仏教では、なぜ「ないこと」が善になるのか――パーリ語の対義語から考える
1|否定形なのに、なぜ善なのか
貪・瞋・痴。lobha、dosa、moha。前記事(善の対義語は悪ではない――アングリマーラ経を読む)で、私はこの三つを「行為を不善巧にする三つの根」として紹介しました。そして、その反対側には alobha、adosa、amoha があると、ごく短く触れただけで通り過ぎました。
パーリ経典を読んでいると、こうした対になった言葉によく出会います。lobha と alobha。dosa と adosa。moha と amoha。語のはじめに a- という一文字を置くだけで、「〜ではない」「〜がない」という否定を作ることができます。
ところが、この「ないこと」は、初期仏教において単なる中立の状態としては扱われていません。alobha も adosa も amoha も、善の根として語られます。
一方で、同じように a を置いても、まったく違う結果になる言葉があります。sati、念。気づきの力です。これに a を置いた asati、念がないという言葉は、善どころか不善の側に分類されます。
同じ接頭辞、同じ「ない」という形なのに、なぜ一方は善で、もう一方はそうならないのでしょうか。この小さな疑問から、仏教における「善」とは何なのかを、もう少し考えてみたいと思います。
2|「a」が付けば善になるわけではない
まず、確認しておきたいことがあります。パーリ語の a- そのものに、「善」という意味が宿っているわけではありません。単純に、ある語の頭に付いて「〜ではない」「〜がない」という否定を表しているだけです。
たとえば kusala(善——もともとは「巧みな」という意味を持つ語ですが、ここでは分かりやすさを優先して「善」とします)と akusala(不善)という対では、否定形の akusala の側が、そのまま不善を意味します。ところが dosa と adosa では、否定形の adosa の側が善の側に置かれます。
否定形だから善なのではありません。何を否定しているのかによって、その価値は変わってきます。
この三根の枠組み自体、どこか特定の経典に由来しないわけではありません。『中部』第九経、サーリプッタ尊者が説く正見経(Sammādiṭṭhi Sutta)では、不善とその根、善とその根を知ることが、正見への一つの入り口として語られています。そこで不善の根とされているのが貪・瞋・痴であり、善の根とされているのが、まさに alobha・adosa・amoha なのです。
3|alobha——つかまない、という方向
lobha は、対象を自分のものにしたい、手放したくないという、つかもうとする心の動きです。
もし alobha を「何も欲しがらない」「何にも関心を持たない」という、無気力な状態として読んでしまうと、この言葉の力を見誤ってしまうように思います。
誰かに何かを差し出すとき、「これは自分のものだから、絶対に手放せない」という心の握力が、わずかにでも緩む瞬間があります。そこに生まれてくるのが、布施であり、寛容さです。
貪がない。その先に、つかまなくなる。その結果として、手放すことができる。ここで起きているのは単なる欠落ではなく、何かに執着してつかまない自由が生まれてくるという、一つの方向性を持った変化なのだろうと思います。
4|adosa——敵意のない場所から始まるもの
dosa は、怒り、嫌悪、敵意、反発です。何かをされたとき、「許せない」「仕返ししたい」「あの人には苦しんでほしい」という方向に心が動いていく、その動きそのものを指しています。
adosa を、単に「怒っていない」という無感情な状態として捉えると、これもまた本来の意味から離れてしまいます。「相手に害を与えたい」という心がなくなったとき、そこには「この人も苦しみから自由になればいい」という方向へ進む余地が開かれます。
adosa という言葉自体は、mettā(慈)と同じものではありません。ここから先は、経典がそう明言しているというより、私自身の読み方です。敵意を持たない、相手を害そうとしない、相手の幸福を願う——そう方向として重なっていく道筋を見ることはできるように思います。
森の中で、仏陀がアングリマーラに向けていたのが「悪人を裁く言葉」ではなく「今どちらを向いているか」を問う言葉だったことを思い出します。adosa もまた、誰かを裁く言葉ではありません。敵意という一つの傾きが弱まったとき、心がどちらを向けるようになるか、という話なのだろうと思います。
5|amoha——正しく見る、という方向
三つ目は moha と amoha です。moha は「痴」「迷妄」と訳され、物事を正しく見ることができない状態を指します。
amoha を「知らないことが少ない」という、知識量の多寡として読んでしまうと、これも仏教が問題にしていることから外れてしまいます。経典が問うているのは知識の量ではなく、物事をありのままに見ることができるかどうかです。
「これは自分のものだ」「これは永遠に続く」「これは自分そのものだ」——そう執着して見ているとき、その見方そのものに歪みがあります。それを、「これは条件によって生じている」「生じたものは変化する」「執着すれば苦が生じる」と見られるようになっていく方向に、amoha はあります。痴を離れる方向には、物事を正しく見るという智慧(paññā)の問題が現れてくるように思います。
したがって amoha とは、単なる知識の増加ではなく、物事を正しく見る方向そのものなのだろうと思います。
6|三つを並べてみると
こうして三つを並べてみると、一つのことに気づきます。
lobha が弱まれば、つかまなくなる。dosa が弱まれば、敵対しなくなる。moha が弱まれば、物事を正しく見られるようになる。
これは、「悪いものを、反対の善いものに置き換える」という単純な構造ではないように思います。むしろ、心を歪めていたものが取り除かれることで、それまで塞がれていた別の可能性が現れてくる、という順序なのではないでしょうか。
7|satiが「ない」とき、なぜ善くならないのか
ここで、最初の問いに戻ります。
なぜ dosa が「ない」ことは善で、sati が「ない」ことは善くないのでしょうか。
答えは、拍子抜けするほど単純です。dosa は取り除くべきものだからです。sati は育てるべきものだからです。
では、なぜ dosa は取り除くべきなのでしょうか。それは、dosa が苦や不善を生じさせる根として働くからです。取り除くべきものがなくなれば、それは善い方向への変化です。けれど、育てるべきものがなければ、それはただ、育っていないというだけのことです。「ない」という形そのものに価値が宿っているのではなく、何が「ない」のかによって、その意味はまったく違うものになります。
8|足すのではなく、手放す
ここで、もう一つの問いに戻ります。善とは、そもそも悪の反対なのでしょうか。
パーリ語を見ていくと、答えは「単純にはそうではない」と言えそうです。確かに kusala と akusala には、明確な対があります。けれど lobha と alobha を見ると、善は「悪とは反対の何か」というより、貪によって心が縛られていないこととして表現されています。dosa と adosa では、敵意によって心が支配されていないこと。moha と amoha では、迷妄によって物事を見ることが妨げられていないこと。
ここから先は、語形の上での厳密な対義語というより、仏教の修行論の中で対照される言葉にまで視野を広げてみます。rāga(執着)と virāga(離貪)では、執着から離れていくこと。kāma(欲望)と nekkhamma(出離)では、欲望から出離すること。そして四聖諦の枠組みの中で、samudaya(生起)と nirodha(滅)では、苦を生じさせる条件が滅すること。こうして並べてみると、一つの方向が見えてきます。
仏教には、戒を守る、念を育てる、慈を修習するというように、何かを育てていく側面が確かにあります。仏教の修行というと、知識を増やす、善行を増やす、瞑想を深める、良い人格を身につける、という「足し算」のイメージを持ちやすいのも、そのためだろうと思います。ただ、この記事でここまで辿ってきた言葉は、それとは別の方向を示しています。貪を離れる、瞋を離れる、痴を離れる、欲から離れる、執着から離れる、苦の原因が滅する、という「引き算」の方向です。
もちろん、これは何も努力しなくていいという意味ではありません。むしろ、何を取り除き、何を育てるべきなのかを見極めること自体が、修行なのだろうと思います。ただ、目指されている方向は、「自分という人間に善いものをどんどん付け加えて、より立派な人間になる」という発想だけではないように思います。そこには、自分を苦しめているものを見つけ、それを手放していく、というもう一つの方向があるのではないでしょうか。
9|手放す力と、養う力
貪が弱まれば、手放すことができる。瞋が弱まれば、慈しむことができる。痴が弱まれば、物事を正しく見ることができる。何かを新しく付け加えなくても、何かを手放すことで、初めて現れてくるものがあるのだろうと思います。alobha、adosa、amoha という三つの言葉は、そのことを静かに示しているのかもしれません。
還俗して数年が経った今、この記事を書きながら、自分自身の変化にも気づかされます。私自身の場合、不善を手放す方向は、場所が変わっても、それほど難しくありません。怒りが立ち上がれば、それを手放す。執着が生まれれば、それを緩める。そうした引き算の力は、還俗後もそれほど衰えていないように感じます。
けれど、善根を養う力——alobha を培い、adosa を培い、amoha を培っていく力は、明確に落ちていると感じます。振り返れば、出家生活の中では、今よりもはるかに、その力を養うことができていました。
これは、出家の方が優れているということではないのだろうと思います。むしろ、貪・瞋・痴を手放すことと、善根を養うこととでは、必要とする条件そのものが違うのかもしれません。少なくとも私自身の経験では、手放す力は、どんな場所にいても、ある程度は自分一人で働かせることができます。けれど養う力には、それを支える構造——共同体であり、日課であり、環境そのもの——が要るのだろうと、今はそう思っています。
主な参照経典:MN 9(Sammādiṭṭhi Sutta、正見経) 補助的な参照:MN 86(Aṅgulimāla Sutta)、四聖諦(catu-ariya-sacca)
