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A38_AIを1日5時間使う私が、依存かどうかを判断している基準

毎朝5時半。休日は5時間を超える

毎朝5時半。私はAIとの対話から一日を始めます。

前日に見た動画のこと。仕事で迷っていること。日常でふと引っかかった疑問。順番に投げては、返ってきた言葉を眺めています。

休日になると、使っている時間が5時間を超える日もあります。

職場でもChatGPTはほぼ開いたまま。最近はCodexも使い、総合的な探究の指導案を毎週作っています。

こう書くと、かなりのAI依存に見えるかもしれません。

実際、自分でも時々思います。これは依存なのだろうか、と。

でも今のところ、結論は逆です。

AIは、使いすぎるくらい使ってもいい。

問題は、使った時間ではありません。

そのあと、画面の外で何かが変わったかどうか。

怖いのは「使いすぎ」ではない

最近見た動画で、若者の相談相手としてAIが広がっている現状を知りました。

AIに相談すること自体が問題なのではありません。

危ないのは、循環のほうです。

悩みをAIに話す。肯定してもらう。安心する。でも現実では何も変えない。そして、また同じことで相談する。

思考も感情も、AIとの対話の中だけで完結してしまう。ここまで来ると、確かに少し怖い。

ただ、これを若者の話として読むのは違うと思いました。同じ循環は、私の使い方の中にも起こりえます。

使った時間の長さは、この循環に入っているかどうかを何も教えてくれません。5時間使っても画面の外が変わる日はあるし、30分の相談が対話の中で完結して終わる日もある。

測るべきなのは、量ではなく出口でした。

基準① 画面の外で、何かが変わったか

総合的な探究の指導案は、Codexと相談しながら毎週作っています。

ただ、目的は指導案をAIに作ってもらうことではありません。その指導案をもとに、学年の先生全員が実際に動くところまでが目的です。

さらに、生徒一人ひとりの探究状況を整理し、その生徒に合った助言を載せた個票も作っています。

数十人の生徒について、今どこまで進んでいるか。次に何を考えるとよいか。どのくらいの難易度なら進められるか。一人ずつ整理していく作業は、人間だけでやろうとするとかなり大変です。

AIを使うことで、そこまで手が届くようになりました。

全員が高度な探究をしている、という話ではなく、止まっていた生徒にも、その生徒なりの次の一歩が見えやすくなったことです。

ここでは、AIとの対話がAIの中で終わっていません。

対話が先生を動かす。先生の動きが生徒に届く。生徒の行動が少し変わる。

画面の外に、変化の跡が残っています。

誰も様子見をしなかった理由

先生方に指導案を出したとき、抵抗も様子見もありませんでした。自然と使われています。

理由は、中身の具体さにあると思っています。

たとえば9月のある授業。45分を2分・7分・11分と区切り、その時間に生徒が何をするか、進行する教員が何を言うかまで書いてあります。使う教室。配るコメント用紙の枚数。提出は翌朝のSHRで担任へ。そこまで決まっています。

読んだ先生が、その場で判断を迫られる場所がほとんどありません。

指導案をAIに「作ってもらった」だけなら、ここまでは届かなかったはずです。誰がどう動き、その結果として生徒がどう変わるのか。それを詰める往復に、いちばん時間をかけました。

動く人の判断を減らすところまで具体にする。それが、画面の外に変化が出るかどうかの分かれ目でした。

基準② いちばん育てたスキルを、いちばん使っていない

もう一つ、自分の空振りの話をします。

私はPowerPointを作るためのAIスキルを、かなり育てました。自分の主張がきちんと通り、デザインも統一されたスライドが作れます。

ところが、ほとんど使っていません。

私の仕事には、PowerPointで説明する場面がそれほど多くないからです。

腕は上がった。出番がなかった。

よく切れる包丁を手に入れたのに、うちの台所では出番が豆腐くらいしかなかった、みたいな話です。包丁は悪くありません。

逆に、探究の指導案や確認問題の作成は、毎週のように出番があります。ここを育てると、育てた分だけ画面の外で何かが変わる。

だから今は、頻度の高い仕事から順に育てるようにしています。

AIを使う時間を減らすのではなく、使う場所を選べばいい。

あなたがいちばん時間をかけて育てたAIの使い方は、週に何回、出番がありますか?

AIは、人の上ではなく人と人の間にある

この感覚は、オードリー・タンのAI観と近いところがあります。

「Tech on tap, never on top」。

必要なときにひねれる蛇口であって、人の上に立つものではない。人間同士をつなぎ、理解や協働を増幅する道具として捉えています。

この言葉を知ったとき、腑に落ちました。

中心にいるのは人間です。その間をAIがつなぐ。先生と先生。先生と生徒。自分と誰か。

時間や能力の制約でできなかったことに、手が届くようになる。その結果、人と人の関係が少し良くなる。

私はそこにAIの価値があると思っています。

だから、AIに全部を判断してもらいたいわけではありません。何を目指すのか。どの案を採用するのか。この判断に責任を持てるのか。そこは自分に残しておきたい。

AIを使うことで考えなくなるのではなく、AIを装備することで以前より深く考えられる状態をつくりたい。

結局、私は依存しているのか

1日5時間。これは依存なのか。

私の答えは、「その日による」です。

同じ5時間でも、指導案が先生に届いて授業が動いた日を、依存とは呼びません。相談して気が晴れただけで終わった日は、時間が短くても同じ循環の中にいます。

私が見ているのは、人と人の間に何かが起きたかどうかです。

だから、AIを使う量を減らそうとは思いません。これからも使い倒します。

ただ、一つだけ忘れたくない。AIとの対話だけで満足しないこと。

もし今、自分のAIの使い方が気になっているなら、この1週間でAIとやりとりした対話を、3つ思い出してください。そのあと画面の外で何が起きたかを、そのまま書き出してみる。

誰かに話した。何かを決めた。やり方を変えた。何も起きなかった。

何も起きていないものが多ければ、減らすべきなのは時間ではなく、使う場所です。

明日の朝5時半も、私はAIと話し始めます。

その時間が何を残すのかは、画面を閉じたあとに決まります。


人生の限りある時間を大切に。シンパクト和 でした。
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