A37_目的から考えて仕事をしてきたが、その先にまだ根拠があった
新しい取組を始めるとき、まず他校の事例を調べる。
うまくいっている形を見つけて、自校に合うように直す。
学校では、よくある進め方だと思います。
私はここ数年、少し違う順番で考えてきました。
まず目的を決める。自校の現状を分析する。そのうえで計画を立てる。他校の事例は、参考のひとつです。
でも、その順番にも、抜けているところがありました。
目的から考えているつもりだった
ここ数年、総合的な探究の時間の仕組みづくりに関わってきました。
地域振興センターの方や探究コーディネーターと打ち合わせを重ね、地域の資源を生徒の興味・関心とどうつなぐかを考える。年度末には外部の方と教員が一緒に振り返り、次年度の形に直す。そういう積み重ねです。
他校の事例も調べました。ただ、そのまま持ってくるためではありません。
起点にしていたのは、自校で何を達成したいか、でした。目的を決めて、自校の生徒と地域の現状を見て、そこから形をつくる。
地域と一緒にやるのが自然だろうという感覚もありましたが、それは自分の判断であり、自分なりの工夫だと思っていました。
第13条に、もう書いてあった
副校長試験の勉強で、教育基本法を読み直していたときです。
第13条に、こう書かれていました。
学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。
手が止まりました。
自分なりの工夫だと思っていたことが、教育の基本そのものに書いてありました。しかも「やってもよい」ではなく、努めるものとする、です。
目的から考えているつもりでした。でも、その目的をどこから持ってきていたかというと、自分の頭の中と、自校の状況の中からでした。
気になって見直すと、岩手県が出している高校教育指導指針にも、同じ趣旨のことが書かれていました。遠いところにある文書だと思っていたのに、いちばん手近な資料にも書いてあった。
上には登っているつもりでした。
でも、登り切ったところに、まだ一段上がありました。

今の学校で当たり前になっている取組。その根拠になる文書を、開いたことはありますか?
法令は、誰かが決めた縛りではなかった
このとき、法令の見え方が変わりました。
よく考えれば、法令も国の計画も県の指針も、相当な人数が相当な時間をかけて検討した結果です。論点を洗い、意見を集め、方向を決める。
つまり、すでに終わっている検討の成果が、誰でも読める場所に置いてあるということです。
先輩たちが積み上げてきた過去問が棚にあるのに、一度も開かずに、毎年ゼロから考査をつくっているようなものでした。
それを使わずに、自分の思考と他校の事例だけで考えるのは、もったいない。
法令は、教員を縛るために置かれているのではありません。判断のために使える材料として置かれています。
判断の起点が変わった
学校では、日々いろいろな判断が必要になります。
これまでこうしてきたから。自分はこう思うから。他校でもそうしているらしいから。この方法が一番楽だから。
こうした理由だけで決まっていく場面は、実際にあります。経験も現場感覚も大事ですが、それだけだと人によって基準が変わり、組織としての方向が定まりません。
だから一度、そもそも何を目指しているのかまで戻る。
ただし、戻れば答えが一つに決まるわけではありません。法令や方針が示すのは、目指す方向と、外してはいけない枠だけです。その枠の中で最適な形を考えるのが、現場の専門性です。
枠は、大勢が考え抜いた結果を使わせてもらう。中身は、目の前の生徒と地域に合わせて自分で考える。
自分の頭を使うのは、そこから先です。
知らないと、もっともらしい話に反論できない
基本を共有していると、話し合いの地面がそろいます。
「私はこう思う」の応酬ではなく、学習指導要領はどうか、県の計画はどうか、自校の教育目標とどうつながるか、というところから話せる。方向から外れる意見も、「気に入らないから」ではなく「共有すべき方向と合わない」と整理できます。
でも、私が本当に大きいと感じているのは、その裏側です。
原典を知らないと、一見筋の通った主張に、筋の通った反論ができません。
慣習を根拠に押し切られる。外から一見正論に見える要求が来る。そのとき、根拠を持っていない側は、なんとなく引き下がることになります。
知っていると得をする、という話ではありません。知らないと守れない、という話です。
別々の仕事だと思っていた
授業を工夫する。探究を改善する。ICTやAIで校務を効率化する。引継ぎを標準化する。地域と連携する。
私はこれらを、それぞれ別の仕事として、それぞれ良くしようとしてきました。
でも、法令や指導要領をまとまりとして読んでみると、その全部が同じ一本の流れの上に乗っていることが分かります。何のために教育をするのかという上流があり、それを現場の形に具体化したものが、目の前の一つ一つの仕事だった。
仕事がうまくなることと、価値のある仕事をすることは、違います。
前者は、目の前の仕事の質を上げること。後者は、その仕事が何のためにあるのかを分かったうえで手を動かすことです。目的が分かっていれば、手段のほうを変える判断もできます。
上流に戻るのが、数分で済むようになった
先日、教務主任会議の資料を見ていて、指導要録の「卒業の日付」が気になりました。
卒業証書の日付を書くのか、年度末の3月31日を書くのか。毎年どこかで話題になる項目です。
そこでChatGPTに聞いてみました。やりとりを重ねるうちに、文部科学省の通知まで遡ることができました。そこには、証書の日付とも3月31日とも書かれていません。「校長が卒業を認定した年月日」を記入する、と示されていました。
答えを一つに決めてもらったわけではありません。校長がいつ全課程の修了を認定したのか、という起点に戻されただけです。それでも、「うちは昔からこうしている」で決めるのとは、立っている場所が違います。
以前なら、県や国の資料を探して該当箇所を読み比べるところまで、日常の仕事の中ではやらなかったはずです。
AIで変わったのは、速くなったことだけではありません。県の指針、国の通知、法令を縦に一本で串刺しして、根拠になる部分だけを抜き出せる。階層をまたぐコストが下がったことで、これまでやらなかった行為が成立するようになりました。
だから今、この「基本に戻る」手順そのものを、自分専用のAIエージェントの判断軸として持たせようとしています。忙しいときほど、人は目の前に引っ張られます。仕組みの側に置いておけば、何度でも戻れる。
上流に戻ることを、特別なことから日常のことに変える。私にとってのAIの価値は、そこにあります。
今、自分が当たり前にやっている仕事。それを最初に決めたのは、誰の、どんな判断だったのでしょうか。
人生の限りある時間を大切に。シンパクト和 でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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