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ただ、役に立ちたい。それだけだと思ってた。|家族の役に立ちたかった私のこと #1

家族は助け合うもの。
そして、支え合うもの。

そう思ってきました。

でも。
私は、誰かを助ける、ということを
なにか誤解していて。

大学を卒業して働き始めてから
働いて得たお金のほとんどを
父の借金の返済に充てていました。

それが父の助けになっていなかったのだ
と気づくまで、何年もかかりました。



家族が、お金、人間関係など
人生で壁にぶつかっているように見えるとき、

あなただったら、
家族として、どうやって助けますか?
どうやって支えますか?

これは、父を助けようとし続けた私が
「本当に変わる必要があった人」に
気づくまでのお話です。

ご家族との関係に悩んでいる誰かの肩の荷を
少しでも軽くできたらと思いながら書いています。


まだ小学校に入学する前だったと思います。

私たち家族は、
鶴川の小さなアパートで暮らしていました。

兄と二人で子ども部屋の二段ベッドに寝ていると、
よく隣のリビングから母と父の声が聞こえてきました。

普段は穏やかな母の、張りつめた声。
いつもはよく話す父の、押し黙るような声。

幼い私には、
何を話しているのかはわかりませんでした。

でも「何か大変なことが起きている。」
そんな空気だけは
子どもながらにはっきり感じていました。


大きくなるにつれて、少しずつ、
我が家の状況がわかるようになりました。

どうやら、うちにはお金の問題があるらしい。
そして、それが思っていた以上に深刻なのだと
理解できたのは高校生になってからでした。


小学2年のときに一軒家に引っ越しました。
商業デザイナーだったことがある父がデザインした、
ユニークな作りの家でした。

父は、手先が器用で、絵が上手で、
話の引き出しが多く
興味深い話をたくさん話してくれました。

歴史のこと、地理のこと、文化的なこと、
何を聞いても答えられないことがなくて
しかも、話が面白い。
子供の頃は、そんな父が大好きでした。

でも父は、お金を稼ぐことができませんでした。
会社勤めを続けることができず
知り合いから魅力的な話を持ちかけられては
借金を増やしてしまう、ということを繰り返していました。

父の代わりに我が家の大黒柱をつとめていたのは、
お嬢様育ちで、のんびりしていて、穏やかで
人見知りをしがちな母でした。

母は、近所の子どもたちに英語を教えることと、
実家を継いだ伯父さんから時々送ってもらうお金をやりくりして
家族の暮らしを支えてくれていました。

友達のお父さんは毎日会社へ行っていると
そんな話を聞くたびに、
「うちは、少し違うんだな」そう思っていました。


高校3年生の大学受験シーズン。

いま状況を振り返ると、なぜ…と思えるのですが
当時の私は学費のことなど何も考えてなくて、
当たり前のように
親に支払ってもらうつもりでいました。

「4年間は難しいけれど2年なら」という親の言葉で
短大を受験し、合格。
入学式で着るためのスーツは、母と買いに行きました。

残すは、高校の卒業式だけ。
それが終わったら
いよいよ短大生活のスタートだ!と思っていたのですが

ある日、突然、驚いた母の声。父を責める声。
どうやら、父が母からお金を受け取っていて
入学金と受講料を支払うことになっていたようなのですが
他の支払いのことで頭がいっぱいだった父は
入学金を納める締め切り日を忘れてしまっていたのです。

穏やかな親戚の伯父さんが
電話口で、母に怒る声。

大学側に問い合わせをしましたが
当然ですが
受け入れてはもらえませんでした。

そうか。
我が家は、そこまでの状態だったのか。

私は、怒りもなくて、悲しくもなくて、
ただただ、ガッカリしていたように思います。

家族や親類が父を責める声を
壁越しに聞こえてくるのを遮断したくて
数日間、一人で部屋にこもって
なんの長編小説だったか、
とにかく分厚い一冊を読み耽りました。

本を読み終えたころには
家族や親戚も、
この、どうしようもなさを
受け入れた感じになっていました。

そうして、私は
「大学の学費は、自分で払うから」と伝え
もともと行きたかった四年制大学を目指して
自宅浪人することに決めました。


浪人するといっても
塾へ通うお金はなかったので、
高校卒業後はミスドでアルバイトをしながら
毎日、大学受験ラジオ講座を聞きながら
ひとりで勉強していました。

自分でこの生活を決めたものの、
アルバイト仲間の大学生や短大生からの
「浪人なんだ〜」という言葉に
いちいち傷ついては悔しい気持ちになるたびに、

それから、同居していた認知症の祖母に
「どうして学校へ行かないの?」と聞かれるたびに、
そして、クローゼットの中にかかる真新しいスーツを見るたび、

「父のせいで」
そんな気持ちが、少しずつ積み上がっていきました。


浪人後、私は希望する四大には落ちて
結局、前年に受かったのと同じ短大に入学しました。
その後、転入試験を受けて希望大に入るのですが
話が逸れるので、それは、またの機会に。

大学卒業後、私は就職し
何度か転職を重ねながら年俸をあげながら
大学の奨学金を返していきました。

母が病気で倒れてからは、
家族を支える役目は母から私へと移り

大学の奨学金返済に加えて
家の住宅ローン。
父自身の事業の失敗による借金。
母の病院代。

月々の支払いは、
ほぼ入ってくる金額と変わらずでしたが
なんとか出来る状態だったので
なんとか続けていました。

家族だから。
助けるのは当たり前だから。
私がやらなきゃ。

それ以外の生き方なんて、
思いつきもしませんでした。

いま振り返ってみれば
もうちょっと、調べたりしたら良かったのに。
「自分の選択が正しい」と思い込んでいて
他の選択肢が見えなかったのだ思います。


もろもろが落ち着いて
三十五歳くらいになったころ、

ようやく高校時代の友人たちに連絡し
再会することができました。

思い出話をしていると、
卒業旅行の話になり(私は行けなかった)、
その流れで大学時代にも何度もみんなで集まって
遊んでいたことを知りました。

「そうか。」
「大学時代、みんなは一緒に遊んでいたんだ。」
知らなかった。

私は、まったく余裕がなかったんだ。
時が止まっていたようでした。

でも、友人たちの時間は止まっていませんでした。
卒業旅行へ行き、大学時代にも会い、
それぞれの人生を重ねていました。

その話を聞きながら、少し羨ましくて、少し寂しくなりました。
ずっと大切に思ってきた友人たちなのに、
私は「いつか」「そのうち」と後回しにしていました。

そうしているうちに
気づいたら十年以上が経過していたのでした。

つづきます。

・・・

見つけてくださってありがとうございます。
ぜひ繋がっていただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いします。


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