『HAPPYEND』
代替可能性について。主人公達が歩く夜の通学経路、彼らの頭上高くに高速道路が走る。双方向から行き交う車のライトがこの世界が近現代からの延長にある表層的なグローバル社会であることを端的に示す。インフラとして非常に重要な相互交通性は彼ら人間の代替可能性にどこか繋がっているような印象がある。グローバリズムが歪んだ形として彼らの国籍を問う。地理的な距離が縮まった故の功罪。たった一つのカメラでその人の情報を読み取れる。しかし、それは真実を見る目ではない。学生達と一言で称される彼らには様々な見た目があり、様々な出自がある。それが加速した近未来では尚更個人の複雑さが増している。にも関わらず、それを政治的な言葉でまとめ上げようとする圧力がある。アイデンティティを隠そうと務める白い制服を着崩す彼らは学校という権力・権威に抵抗するが、やがて卒業や退学といった理由でその服すら脱がされる。奇しくも、彼らの友情を成り立たせていたのはそうした体制の元に存在するある種の不安や恐れを共有していたからなのだと気づく時、彼らは変わらざるを得ない。学校という一つの公権力にさえ抵抗していれば逆説的に学生らしさを全うできた時期とはついにおさらばである。現実はもっと複雑で厳しいだろう。それは校長の言う通りだ。だからこそ、制服を脱いだ大人達は夜な夜な集会を開く。夜、白い制服は目立つ。クラブにも、友人との帰り道も、母との時間でさえ、権力という名の明かりが彼らが持つ純白さを照らし出し、咎めようとする。彼らはそれを拒み、暗闇の中に友人達と身を潜める。人の眼差しから逃げるように彼らの居場所である学校で、朝の日差しを全身に浴びる。彼らにとって暗闇は絶望ではない、朝を迎えるためのパーティーだ。友人達と気の向くままに騒ぐことのできる唯一の時間であり、空間である。そうした時空間さえ破壊しうるカメラを彼らは摘発するが、それも虚しい結果に終わる。彼らの自由と責任への願望を妨げたのは彼ら自身であった。数人の生徒達が白い制服を纏って、校長が設置した監視カメラに賛成の意を表した時、彼らは内なる偏見や抑圧を自覚する。世界はあまりに複雑に、強固に壁が打ち立てられている。常にコンクリートに囲まれ、彼らを圧縮しようとする社会にはもはや隠れ場所が失われつつある。イタズラ書きなどない無機質な画面を取り囲む壁、つまり柵やシャッターや手すりなどは彼らにとって居心地の良い場所などではなく、社会の規則的な枠組みやシステムに曝される場所である。名前を一方的に且つ暴力的に明かすことは、彼らから名前を奪う行為にしかなり得ず、彼ら自身が自ら名前を打ち明ける場面を与えない。強権的でさえある制服は彼らのアイデンティティを幸か不幸か結果的に強化する装いであったことが肌を露出する彼らの身体によって示されるが、その白い無地の中身を透かしてしまうカメラは国籍によって差別される社会では尚更威力を増すはずだ。制服によってある種守られていたと言える代替可能性は個の自覚への可能性でもあった。青春とはそうした個を取り戻す過程に他ならない。それは自ら能動的に行われなければ意味を為さず、カメラという機械的な目を通して行われることは決して目覚めとは言えない。社会に出てから認めざるを得なくなる個人という自覚は自らが取り替えの効かない一人の人間であることを知り、社会から自身を自衛する手段である。そして、公権力の元にではなく、有機的に自ら人と共同体を育むための必要な過程でもある。監視・管理社会とは個人が名前を保持する権利を奪う力を持つ。個人の自覚は社会への自覚を通して行われる。人がその人らしくあるために、まずは歪んだ社会に対して自らが顔を曝し、名乗り出ることが時に重要なのであろう。
