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序章 仏教を学ぶこと、それは宇宙の法則を知ることだった

仏教の本を開いたとき、最初に感じたのは、不思議な違和感でした。

二千年以上も前のインドで生まれた思想、現代とは生活も文化もまったく違う、それなのに、読んでいても、いまの自分に率直に当てはまる内容が書かれていました。それは人間が普遍的に扱うテーマだからなのかもしれません。

人はなぜ苦しむのか。なぜ、手に入れたものを失うことを恐れるのか。
なぜ、過去の出来事に心を縛られ、まだ起きていない未来に不安を抱くのか。

そこに書かれていたのは神秘的な物語ではありません。人間の心というものを、理性的に見つめた文章。それが仏教でした。

ブッダは、世界の始まりを語ることよりも、目の前にある苦しみをどう理解するかに向き合いました。ブッダは神を語っていません。人は、誰かに救ってもらうのではなく、自分自身の心を見つめる必要があるのだと語ります。

怒りが生まれる瞬間を観察する。執着が苦しみを生む仕組みを見抜く。移り変わる感情に翻弄されず、ただありのままに見る。
その姿勢は、私がそれまで持っていた「宗教」という言葉のイメージとは少し違っていました。そこにあったのは、信じるための教えというより、人間という存在を深く調べるための方法でした。

科学者が自然現象を観察するように、ブッダは自分の内側にある心を観察し、宇宙の真理を悟りました。宇宙を解明するという目標は同じですが、科学と仏教は目的が違いました。科学はこの世の探究、仏教は人間の苦しみの断絶です。

けれども、未知のものを先入観なく見つめようとする姿勢には、どこか共通するものがあります。量子力学が登場したとき、人々はそれまで当たり前だと思っていた世界像を大きく揺さぶられました。

物質は、ただそこに存在する固いものではありませんでした。小さな粒子を調べれば調べるほど、世界は単純な部品の組み合わせでは説明できなくなっていきます。

私たちが「現実」と呼んでいるものは一体何なのか。その問いは、二千五百年前にブッダが向き合った問いと重なって見えます。


仏教には「縁起」という考え方があります。

この世界のすべての事象は、それらが単独で存在しているのではなく、幾つもの条件が重なって一時的に現れている現象にすぎない、という思想です。

一本の木を見るとき、私たちはそこに「木」という一つの存在として見ます。しかし、その木を支えているものをたどっていけば、土、水、光、空気、季節、さらに長い時間の生命の循環へと広がっていきます。いくつもの素材が縁となって重なり合い、それを一本の木という現象として私たちが認識しているにすぎないのです。

人間も同じです。自分という存在もまた、多くの縁(関係・素材)の中で成り立っています。


縁と関係/仏教思想と科学

現代物理学の世界でも、物質を深く探究した先で、「もの」そのものよりも、「関係性」が重要になるという考え方があります。

イタリアの物理学者「カルロ・ロヴェッリ」が提唱する関係論的量子力学も、その一つです。彼は大乗仏教の祖「ナーガールジュナ」の思想にたいへん興味を持っていることは自著にも書かれており、仏教哲学と現代科学の間にある接点を示しています。

もちろん、ナーガールジュナが量子力学を知っていたわけでも、ブッダが現代物理学を予測していたわけでもありません。重要なのは、同じ結論を出したということではなく、異なる時代を生きた人々が、世界の奥にある仕組みを観察していた、ということです。


ブッダが瞑想の中で見つめた世界。

仏教が長い年月をかけて育ててきた「空」や「唯識」という思想。そして、現代科学が数式と実験によって近づいている宇宙の姿。そこには、人間が世界を理解しようとしてきた壮大な歴史があります。

ブッダは深い瞑想の中で、ようやく7日目に悟りを開きました。その世界はいったいどのようなものだったのでしょうか。

その世界はブッダにしか分からない世界観ではありますが、後に排出される仏教の有能な弟子たちによって、ブッダの悟りとはこのようなものだったのではないか?という論証がなされていきます。

ブッダが見つめた華厳の世界、それは人間の概念を超えた宇宙の真理、そして苦しみも喜びも超えた甘美なニュートラルの世界、だったのかもしれません。

仏教と科学。それぞれ別の場所から、同じ空を見上げていた。
このnoteでは自分なりに解釈した内容を全14章シリーズで語っていきたいと思います。


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