僕が存在するのは君がいるから 第3章
第3章 僕の知らない僕
1
その日、彩花は厨房の奥でコーヒー豆を焙煎していた。
小型の焙煎機に生豆を入れて、火加減を見ながらハンドルを回し続ける。豆が徐々に色づいていく様子を、彩花はいつも丁寧に確認していた。パチパチという小さな弾ける音が聞こえ始めると、一爆ぜと呼ばれる工程に入った合図だった。豆の香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がっていく。
この作業は集中力が必要で、少しでも目を離すと焙煎具合にムラが出てしまう。彩花はハンドルを回しながら、豆の色と匂いに意識を集中させていた。
厨房は店の奥まった位置にあって、カウンター側の様子はほとんど見えない。麻衣がカウンターで接客をしている物音が、遠くから聞こえていた。
しばらく作業に集中していると、ドアベルの音が聞こえた。誰か入ってきたらしい。麻衣の「いらっしゃいませ」という声が続いて、それから少し間があって、聞き慣れた声が返ってきた。
彩花はハンドルを回す手を止めそうになって、慌てて意識を焙煎機に戻した。あの声だ。でも今、目を離すわけにはいかない。
カウンターの方から、話し声が聞こえてくる。最初は注文のやり取りだったのが、次第に世間話のような調子に変わっていった。麻衣の笑い声が混じるようになる。彩花は焙煎機のハンドルを回しながら、その音に耳を澄ませていた。途中、別の客が入ってきて麻衣がそちらの対応に回る音も聞こえた。オーダーを取って、コーヒーを運んで、また戻ってくる。それでも麻衣は空いた時間に、また慎之介との会話に戻っているようだった。
豆の色がちょうど良い深い茶色になったところで、彩花は火を止めた。焙煎した豆を冷却用のトレイに移しながら、厨房の入り口から少しだけ首を伸ばして覗いてみた。カウンターに置かれた観葉植物の葉の隙間から、あの人の後ろ姿が見えた。麻衣がカウンターに身を乗り出すようにして、何やら楽しそうに話している。慎之介がスマホの画面を見せながら、何かを説明していた。
「これ、見てくださいよ」
麻衣の声が聞こえてくる。何を見せているのかまでは、彩花の位置からは見えなかった。男性がスマホを覗き込んで、それから頷きながら何か言った。麻衣が「へー!」と声を上げて、笑っている。
彩花は少しだけ体を厨房の壁に寄せた。壁の端から片目だけ出して、二人のやり取りを盗み見るような格好になった。何を話しているんだろう。気になって仕方なかったけれど、今行ったら不自然だと思い、我慢した。
会話は続いていた。麻衣が身振り手振りを交えながら何か説明していて、慎之介が相槌を打ちながら聞いている。時々二人で笑い合う声が聞こえてきて、その度に彩花の胸がちくりと痛んだ。
どのくらい時間が経ったのか、彩花にはわからなかった。焙煎したばかりの豆が、トレイの上でゆっくりと冷めていく。それでも彩花は厨房の壁から離れられなかった。
ようやく男性が腕時計に目をやって、「そろそろ行きますね」と言っているのが聞こえた。麻衣が「また来てくださいね」と手を振る。男性は席を立ち、会計を済ませて店を出ていった。ドアベルの音が鳴って、店内の空気が少し緩んだ。
彩花は素早く厨房の奥に戻って、冷めた豆を袋に移す作業に取りかかった。
麻衣が厨房に戻ってきた。にやにやしながら、彩花に近づいてくる。エプロンのポケットに手を入れたまま、いかにも報告したそうな顔をしていた。
「彩花さん、聞きました?」
「何を」
「あの人の名前」
彩花は豆を移す手を止めた。
「え、聞いたの?」
「はい。世間話してたら、自然に流れで」
麻衣は得意げに言った。彩花は少しむっとした。何ヶ月も名前を聞けずにいたのに、麻衣はあっさり聞き出していた。
「なんで先に聞くのよ」
「え、だって彩花さん全然聞けてないから、私が代わりに」
悪気なく言う麻衣に、彩花はさらにむっとした。悔しい。自分が何度もチャンスを逃してきたのに、麻衣はさらっとやってのけた。
「で、なんて名前だったの」
聞きたいような、聞きたくないような、複雑な気持ちだった。
「一ノ瀬さんです。下の名前は……」
麻衣がわざとらしく言葉を止めて、にやにやしながら彩花の顔を覗き込んだ。
「教えてほしいですか?」
「教えてよ、もったいぶらないで」
「うーん、どうしようかな」
麻衣は明らかに面白がっていた。彩花は少しむきになって、麻衣の腕を軽く叩いた。
「いいから教えて」
「はいはい、慎之介さんです」
あっさりと言われて、彩花は拍子抜けした。あんなにもったいぶっていたのに。
「慎之介……」
小さく口の中で呟いてみた。その名前が、思っていたよりしっくりときた。何度も見てきたあの顔、あの笑い方に、ようやく名前がついた気がした。
「なんか嬉しそうですね」
麻衣がまたにやにやしながら言う。彩花は慌てて表情を引き締めた。
「別に、普通だし」
そう言いながらも、口元が緩んでいるのが自分でもわかった。
2
彩花は、その日も朝からそわそわしていた。
午後の遅い時間帯、店内には他に客が二人しかいなかった。窓際のテーブルでノートパソコンを開いている女性と、テラス席で本を読んでいる年配の男性。静かな午後だった。
引き戸が開いて、いつもの姿が見えた瞬間、彩花の胸が小さくジャンプした。慎之介は今日も自然な足取りでカウンター席に向かい、腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
彩花はメニューを差し出そうとして、途中でやめた。
「いつものでいいですか?今日はチーズケーキがおすすめです」
「あ、じゃあそれも」
彩花はカウンターの奥に戻って、モカエキスプレスを手に取った。指先で豆を計量する感覚も、もう体に馴染んでいた。ポットに水を入れ、フィルターに挽いた豆を詰める。丁寧に均して、ポットをコンロの上に置いた。
火をつけると、じわじわと熱が伝わっていく音が聞こえてくる。彩花はその音を聞きながら、カウンター越しに慎之介の様子をちらりと見た。今日は珍しく、スマホをいじらずに、窓の外を眺めている。
しばらくして、ポットの中で小さな音がし始めた。エスプレッソが抽出され始めた合図だった。彩花はコンロの火を弱めて、抽出の様子を見守った。濃い茶色の液体が、細い注ぎ口から少しずつ上がってくる。この瞬間がいつも好きだった。豆の香りが一番強く立ち上がる瞬間。
ポットを持ち上げて、小さなカップに注ぐ。チョコレートケーキをお皿に切り分けて、ブラウンシュガーとミルクピッチャーを添えて、トレイに乗せる。
カウンターまで運びながら、彩花のトレイを持つ手が少し弾んでいた。今日は珍しくスマホをいじらずに窓を見ている慎之介の横顔を思い出すと、口元が緩んでしまう。まだ本人には言っていない、その名前を頭の中で呟きながら、彩花はどこか浮ついた足取りでカウンターに向かっていた。
カウンターの前に立って、カップをトレイから持ち上げようとした瞬間だった。気持ちが上の空になっていたせいで、彩花の指先が滑った。
「あっ」
小さな声が出た。カップが傾いて、まだ湯気の立つエスプレッソが、慎之介のズボンの膝のあたりにかかった。
「慎之介さん、大丈夫ですか!」
頭が真っ白になったまま、彩花は思わずその名前を口にしていた。慌ててエプロンのポケットから布巾を取り出して、慎之介の膝に近づく。彩花の手が震えていた。
慎之介は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに落ち着いた様子で自分でズボンを軽く払った。
「あ、大丈夫です、大丈夫」
彩花は布巾を持ったまま、どうしていいかわからずに立ち尽くしていた。
「本当にすみません、火傷とかしてないですか」
「大丈夫です、そんなに熱くなかったので」
慎之介はむしろ、彩花の方を心配するような顔をしていた。彩花の手が震えているのに気づいたのか、少し身を乗り出すようにして言った。
「あなたの方こそ、大丈夫ですか。手、震えてますよ」
その一言に、彩花は胸がぎゅっと締め付けられた。
「あ、はい、大丈夫です……本当にすみませんでした」
彩花は何度も頭を下げた。厨房から麻衣が慌てて出てきて、新しいおしぼりと乾いたタオルを持ってきた。
「クリーニング代、お支払いします」
彩花が言うと、慎之介は少し笑って、わざと大げさに肩をすくめた。
「いいですよ、そんな。それより、そっちが落ち込んでる方が心配です」
その言葉に、彩花の胸の奥がじんと熱くなった。今度は突風でも台風でもなく、もっと静かで、深いところに沈み込んでいくような感覚だった。
少し落ち着いてから、慎之介が少し首を傾げるようにして言った。
「ところで、俺の名前……何で知ってるんですか」
彩花は一瞬固まった。頬が一気に熱くなるのがわかった。
「あ……すみません、勝手に。麻衣に、その……」
「ああ、麻衣さんに聞いたんですね」
慎之介は納得したように頷いてから、少し照れくさそうに笑った。
「でも、俺、あなたの名前、ちゃんと聞いてなかったですね」
彩花は喉の奥が小さく詰まるのを感じた。
「あ、彩花です。三浦彩花」
「彩花さん、ですね」
その一言で、二人の間の距離が、また少し縮まった気がした。
3
ズボンにエスプレッソがかかった瞬間、彩花が慌てて布巾を持って駆け寄ってきた。膝の高さまで屈んで、必死な表情でズボンを拭こうとする彩花の顔が、あの瞬間、すぐ目の前にあった。
いつもはカウンター越しに見ていた顔だった。少し離れた距離から、注文を聞かれて、コーヒーを出されて、たまに言葉を交わす。それだけの距離感だった。
でもあの瞬間、彩花の顔は驚くほど近くにあった。
色白の肌に、長いまつ毛。くっきりとした二重の瞳は、どこか幼さを残しながらも、真剣な光を宿していた。すっと通った鼻筋、少しふっくらとした唇。派手さはないのに、透明感があって、まっすぐこちらを見つめてくる目に、思わず吸い込まれそうになった。眉を寄せて、頬がうっすら赤くなっていた。可愛い、と思わず声に出しそうになって、慌てて飲み込んだ。
いや、待て、俺は今何を考えてるんだ。心の中でセルフツッコミを入れる。ズボンにコーヒーをかけられて、それどころじゃなかったはずなのに。変態かよ、と自分に突っ込みたくなった。
でもその一瞬に見た彩花の顔が、頭から離れなかった。素の表情だった。取り繕う余裕もなく、ただ純粋に慎之介を心配していた顔。
その顔を見た瞬間、頭の中で何かが切り替わった気がした。
「慎之介さん、大丈夫ですか」
あの声が、耳の奥にまだ残っている。
信号待ちで止まって、慎之介はヘルメットの中でぼんやりと考えていた。今まで何度もこの店に通ってきた。でも、あそこまで近くで顔を見たのは、初めてだった気がする。
信号が青になって、アクセルを捻る。エンジンの音が体に伝わってくる。走りながら、また彩花の顔を思い出していた。三浦彩花。今日、初めて知った名前だった。
あの至近距離で見た顔が、頭から離れなかった。
環七を走りながら、これまでとは違う感覚があることに気づいた。今までは、あの喫茶店に行くのは、なんとなく落ち着く場所だから、という理由だった。彩花のことは、感じの良い店員さん、という程度の認識でしかなかった。
でも今日、あの距離で彩花の顔を見て、初めて気づいた。この人のことを、もっと知りたい。
家に着いて、駐輪場にバイクを止めた。ヘルメットを脱いで、ふと空を見上げる。夕暮れの空が、オレンジ色に染まり始めていた。
彩花さん。
もう一度、心の中でその名前を呟いた。あの真剣な顔が、まだ頭に残っていた。
4
数日後、慎之介はまた店を訪れた。
辞めるかどうか、まだ答えは出ていなかった。でも、心のどこかではもう決めているような気がしていた。今日も体調不良と偽って会社を休んで、余っている有給をこっそり消化していた。誰にもまだ言っていない。辞めると決めたわけでもない。ただ、少しずつ会社から距離を置き始めていた。
平日の午後、下北沢の路地は昼下がりの穏やかな空気に包まれていた。古着屋の看板の影が長く伸びて、通りを歩く人の足取りものんびりしていた。店に近づくと、オープンテラスの席に一組のカップルが座っていて、笑い合っているのが見えた。
引き戸を開けると、ドアベルが小さく鳴った。店内はそこそこ賑わっていて、窓際の席にはノートパソコンを開いた常連らしき女性、テラス側には老夫婦らしき二人組が座っていた。カウンター席に腰を下ろすと、彩花が「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。あの日の出来事があってから、彩花の笑顔が少しだけ違って見えた。前より柔らかい、というか、こちらを見る目に何か温度が加わったような気がした。
「いつものでいいですか?」
「はい、お願いします」
彩花がカウンターの奥に戻って、モカエキスプレスを準備し始める。豆を計量する手つき、フィルターに詰める仕草。慎之介はカウンターに肘をついて、その手際を眺めていた。
「この前は、本当にすみませんでした」
彩花がコンロに火をつけながら、ふと言った。まだ気にしているらしい。
「もういいですよ、それより新しいズボン買えたので、逆に良かったです」
慎之介がそう言うと、彩花の手に持っていたスプーンが、一瞬だけ止まった。眉が申し訳なさそうに下がる。
「え、買い直したんですか……本当にすみません」
「いや、冗談です。汚れたところ、洗ったら普通に落ちましたよ」
慎之介がおどけたように言うと、彩花はほっとしたように息を吐いて、それから少し呆れたように笑った。
「もう、驚かさないでください」
「すみません、つい、いじめたくなって」
慎之介が笑いながら言うと、彩花もつられて笑った。それから、いつものようにメニューを差し出そうとして、ふと思い出したように言った。
「あ、今日はガトーフレーズもあります。よかったら」
「じゃあそれで」
「かしこまりました」
彩花がショーケースからケーキを取り出して、包丁で丁寧に切り分ける。生クリームの断面が、白く滑らかに光っていた。皿に乗せて、フォークを添える。
「甘いもの、本当に好きなんですね」
彩花がケーキを運びながら、ふと聞いた。
「まあ、意外とそうなんです。見た目とギャップあるってよく言われます」
「わかります、私も最初驚きました」
その一言に、慎之介は少し照れた。彩花が自分のことを、最初から気にかけていたのかもしれない、とふと思った。
エスプレッソとケーキがカウンターに置かれる。慎之介はカップを手に取りながら、ふと聞いてみた。
「彩花さんは、いつからここで働いてるんですか」
彩花は少し照れくさそうに答えた。手の中の布巾を、意味もなく畳み直している。
「働いてるっていうか……実は、私がここのオーナーなんです」
「え、そうなんですか」
慎之介はカウンターの向こうに立つ彩花の姿を、改めて見直した。てっきり雇われている店員だと思っていた。
「昔から、自分の店を持つのが夢だったんです。大学を出て、カフェで修行して、二年前にやっと」
「すごいですね、夢を叶えたんですね」
「いや、まだ全然夢の途中って感じです。やりたいことは、もっとたくさんあって」
その言葉に、慎之介は何か引っかかるものを感じた。夢を叶えたはずなのに、まだ途中だと言う。自分にはない感覚だった。
途中、もう一人のアルバイトの女性が「彩花さん、こちら会計お願いします」と声をかけてきて、彩花は一旦カウンターを離れた。慎之介はその間、店内をぼんやりと眺めていた。彩花が別の客の対応をしている姿も、いつもと違う一面に見えた。テキパキと会計を済ませて、テーブルを片付けて、また戻ってくる。
しばらくして、彩花がカウンターに戻ってきた。少し息を弾ませていた。
「すみません、待たせちゃいましたね」
「いえ、全然」
会話がまた自然に再開する。
「休みの日とか、何してるんですか」
慎之介が聞くと、彩花はしばらく考えてから答えた。
「映画観るのが好きですね。あと、漫画も結構読みます」
「あ、俺も映画好きです。どんなの観ます?」
「最近だと、韓国映画とかヨーロッパの映画が多いかもです」
「あ、それわかります。俺もミニシアター系よく行きます」
二人で顔を見合わせて、少し口元を緩めた。
「音楽は?」
彩花が聞くと、慎之介は少し考えてから答えた。
「洋楽が多いですけど、最近は日本のシティポップも聴いてます」
「え、私も最近シティポップにハマってて」
「マジですか」
思いがけない共通点に、二人とも少し笑ってしまった。会話は途切れることなく続いていく。彩花の店へのこだわり、豆の焙煎の話、慎之介の古着好きの話、好きな漫画のタイトル、映画の感想。他愛もない会話が、いつまでも続いていく。時々、他の客のオーダーが入ると彩花は席を立ち、また戻ってきて、話の続きを自然に拾い上げた。
「あ、もうこんな時間」
彩花がふと壁の時計を見て言った。慎之介も釣られて時計を見ると、三時間近く経っていた。
「え、そんなに話してましたっけ」
「私もびっくりしてます」
二人で顔を見合わせて、少し笑った。
「そういえば、今度実家帰るんで、山梨のお土産買ってきますね」
慎之介がふと言った。
「え、実家、山梨なんですか」
「はい。じいちゃんのお墓参りも兼ねて」
彩花はふと、その言い方に引っかかった。両親の墓参りじゃなくて、じいちゃんの。
「おじいさんのこと、大事にされてたんですね」
慎之介の表情が少し複雑になった。
「昔は、正直ちょっと怖かったんです。厳しそうな人で。でも病気で寝込むようになってから、なんでか毎日みたいに家に行ってました。話を聞くのが、いつの間にか好きになってて」
「そうだったんですね」
「戦争の話とか、よくしてくれました。今思うと、貴重な話だったんですけど、正直あんまり覚えてないんですよね」
慎之介は少し苦笑した。
「でも、あの部屋の空気とか、声のトーンとか、そういうのは今でも覚えてます」
その一言に、彩花は何か大切なものに触れた気がした。
「素敵ですね、そういう記憶」
慎之介は少し照れくさそうに笑った。
話が一段落したところで、慎之介は財布を取り出した。
「お会計、お願いします」
「大丈夫です、今日はサービスです」
彩花がさらっと言った。慎之介は思わず目を丸くした。
「え、いいんですか」
「この前のお詫びも兼ねて」
「いや、それはもう十分謝ってもらいましたよ」
「いいんです、私がそうしたいので」
彩花がにっこり笑うと、慎之介はそれ以上何も言えなくなった。
「ありがとうございます、じゃあ次は俺が何か奢りますね」
その一言が、思ったより自然に口から出た。彩花は少し目を見開いて、それから小さく頷いた。
「楽しみにしてます」
6
週末、慎之介はバイクで山梨へ向かった。
中央自動車道を走りながら、久しぶりの帰省に少し緊張していた。何か特別なことがあるわけじゃない。ただ、明日じいちゃんの墓に行くことを考えると、胸のどこかがざわついた。何者にもなれていないまま、じいちゃんに会いに行く。そのことへの後ろめたさが、走っている間もずっと胸の奥にあった。
トンネルを抜けるたびに、山の緑が少しずつ深くなっていく。都心の灰色の景色から、少しずつ故郷の色に変わっていく感覚があった。
高速を降りると、見慣れた景色が広がっていた。田んぼの緑、遠くに霞む山の稜線、子供の頃から変わらない古い商店の看板。信号待ちのたびに、懐かしさと同時に、少しの息苦しさを感じた。この街には、慎之介が「何でもできた頃」の記憶が、そこかしこに残っている。あの頃の自分と、今の自分の差が、走るたびに際立っていく気がした。
実家に着くと、母親が玄関先で出迎えてくれた。
「おかえり、久しぶりね」
「うん、ただいま」
久しぶりに見る実家の玄関、脱ぎ散らかされたスリッパの並び、居間から漂う夕飯の匂い。子供の頃からずっと変わらない家の匂いが、体の奥に染み込んでくるようだった。
姉ちゃんも実家に来ていて、リビングでテレビを見ていた。
「あ、慎ちゃん久しぶり」
「久しぶり、姉ちゃん」
姉ちゃんは病院の休みを利用して帰ってきていたらしい。白い部屋着姿で、髪をひとつに結んでいた。
夕方まで、慎之介は自分の部屋で荷物を整理したり、テレビを見たりして過ごした。高校まで使っていた学習机が、そのまま残されていた。引き出しを開けると、古いCDや、高校時代の文化祭のパンフレットが出てきた。懐かしさに、しばらくその場に座り込んでいた。
夕方、母親が台所で夕飯の支度を始めた。慎之介は居間に降りて行って、テレビをつけたまま、姉ちゃんと少し話した。
「最近、仕事どう?」
姉ちゃんに聞かれて、慎之介は言葉を濁した。
「まあ、ぼちぼち」
その答えに、姉ちゃんは少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
夕飯は、母親お手製の煮物とご飯、味噌汁だった。三人で食卓を囲みながら、他愛もない話をした。母親が最近の近所の噂話をして、姉ちゃんが病院での出来事を軽く話す。慎之介は自分の話題になりそうになるたびに、うまく話をかわしていた。
食事が終わって、姉ちゃんがふと言った。
「おじいちゃんのお墓、行った?」
「いや、明日行こうと思ってる」
「あ、そうなんだ。私、今日の午前中に一人で行ってきたよ。慎ちゃんが来るの、実は昨日まで知らなかったから」
姉ちゃんは少し申し訳なさそうに言った。
「そっか、じゃあ入れ違いだったな」
「今度、一緒に行ける時にまた行こうよ」
慎之介がそう言うと、姉ちゃんは頷いた。
その夜、慎之介は自分の部屋の布団に入りながら、天井を見上げていた。実家の天井は、東京の部屋の天井とは違う模様をしていた。子供の頃から見慣れたその木目を眺めながら、なぜか少しだけ心が落ち着くのを感じた。
翌朝、慎之介は仏壇に手を合わせてから、線香とお供え用の花を持って家を出た。じいちゃんの墓は、実家からバイクで十五分ほどの、山の裾野に建つ古い寺にあった。江戸時代から続く由緒あるお寺で、大きな山門をくぐると、両脇に立派な松の木が並んでいた。境内を抜けて、墓地に続く小さな石段を登っていく。段差が古く、苔むした石が足元で滑りやすい。
墓地は寺の裏手、山の斜面に沿って広がっていた。古い墓石が、木々の間にひっそりと並んでいる。一族の墓は、その中でも少し奥まった場所にあった。木漏れ日が墓石の表面に細かい影を落としていて、風が吹くたびに山全体がざわざわと音を立てた。
墓石の前に立つ。「一ノ瀬家之墓」と刻まれた文字が、長年の風雨で少しかすれていた。周りには誰もいない。鳥の鳴き声だけが、遠くから聞こえてきた。
柄杓で水をかけて、墓石を軽く拭う。花立てに残っていた古い水を捨てて、柄のついたスポンジで内側をこすった。新しい花を挿して、線香を一本取り出す。ライターの火をつけようとして、思い直した。備え付けの蝋燭に火を移して、そこから線香に火をつける。煙がまっすぐ立ち上って、風に少しずつ流されていく。
「じいちゃん、久しぶり」
小さく呟いた。手を合わせて、目を閉じる。特に何を祈るわけでもなかった。ただ、じいちゃんの言葉を、また思い出していた。
お前は、特別なものを持ってるからな。
あの日から何年経っても、その言葉は色褪せなかった。むしろ、年を重ねるごとに重さを増していった。子供の頃は、それがただの励ましだと思っていた。優しい言葉だと思っていた。でも今は違う。特別なものが何なのか、いまだにわからないまま、その言葉だけが自分の中に居座り続けている。
じいちゃんは、きっと軽い気持ちで言ったんだろう。孫を励ますつもりで、何気なく口にしただけだったのかもしれない。でもその一言が、二十九年間、自分の中でどんどん形を変えて、今では逃げ場のない重石になっていた。
特別なものを持ってるはずの自分は、何一つ手にしていない。じいちゃんが期待していたであろう何かに、まだ辿り着けていない。手を合わせながら、その事実が改めて胸に重くのしかかってくるのを感じた。
その言葉が、今も自分の中で重くのしかかっていることを、じいちゃんは知らないだろう。手を合わせたまま、しばらくその場に立っていた。木々の隙間から差し込む光が、ゆっくりと動いていた。
どのくらい経ったのか、慎之介はふと目を開けた。墓石を見つめながら、山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
お墓参りを終えて、石段を下りていくと、スマホが震えた。地元の友人、智也からの連絡だった。
「今日、夜空いてる?飯行こうぜ」
慎之介は少し迷ってから、返信した。
「いいよ」
6
夜、慎之介は智也と地元の居酒屋で待ち合わせた。
駅前の商店街にある、昔からよく利用していた店だった。智也は自分の店をバイトに任せて、久しぶりに慎之介と飲むために時間を作ってくれたらしい。カウンター席に並んで座って、生ビールで乾杯する。
「わざわざ休み取ってくれたの?」
「いいって、いいって。お前が帰ってくるの久しぶりだし」
智也は最初から飲む気満々だった。
しばらくは近況を話し合った。智也の店の話、共通の友人の話、他愛もない世間話が続いた。ビールから日本酒に切り替わって、智也の口調が少しずつくだけていく。
「そういえば、慎之介、東京の仕事どうよ」
「まあ、ぼちぼち」
智也は特に深く聞いてこなかった。その気楽さが、慎之介には少しありがたかった。
酒が進むにつれ、話は昔の思い出話に移っていった。中学、高校の頃の話。共通の友人の近況。誰と誰が結婚したとか、誰が地元を出て行ったとか。
智也は既に顔が赤くなっていて、呂律も少し怪しくなっていた。
「そういえばさ」
智也が少しろれつの回らない声で言った。
「高校の時、俺、絶対お前より先に彼女作ってやるって思ってたんだよな」
「え、そうだったの」
慎之介は初耳だった。
「俺の方が背も高いし、顔も整ってるんだから、彼女も俺の方が先にできるだろって、勝手に思ってたんだよな」
智也は笑いながら言っていた。声のトーンは軽かったけれど、その言葉には、昔からずっと持っていた優越感が滲んでいた。
「結局、お前の方が先に彼女できたんだよな。あれ、地味に悔しかったわ」
慎之介は、その言葉に固まった。冗談っぽく言われるならまだよかった。でも今の智也の口調は、明らかに本音そのものだった。
「知らなかった、そんな風に思ってたなんて」
慎之介がそう言うと、智也は少し呆けたような顔で笑った。
「まあ、昔の話だけどさ」
そう言いながらも、智也はまだ何か言い足りなさそうな顔をしていた。慎之介は何と返せばいいかわからず、グラスを口に運んだ。酒の味が、いつもより苦く感じた。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残った。智也がここまで本音を漏らすのは初めてだった。でも今、それを指摘したところで、酔っている智也には響かないだろう。慎之介はただ黙って、話題が変わるのを待った。
しばらくして智也は、また別の話を始めていた。昔のクラスメイトの話、地元のイベントの話。さっきの発言のことは、もう記憶から消えているような気軽さだった。
慎之介は、そんな智也を横目に見ながら、自分の胸の中だけに、その言葉を留めておくしかなかった。
会計の時、智也が伝票を持って言った。
「今日は俺が出すよ。地元帰ってきてくれたお祝いってことで」
「いや、悪いよ」
「いいって、いいって。また来いよ」
慎之介はまた、ありがとう、と言って笑顔を作った。何度目かわからない、この感覚。ありがたいと思う反面、胸の奥がまた少し重くなった。
店を出て、智也と別れた後、慎之介は一人で夜道を歩いた。空には星がいくつか見えた。東京では見られない数の星だった。
俺には特別なものがある、と誰かに言われた。でも今、俺の周りにいる人間は、誰も彼も、何かしらの形で俺に劣等感を抱いていたらしい。中村も、智也も。
それなら、俺の特別なものって、一体何だったんだろう。
夜道を歩きながら、その問いだけが、また頭の中で回っていた。
7
月曜の朝、慎之介はバイクで東京に戻った。
子供の頃の部屋で目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、絨毯の上に細い線を作っていた。昨夜は智也と結構遅くまで飲んでいたけれど、体調は悪くなかった。
台所に降りると、母親が朝食の支度をしていた。焼き魚と味噌汁、卵焼き。子供の頃から変わらない朝食だった。
「昨日、遅かったね」
「うん、智也とちょっと飲みすぎた」
母親は特に何も言わず、味噌汁をよそってくれた。食卓に座って、湯気の立つ味噌汁を一口飲むと、体の中に染み込んでいくようだった。
朝食を済ませて、着替えて、荷物をまとめた。玄関で靴を履きながら、母親に「またね」と声をかける。
「気をつけてね」
母親の声を背中に聞きながら、家を出た。
駐輪場のバイクにまたがって、ヘルメットを被る。キーを差し込んで、セルボタンを押すと、いつもの低い鼓動が体に伝わってきた。
朝の光が、住宅街の屋根に反射していた。空気はまだ湿り気を帯びていて、パーカーの袖口から入り込む風が心地よかった。住宅街の細い道を抜けて、中央自動車道に入る。トンネルを抜けるたびに、山の緑が少しずつ都会の灰色に変わっていく。
走りながら、智也の言葉が、まだ頭の中に残っていた。
俺の方が背も高いし、顔も整ってるんだから、彼女も俺の方が先にできるだろって、勝手に思ってたんだよな。
智也とは、外見のことでからかい合うような関係ではなかった。進路の相談をしたり、悩みを打ち明けたり、たまに馬鹿な話で盛り上がったりする、そういう友達だった。だからこそ、昨夜聞いた本音が、余計に慎之介の中で重かった。
あんなに気楽に話せる相手だと思っていたのに、その内側に、ずっと自分を下に見ていた部分があった。しかもそれは、外見という、慎之介が意識したこともない部分だった。
その事に傷ついている自分がいるのに驚いた。智也は悪意があって言ったわけじゃない。ただの酔った勢いの一言だった。それでも、その一言が胸の奥に静かに闇を張って、簡単には消えてくれなかった。
信頼していたはずの人間の中に、ずっと隠されていた優越感があった。それに気づかなかった自分にも、少し情けなさを感じた。
中村と田辺に奢ってもらった時の惨めさが、また頭をよぎった。昨夜も、智也に奢ってもらった。地元に帰るたびに、誰かに奢ってもらっている。金がないと思われているんだろう、と思うと、余計に情けなくなった。
環七に入ると、都会の景色が戻ってきた。信号待ちで止まると、隣に並んだ車の窓が、また少し閉まった。気づいていないふりをした。
東京に着く頃には、もう昼近い時間になっていた。アパートの駐輪場にバイクを止めて、階段を上る。部屋のドアを開けると、いつもの六畳の匂いがした。
荷物を下ろしながら、ベッドに腰を下ろした。昨日一日のことを振り返る。じいちゃんの墓、智也の告白、地元の景色。全部が、自分の中の「特別なもの」という言葉に繋がっていく。
誰も彼も、自分に対して何かを抱えていたことを知って、少しは楽になるかと思った。でも実際は逆だった。特別なものを持っているはずの自分が、周りにこんなに影響を与えていたのに、その本人だけが、その特別なものの正体を知らない。それが、余計にみじめだった。
俺の特別なものって、何なんだろう。
その問いに、今夜も答えは出なかった。ただ、これまでよりも重く、その言葉が胸の奥に沈んでいくのを感じた。
ベッドに横になって、天井を見上げた。
何でもできて、何でも持っていると思われていた自分は、実は誰よりも空っぽだった。特別なものなんて、最初からなかったのかもしれない。じいちゃんの言葉は、ただの思い込みだったのかもしれない。
二十九年間、俺は一体何をしてきたんだろう。
小学校の頃、あんなに輝いていた自分は、今どこにいるんだろう。宇宙飛行士になりたいと本気で思っていた頃の自分は、もういない。何かできるはずだと信じていた自分も、もういない。今、ここにいるのは、誰かに奢られ続けて、誰かに見下されていたことにすら気づかず、二十九年間ただ生きてきただけの、空っぽの人間だった。
窓の外では、昼過ぎの光が容赦なく差し込んでいた。その明るさが、今の自分には眩しすぎた。カーテンを閉めて、部屋を薄暗くした。それでも、頭の中の重さは消えなかった。
仰向けのまま、右手をゆっくりと天井に向かって伸ばした。何かを掴もうとするように、指先を軽く開く。そのまま、しばらく手を伸ばし続けた。
やがて、その手を力いっぱいベッドのマットに叩きつけた。バンッ、という音が部屋に響いて、マットが大きく跳ねた。それでも、何も晴れなかった。
体を起こす気力すら、湧いてこなかった。
第4章へつづく
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