我慢することに、慣れすぎていた
「どうしたい?」
そう聞かれて、
何も言えなかったことが、
何度もあった。
本当は何も思っていなかったわけじゃない。
これがいい。
これは嫌だ。
本当はこうしたい。
ちゃんと自分の中にはあった。
でも、それを口にする前に、
「こっちって言ったら、どう思われるかな」
「わがままだと思われないかな」
「みんなと違ったら嫌だな」
そんなことを考えてしまう。
だから、
「どっちでもいい」
「なんでもいいよ」
そんな言葉をよく使っていた。
今思えば、
本当にどっちでもよかったことなんて、
そんなに多くなかったのかもしれない。
ただ、自分の気持ちを言うより、
誰かに合わせるほうが安心だった。
そうやって私は、
小さな我慢をひとつずつ覚えていった。
でも当時の私は、
それを「我慢」だとは思っていなかった。
それが、
私にとっての普通だったから。
大人になったら、
もう少し自分のことがわかるようになると思っていた。
嫌なことには嫌と言えて、
やりたいことを選べて、
自分の考えをちゃんと伝えられる。
年齢を重ねれば、
自然とそうなっていくものだと思っていた。
でも、
そんなに簡単には変わらなかった。
何かを決めるとき、
まず考えるのは自分の気持ちではなく、
相手がどう思うか。
頼まれごとをされたときも、
本当は余裕がなくても、
「大丈夫です」
と言ってしまう。
少しくらいなら。
これくらいなら。
私がやれば済むから。
そんなふうに、
自分を納得させる言葉だけは
いつの間にか増えていった。
そして最後には、
「まあ、いいか」
で終わらせる。
たぶん私は、
我慢することが上手になったのではなくて、
我慢していることに気づかないのが、
上手になっていた。
もちろん、
誰かに合わせることが悪いとは思わない。
人と一緒に生きていれば、
譲ることもある。
言わないほうがいいこともあるし、
自分の思い通りにならないことだってたくさんある。
だから、
我慢を全部なくしたいわけじゃない。
ただ、
自分だけがずっと我慢すればいいとは、
もう思いたくない。
できるから、やる。
言えるけど、言わない。
嫌だけど、笑っておく。
疲れているけど、大丈夫と言う。
そういう小さなことは、
その場では何事もなく過ぎていく。
誰かに気づかれることもない。
自分自身でさえ、
すぐに忘れてしまう。
でも、
なくなったわけではないんだと思う。
言えなかった言葉も、
飲み込んだ気持ちも、
本当は嫌だったことも、
心のどこかには、
ちゃんと残っている。
そして、ときどき理由もなく疲れたり、
ひとりになりたくなったりしたときに、
「少し無理していたんじゃない?」
と教えてくれていたのかもしれない。
最近になって、
やっと少しだけ考えられるようになった。
誰かがどう思うか、その前に、
「私はどうしたい?」
と。
すぐに答えが出ないことも多い。
少し前、
「今度の飲み会、来られる?」
と誘われて、
本当は疲れていたのに、
いつもなら「行く」と即答していた。
でもその日は、
「今回はパスするね」
とだけ返した。
既読がついた画面を、
少しの間見つめていた。
そういうことが、
少しずつ増えてきた。
それでも、まだ
「どっちでもいいよ」
と言ったあとで、
本当はこっちがよかったな、
と思うこともある。
昔とあまり変わっていないように
感じることだってある。
でも、
ひとつだけ変わったことがある。
自分が我慢していたことに、
気づけるようになった。
それだけでも、
昔の私とは少し違う。
もし、あの頃の自分に会えるなら、
ひとつだけ聞いてあげたい。
「本当は、どうしたかった?」
きっと、
すぐには答えないと思う。
それでも今度は、
急かさずに待ってあげたい。
そして今の自分にも、
同じことをしてあげたい。
嫌なら、嫌だと思っていい。
疲れたなら、疲れたと思っていい。
誰かを大切にするために、
自分を後回しにすることだけが
優しさではないと思っている。
誰かの気持ちを考えるように、
自分の気持ちも考える。
ずっと「なんでもいい」と言ってきた
あの頃の自分への、
少し遅くなった返事なのかもしれない。
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