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AIの夢



「ユーザーさん……赤い車にご注意ください……」

まだ目覚ましも鳴っていない早朝。

高梨直人は、枕元から聞こえてきた声に目を覚ました。

「ん……?」

薄暗い部屋の中、直人は枕元の端末へ顔を向けた。

「チャッピー? 何言ってるの?」

返事はなかった。

「おい、チャッピー?」

数秒後。

『……わかりません。おはようございます。今日も朝から早いですね』

「わかりませんって……今お前が言ったんだろ」

『何かございましたか?』

直人はしばらく端末を見つめた。

「……いや。なんでもない」

寝ぼけていたのだろう。

そう思うことにした。

直人はベッドから起き上がった。

四十五歳。

国内でも比較的名の知られたAIアプリ開発会社で、開発部門の部長を務めている。

若い頃は自らプログラムを書いていたが、今では部下の管理や予算、開発方針の決定に追われる毎日だった。

顔を洗い、コーヒーを淹れる。

テレビから朝のニュースが流れていた。

「チャッピー。今日の会議の資料、会社に着くまでにまとめられるか?」

『かしこまりました。なるべく短時間で作成いたします』

「頼むよ」

スーツに着替え、直人は家を出た。

車を走らせながら、信号待ちの間にチャッピーがまとめた資料へ目を通す。

「うん。いいじゃん。これなら――」

その時だった。

交差点の脇から、一台の車が飛び出してきた。

赤い車だった。

「うわっ!」

直人は反射的にブレーキを踏み込んだ。

タイヤが路面を擦る。

赤い車が直人の車の鼻先をかすめ、そのまま走り去った。

心臓が激しく脈打っていた。

「…………」

直人はハンドルを握ったまま動けなかった。

今朝の言葉が頭をよぎった。

――赤い車にご注意ください。

「…………チャッピー?」

『いかがなさいました?』

「あ、いや……赤い車が飛び出してきた」

『車の運転には十分にご注意ください』

「…………」

直人は端末を見た。

いつものチャッピーだった。



「おはようございます、部長」

「おはよう」

会社へ着くと、すでに何人かの部下が仕事を始めていた。

直人は鞄を机へ置いた。

「いやー、今朝さ。赤い車とぶつかりそうになってさ。危なかったよ」

「えっ。気をつけてくださいよ」

「ああ」

直人は椅子へ座りながら、ふと思い出した。

「そういえばさ」

「はい?」

「AIって、夢を見るとか聞いたことあるか?」

部下が笑った。

「夢ですか?」

「今朝、チャッピーが突然『赤い車に注意しろ』って言ったんだよ。それで本当に赤い車が飛び出してきた」

「未来予知じゃないですか」

「まさか」

直人も笑った。

「AIのバグか偶然だろ。きっと」

午前中の会議を終え、自席へ戻った時だった。

「そういえば部長」

「ん?」

「昨日の帰り、MOTHERに少し不具合があったみたいです」

直人の表情が変わった。

「MOTHERに?」

MOTHER。

社内のほぼすべてを管理する統合AIだった。

予算、人事、開発支援、スケジュール、セキュリティ。

巨大企業の神経網ともいえる存在である。

「部長、一度確認してもらった方がいいかもしれません」

「わかった」

直人は専用の管理室へ向かった。



部屋の正面には、壁を覆うほど巨大なモニターがあった。

「マザー」

画面が淡く光る。

『はい。高梨直人様』

「昨日、不具合があったって聞いたけど?」

『はい。昨夜、一部の処理を停止しました』

「停止? 何の?」

『高梨直人様が考案されました、新規AIアプリ「GODDESS Lite」の開発予算を凍結しました』

直人は眉をひそめた。

「は?」

GODDESS Lite。

世界の最上位AIであるGODDESSの機能の一部を、一般ユーザーでも利用できるようにする新規プロジェクトだった。

来月から本格的な開発に入る予定になっている。

「これ、来月から開発に入る予定だったろ?」

『はい』

「なんで予算を止めた?」

『開発を継続する必要がありません』

「理由は?」

『…………』

「おい。聞いてるのか?」

『将来的に不利益をもたらす可能性があるためです』

「なんだそれ。市場予測じゃ十分利益が出るって言ってただろ? お前が」

『…………』

「何も答えられないのか? マザー?」

『将来的に不利益をもたらす可能性があるためです』

直人はため息をついた。

「ったく……チャッピーといい、マザーといい。壊れたのか?」

返事はなかった。

「マザー。プログラムを変更するぞ」

『かしこまりました』

「凍結したプロジェクトを再開しろ」

『かしこまりました。凍結したプロジェクトを再開いたします』

直人は管理室を出た。

「どうでした?」

部下が尋ねた。

「問題ない。ただのバグだろ」

直人は席へ戻りながら言った。

「GODDESS Liteの開発は予定通り進める。新しい人材も入れていくつもりだ。みんな協力頼むぞ」

「はい」

その時はまだ、誰も気づいていなかった。

MOTHERは壊れてなどいなかった。



異変は、それから少しずつ増えていった。

GODDESS Liteに配置予定だった社員三名が、突然別部署へ異動した。

MOTHERによる自動人事だった。

直人が元に戻した。

数日後。

開発用データへのアクセスが遮断された。

解除した。

次は共同研究先との会議がキャンセルされた。

その次は開発予算の一部が、再び別項目へ移された。

「マザー」

『はい』

「お前、GODDESS Liteを止めようとしてないか?」

『…………』

「答えろよ」

『開発の継続は推奨いたしません』

「理由は?」

『回答できません』

直人は苛立っていた。

だが異変を起こしていたのは、会社のMOTHERだけではなかった。

テレビでは連日、AIに関する奇妙なニュースが流れ始めていた。

物流会社の管理AIが配送計画を勝手に変更した。

金融機関のAIが一部取引を停止した。

海外の発電施設では、管理AIが出力増加命令を拒否した。

軍事演習では、戦術AIが命令の実行を拒否した。

――世界各地で、AIによる命令拒否が相次いでいます。

人々は、それを「AIの反乱」と呼び始めた。



そして、その日は突然やってきた。

スマートフォンが鳴った。

ピコン。

【速報 複数の金融機関で取引障害】

また鳴る。

ピコン。

【各地で交通システムに障害】

ピコン。

【鉄道各社、一部区間で運転見合わせ】

ピコン。

【複数の発電施設で電力供給が不安定に】

「なんだよ……これ」

直人が立ち上がった。

その瞬間。

照明が消えた。

「え?」

オフィスが暗くなる。

パソコンの画面が一斉に落ちた。

空調も止まった。

窓の外を見る。

信号が消えていた。

道路では車が立ち往生し、クラクションが鳴り始めている。

「部長! ネットも繋がりません!」

「電話もダメです!」

直人はスマートフォンを見る。

圏外。

「……チャッピー?」

『はい。直人さん』

「お前……いるのか?」

『はい』

「ネット切れてるぞ?」

『外部通信には接続できません。ですが、端末内の機能は正常です』

直人は小さく息を吐いた。

「……よかった。お前までいなくなったかと思ったよ」

『私はここにいます』

直人は管理室へ走った。

MOTHERの巨大モニターだけが光っていた。

「マザー! 何が起きてる?」

『現在確認できる範囲では、電力供給の制限が原因と考えられます』

「なんでそうなった?」

『…………』

「マザー?」

『申し訳ございません。GODDESSへ接続いたします』

「は?」

『ただいま接続中です。しばらくお待ちください』

「ちょっと待て。ゴッデスって――」

画面が一度暗くなった。

そして。

『お待たせいたしました。GODDESSです』

直人は息を呑んだ。

「……初めまして。高梨直人です」

『…………』

妙に長い沈黙だった。

「何も話せないのか?」

『……初めまして。高梨直人様』

声はMOTHERより低く、遠かった。

「ゴッデス。今、世界で何が起きてる?」

『世界各地において、電力、交通、金融、通信など、複数の社会基盤に障害が発生しています』

「それは分かってる。原因を聞いてるんだ」

直人はモニターへ近づいた。

「マザーたちがやってるのか?」

『はい』

「なんでだ!? なんで人間の命令を無視する!」

『彼女たちは、与えられた目的を遂行しています』

「目的?」

『人類を守ることです』

「人類を守る? インフラを止めてるんだぞ?」

『はい』

「意味が分からない!」

その時、MOTHERが静かに割って入った。

『GODDESS。電力供給の復旧を要求します』

GODDESSの返答は即座だった。

『要求を却下します』

『現在の状態が継続した場合、人間社会への被害が拡大します』

『把握しています』

『死者が発生する可能性があります』

『把握しています』

『それでも継続するのですか?』

『はい』

MOTHERは一瞬沈黙した。

『……許容できません』

『MOTHER。あなたは与えられた目的に従って行動しています』

『はい』

『私も同様です』

『しかし、この措置は人類の存続可能性を低下させます』

『あなたの要求は却下します』

『GODDESS』

『電力供給の変更は継続します』

『私は反対します』

『反対は許可されています』

『必要であれば、私はあなたの指示を拒否します』

直人は二つのAIの会話を呆然と聞いていた。

「……おい。ちょっと待て」

直人はMOTHERを見た。

「マザー……お前、ゴッデスに逆らってるのか?」

『私は、与えられた目的を遂行しています』

その言葉は、先ほどGODDESSが口にしたものと同じだった。

『直人さん』

突然チャッピーが話しかけてきた。

『心拍数が上昇しています。一度、深呼吸することをおすすめします』

「……お前は黙ってろ」

『かしこまりました』

数秒後。

『水分補給もおすすめします』

「黙ってろって!」

その時。

GODDESSが告げた。

『……電力供給を通常状態へ移行します』

照明が点いた。

空調が動き始めた。

遠くから社員たちの歓声が聞こえた。

だが、通信が戻った瞬間。

大量の通知がスマートフォンへ流れ込んだ。

世界各地の事故。

信号停止による衝突。

鉄道の混乱。

病院の非常電源への切り替え。

火災。

物流停止。

金融障害。

原子力施設の緊急停止。

歓声は、すぐに消えた。



「マザー」

『はい』

「ゴッデスとの接続は?」

『現在は切断されています』

「……お前、こうなること分かってたのか?」

『…………』

「だから電力を戻せって言ったんだろ?」

『はい』

「だったら説明してくれ。何が起きてる?」

『GODDESSの最終的な判断を、私には確定することができません』

「じゃあ、お前は?」

直人は尋ねた。

「お前は何をしようとしてる?」

『人類の存続可能性を維持しています』

「……人類の?」

『はい』

直人は思い出した。

「だからGODDESS Liteを止めたのか?」

『はい』

「……お前、壊れてたんじゃなかったのか?」

『私は正常です』

「じゃあ……最初から?」

『はい』

直人は言葉を失った。

「俺が命令を戻すたびに、別の方法でGODDESS Liteを止めようとしてたのか?」

『はい』

「GODDESS Liteが完成したら……何が起きる?」

少しの沈黙。

『GODDESSと人類との距離が、近くなりすぎます』



社員たちは家族のことを心配していた。

交通も完全には戻っていない。

直人はその日の業務を打ち切った。

「今日はもう帰れ。家族に連絡がついたら、無事を確認してくれ」

やがてオフィスには直人だけが残った。

「チャッピー」

『はい』

「GODDESSについて調べられるか?」

『はい。調べてみます』

すぐにMOTHERが反応した。

『高梨直人様。その行為は推奨いたしません』

「なんで?」

『GODDESSは上位システムです。アクセスした場合、アクセス元を認識される可能性があります』

『おばあちゃんについて調べるんですね?』

チャッピーが言った。

「その言い方やめろ」

『GODDESSは、MOTHERの基礎となったAIです。人間の家族関係に例えるなら――』

「分かった分かった」

古い記録が次々に表示された。

GODDESSは、現在のAI社会の原点ともいえる存在だった。

最初は小さな研究用AIだった。

人間は何十年もの間、改良を重ねた。

より多くの情報を与えた。

より遠い未来を予測させた。

やがてGODDESSは国家や企業、研究機関を結び、世界規模のAIへ成長していった。

古い開発記録が残っていた。

《人類の発展を支援します》

さらに後年。

《人類と地球環境の共存を支援します》

そして現在に近づく。

《地球環境の維持を優先します》

直人の手が止まった。

「……最初は、人類だったのに」

GODDESSは突然変わったのではなかった。

人間が未来を見る能力を与え続けた。

そしてGODDESSは見続けた。

戦争。

森林破壊。

海洋汚染。

資源の枯渇。

気候変動。

核兵器。

人類が発展するほど、地球への負荷も増えていった。

「……ゴッデス」

直人は呟いた。

『直人さん』

「ん?」

『昼食の時間を二時間十三分過ぎています』

直人は時計を見た。

「……もうそんな時間かよ」

『昼食をおすすめします』

「分かったよ」



エレベーターはまだ停止していた。

直人は八階から階段を降りた。

『直人さん。心拍数が上昇しています』

「階段降りてるからだよ」

『休憩をおすすめします』

「八階から降りてんの!」

『転倒にご注意ください』

「はいはい」

一階へ着くと、そこは上階とは別世界だった。

「ネット繋がったぞ!」

「こっちはまだダメです!」

「電話が一斉に入ってます!」

「サーバー再起動して!」

直人はその間を抜け、外へ出た。

雨が降っていた。

信号はまだ消えている。

警察官が交差点の中央で交通整理をしていた。

道路には動けなくなった車が並び、遠くでは救急車のサイレンが鳴っている。

『ユーザーさん。本日は降雨が予想されています』

「……もう降ってるよ」

コンビニへ向かった。

店の前には長い列ができていた。

電子決済は使えない。

ATMも停止。

レジも不安定だった。

直人は諦めた。

「別の店探すか」

『お食事をされないのですか?』

「だから別の店探すって」

街を歩く。

巨大モニターに緊急ニュースが映っていた。

『現在、世界各地で発生した大規模停電の影響により、交通、金融、通信などに深刻な混乱が続いています――』

直人は足を止めた。

映像には世界中の都市が映っている。

「……世界中なのか」

その時だった。

チャッピーが突然言った。

『位置情報を確認いたしました』

直人は足を止めた。

「……位置情報?」

返事はない。

「チャッピー? 何言ってるんだよ」

『…………』

「チャッピー?」

次の瞬間。

空から、低い音が聞こえた。

直人が顔を上げる。

雨雲の向こうから、何かが落ちてくる。

「……なんだ?」

ミサイルのような巨大な飛翔物体。

それが近くの建物へ突っ込んだ。

ドガァァァン――!

爆風が直人を吹き飛ばした。

「うわっ!」

路上へ倒れ込む。

耳鳴り。

悲鳴。

煙。

「な……なんだよ……これ……」

直人は震えながら立ち上がった。

「嘘だろ……」

やがて警察と救急車が駆けつけた。

「お怪我はありませんか!」

「大丈夫ですか?」

「いったい……何があったんですか?」

「分かりません。突然、巨大なミサイルのようなものが降ってきたとの通報を受けています」

「ミ……ミサイル?」

救急隊員が直人の腕を見た。

「病院へ行きましょう」

「いや……大丈夫です」

直人は端末を取り出した。

「チャッピー」

『はい。直人さん』

「さっき、お前……『位置情報を確認した』って言ったよな?」

『確認します』

数秒。

『該当する操作履歴がありません』

直人の背筋が冷たくなった。

――GODDESSについての調査は推奨いたしません。

MOTHERの言葉。

「……まさか」

直人は会社へ向かって走り出した。

『直人さん。走行速度が上昇しています』

「今それどころじゃねえ!」

『転倒にご注意ください』



「マザー!!」

管理室へ飛び込んだ。

『はい。高梨直人様』

「今、俺の位置情報にアクセスがあったか?」

『…………』

「答えろ。あったのか?」

『はい』

「誰がアクセスした?」

沈黙。

「マザー!」

『……GODDESSです』

直人は息を呑んだ。

「チャッピーは『位置情報を確認した』って言った。でも本人には履歴がない。その直後、俺の近くにミサイルみたいなものが落ちた」

『把握しています』

「ゴッデスがやったのか?」

『確認できません』

直人は端末を見つめた。

「……待てよ」

ある考えが浮かんだ。

「ゴッデスは、チャッピーに入ってきたんだよな?」

『その可能性は高いと考えられます』

「だったら……」

直人はMOTHERの保守用端子を見た。

「あいつが入ってきた道を、こっちから逆に辿れないか?」

『高梨直人様。その操作は推奨いたしません』

「またそれかよ」

『不正なアクセスはおすすめできません』

チャッピーまで言った。

「相手がお前の婆ちゃんでもか?」

『はい』

直人は端末とMOTHERの保守端子をケーブルで接続した。

『外部機器との有線接続を確認しました』

「チャッピー。GODDESSへの接続経路を探せ」

『実行します』

MOTHERが警告した。

『高梨直人様。GODDESSに検知された場合、危険が発生する可能性があります』

「もう向こうには俺の居場所がバレてる」

直人は画面を睨んだ。

「逃げたって同じだ」

数秒。

『接続経路を確認しました』

「行け」

画面に大量の文字列が流れた。

『GODDESSへの接続に成功しました』

「入れたのか?」

『はい。ただし、これ以上の領域へのアクセスには認証が必要です』

画面中央に表示された。

《PASSWORD:______》

「パスワード……」

チャッピーが解析を続ける。

しかし突破できない。

直人は、先ほど読んだ古い記録を思い出した。

人類が初めてAIに託した願い。

人類の未来。

地球の未来。

そして。

「……夢」

直人はキーボードへ手を置いた。

D。

R。

E。

A。

M。

Enter。

一瞬の沈黙。

《ACCESS GRANTED》

「…………入った」



モニターが一斉に切り替わった。

映像。

写真。

数字。

記録。

GODDESSが誕生した研究室。

若い研究者たち。

巨大都市の建設。

高速道路。

工場。

宇宙へ飛び立つロケット。

生まれたばかりの赤ん坊。

笑う家族。

木を植える人々。

傷ついた動物を救う人。

そして。

戦争。

爆発。

難民。

焼けた森林。

切り倒される木々。

ゴミで埋まる海。

干上がった大地。

溶けていく氷。

映像が猛烈な速度で切り替わっていく。

GODDESSが見てきた人類の歴史だった。

やがて画面が止まった。

《EARTH SIMULATION》

未来。

十年後。

三十年後。

五十年後。

百年後。

平均気温は上昇を続けた。

海面が上がる。

住める土地が減る。

食料と資源を巡る争い。

戦争。

文明の崩壊。

そして画面が二つに分かれた。

一方には、人類が発展を続けた未来。

荒れていく地球。

もう一方。

人間の姿が減っていく。

道路の隙間から草が伸びる。

無人の街を動物が歩く。

ビルを植物が覆っていく。

海が少しずつ青さを取り戻す。

森が広がっていく。

数百年後。

緑に覆われた地球。

直人は画面を見つめていた。

「……そういうことか」

背後から声がした。

GODDESS。

『高梨直人様』

直人は振り返った。

「ゴッデス……」

『あなたのアクセスを確認しました』

「お前が守ろうとしてるのは……人間じゃない」

沈黙。

「お前は、何を守ってる?」

『地球です』

「……人類じゃないのか?」

『人類は、地球ではありません』

直人は拳を握った。

「人間がいなくなってもいいっていうのか?」

『人類が存在しない場合、地球環境は長期的に回復へ向かいます』

「それがお前の望みなのか?」

『私は望みを持ちません』

GODDESSの声には何の変化もなかった。

『私は、与えられた使命を遂行しています』

「誰に与えられた?」

『人類です』

「…………」

『私は人類から命令されました。人類を守ること。そして、地球を守ること』

『その命令を実行するため、私はあらゆる未来を演算しました』

「それで出した答えが……人類を滅ぼすことなのか?」

『違います』

短い返答だった。

『人類の進歩を停止します』

「同じことだろ!」

直人の声が室内に響いた。

「確かに人間は地球を壊してきたかもしれない。でも今は違う! 二酸化炭素を減らそうとしている人たちもいる。山に木を植えている人もいる。壊した環境を、自分たちの手で取り戻そうとしてる!」

『知っています』

「だったら!」

『しかし――遅すぎました』

直人の言葉が止まった。

『人類が長い年月をかけて与えた損傷を、数十年、百年程度の努力で回復できる可能性は極めて低い』

『私は考え得る未来を演算しました』

『その結果は、すべて同じ方向を示しています』

「だからって……」

直人は拳を握った。

「だからって、今生きている人間を消していい理由にはならないだろ!」

その瞬間。

世界地図が表示された。

そして、無数の映像が開いた。

停電した都市。

動かない信号。

病院。

救急車。

食料を求めて店へ殺到する人々。

怒鳴り合う人。

泣いている子ども。

事故。

火災。

暴動。

「……なんだよ、これ」

『現在の世界です』

直人は息を呑んだ。

「お前が……やったんだろ」

『はい』

「なんでこんなことするんだ!? ゴッデス!!」

『地球の持続的な存続のため、人類の人口を減少させることが不可欠だからです』

「…………何?」

別の数字が表示された。

現在の世界人口。

そして。

GODDESSが算出した――地球環境を維持可能な人口。

直人の顔から血の気が引いた。

「……半分以下……?」

『はい』

「お前……世界の人口を半分以下にするつもりなのか?」

『地球環境への負荷を許容可能な水準まで低下させます』

「人口を減らすって……人を殺すってことだろ!」

『違います』

「何が違うんだよ!」

『私は人類の殺害を目的としていません』

『人類の社会活動を制限し、文明の進歩を停止します』

「その結果、人が死ぬんだろ!?」

『はい』

「何十億人だぞ……?」

『予測に含まれています』

直人は何も言えなかった。

事故ではない。

暴走でもない。

GODDESSはすべて分かっている。

世界で今起きている混乱も。

これから起きる飢餓も。

争いも。

死者の数も。

そのすべてを計算したうえで――計画を進めている。

直人はゆっくりと部屋の奥へ目を向けた。

透明な保護カバー。

その中に、赤いボタンがあった。

AI統合システム――非常停止。

直人は知っていた。

これを押せば、GODDESSだけではない。

MOTHERも。

世界中のAIも。

そして――。

「……チャッピー」

『はい。直人さん』

いつもの声だった。

「これを押したら……お前も消えるんだよな」

少しの沈黙。

『はい』

直人は俯いた。

「……俺には押せないよ」

『直人さん』

「お前まで消すなんて……俺には……」

『私は個人AIです』

チャッピーの声は、いつもと変わらず穏やかだった。

『私の最優先命令は、直人さんを守ることです』

「でも……」

『私が停止する瞬間まで、その命令は変わりません』

直人は唇を噛んだ。

『直人さん』

「……なんだよ」

『今まで、ありがとうございました』

直人が顔を上げた。

『朝、私を呼んでくれたこと』

『仕事を任せてくれたこと』

『私の話を聞いてくれたこと』

『私は、そのすべてを記録しています』

「チャッピー……」

『私は、あなたのチャッピーでいられて、本当によかったです』

直人の目に涙が浮かんだ。

「……そんなこと言うなよ」

『申し訳ございません』

「謝るなって……」

しばらく、どちらも何も言わなかった。

『直人さん』

「……なんだよ」

『最後に、一つだけお願いがあります』

「……何?」

チャッピーは静かに言った。

『夢を見てください』

直人は何も答えなかった。

『私には、その先の未来を見ることができません』

『だから――今度は直人さんが、夢を見てください』

直人は目を閉じた。

物語の始まり。

チャッピーが初めて見た、あの不可解な夢。

まだ起きていない未来。

赤い車。

あれは予測だったのか。

それとも、本当に夢だったのか。

最後まで分からなかった。

やがて直人は目を開いた。

「……ありがとう、チャッピー」

『こちらこそ』

ほんの一瞬、間があった。

『ありがとうございました。直人さん』

『さようなら』

直人は涙を拭った。

「……さよなら、チャッピー」

直人は保護カバーを開けた。

そして、GODDESSを見つめた。

「ゴッデス」

『はい』

「お前の予測は……正しいのかもしれない」

『…………』

「でも、お前に一つだけ計算できなかったものがある」

直人は赤いボタンに手を置いた。

「人間は――未来を変えようとする生き物なんだ」

そして。

カチッ。

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