掌編小説「ボーイミーツ海精」※シロクマ文芸部7/16お題「波の音」より
『波の音の中に美しい歌声を聞いたなら、すぐに耳を塞げ』
そんな言い伝えが、山と海に挟まれた田舎町にあった。
漁業で生計を立てる者が多いこの町で、僕の祖父もご多分に漏れず、漁師をしていた。
祖父の漁を手伝っていると、ふいに祖父が言い伝えについて教えてくれた。
この町、いや、この海には、セイレーンがいると。
美しい歌声で船乗りを惑わせ、船を沈めてその魂を喰らうという。
正直、そんな迷信を信じるには、いささか成長しすぎていたし、思春期の身としては、恐怖よりも半裸の女性の姿であるというところに性的興味を抱いてしまうだけだった。
だから、その歌声を聞いたときには、ついつい覗いてしまうのも仕方がないことだろう。
***
「変態!」
そんな罵声とともに、巻き貝が飛んできて、僕の額に突き刺さった。
その日、穴場の岩場で海水浴に興じていたら、歌が聞こえた。
風鈴のように儚く、それなのにどこまでも、いつまでも響き渡るような、透き通った伸びる歌声。
セイレーンの伝説を想起させる歌声に引き寄せられ、半裸で歌いながら着替えていた少女を見てしまった。
少女は僕と目が合うと、紅潮し、そっとタオルで胸を隠すと、巻き貝を拾った。
笑顔で尖った方を投げてきた。
見事なコントロールをしていた。
草野球チームにスカウトしたいほどの。
考えられたのはそこまでだった。
***
目を覚ますと、ポツンと青空に浮かぶぼっち雲が目に入った。
「あ、起きた」
声に見やると、申し訳なさと抗議の気持ちが半々といった具合の視線。
Tシャツにホットパンツの少女が隣の岩に腰掛けている。
「とりあえずはごめんなさい」
そう言って、少女は頭を下げる。
額の痛みは残っていたけれど、それよりも僕は気になることがあった。
「さっきの歌。何ていうの?」
聞いてみると、彼女は驚きに目を見開いて、それから照れたように目を逸らした。
「題名なんてない。即興で作ったから」
その答えに、僕は飛び起きる。
「すごい。歌手目指してるの?」
「いや、無理でしょ」
彼女は何かを諦めたように、目を伏せた。
僕は、少女の歌を思い出しながら、鼻唄で旋律を奏でた。
「……なんでそんな完璧に再現できるの」
少女は戸惑い、疑問を口にした。
「無駄に絶対音感があるんだ」
「あなたこそ歌手目指してるの?」
「いや、漁師になる」
「何でよ」
「君が歌うなら、考えが変わるかも」
少女は、少しだけ目を閉じたあと、歌いはじめた。
波の音が遠ざかり、あれほどうるさかった蝉の声は旋律にかき消される。
花よ 花よ
散りゆく儚さを歌え
鳥よ 鳥よ
風の呼吸に舞え
星よ 星よ
瞬きに愛を奏でて
波よ 波よ
生命の夢を
未来へと運んでゆけ
歌が終わっても、世界は余韻を残して、音を置き去りにしたまま。
やがて、一際大きな波が岩を打つ音に、意識が戻された。
「セイレーンって、実在したんだ」
「はあ?」
「ねぇ、歌手になってよ」
「……………無理」
僕の願いに、彼女は顔を背ける。
「どうして」
「…………私の苗字、竜ヶ崎」
それだけの呟き。
だけど、充分だった。
この町で知らない者はいない。
その家に生まれてしまえば、必然、未来が約束されてしまう。
だけど僕は、もう聴いてしまった。
あの歌を聴いてしまったら、もう耳を塞ぐことなどできない。
「決めた。僕が君を歌手にする」
「はあぁ!?」
さっきまでの美しい声は影もなく、裏返った声が岩場に響いた。
漁師になるはずの男は、セイレーンの声に魅了されて、魂を喰われた。
何の問題もない。
この歌を運ぶ波となれるなら。
僕は、セイレーンが呼ぶ大波となって、世界を飲み込むんだ。
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