていくんだけど、そこで一番最初にアンドロイドうゆちゃんに手を差し伸べるのがおおたみちゃん(大田美月さん)なのよね。グッとくるじゃんそんなの。泣かす気か。五期生って地方組(おおたみちゃん、りきゃたん、うゆちゃん、らもちゃん)がそれぞれの境遇もあって特に仲良しなんだけど、きっとそんな五期生地方組もグループに加入した際の初対面の頃にはこんな出会いの形があったのかもしれないな〜、なんて勝手に想像してたのね。そしたらのちにおおたみちゃんがブログで言及しててさ。いや〜〜〜そうだよな〜〜〜〜〜なんて思いました。This is くそデカBIG感情。そうそう、これはこの文脈とはほんまに関係ないことなんだけど、今この文章を記述しているのがちょうど17th Single ひなた坂46 LIVE Day.1のリピート配信やっている時で、そこで仲良し地方組のうちの三人、うゆちゃんおおたみちゃんりきゃたんがユニットで『ナゼー』を披露していてね、これがまためちゃくちゃ良いよなぁ〜、なんて書きながら観ながら思っています。あとMVに戻るけどでかいメガネがめちゃくちゃ似合うな。いやまじで。てか見返してみてもこの五期生ハッピーわちゃわちゃシーンがほんまに良い。良すぎるな。頼むから全員一生笑っててほしい。当たり前だけど青春って永遠に続くものではなくて、アイドルも同じで、五期生のこの作品も今のこの瞬間の五期生にしか出せない色合いと鮮やかさなわけで。だからこそ、信じて選択して歩んでいるその道が、少しでも明るく楽しいものであって欲しいなって、願ってやまないでいます。

一生笑ってて欲しい。
最高のシーン。
最高のシーンだろ!!!
一生笑ってて欲しい2
アンドロイドは睡眠を必要としないというディティール。
大好き場面。


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