「ありがとう」の余白──パッケージ化されたサービスが奪うもの
焼鳥屋のおばちゃんのゆで卵
商店街の裏路地に、小さな焼鳥屋がある。
おばちゃんが一人で切り盛りしていて、数本の焼鳥を買うと、必ず「ありがとうね」とにこやかに声をかけてくれる。さらに、ゆで卵をひとつ入れてくれたり、別の串をおまけしてくれたりすることもある。
その“サービス”は、壁のメニューにも、店先の看板にも書かれていない。けれど私はその小さなやり取りの中に、確かに心が宿っていると感じる。私は焼鳥そのものよりも「おばちゃんから買いたい」と思って足を運んでいるのだろう。
この「ありがたさ」は、値段には換算できない。
すべてを明文化する社会
今の社会では、どんなサービスも「どこからどこまでが含まれるか」を示すことが求められる。学習塾も例外ではなく、「週◯回・◯分授業」「教材費込み」「◯◯サポート付き」といったパッケージ化が当たり前になった。
もちろんそれは、安心や信頼をもたらす大切な仕組みだ。だがその一方で、焼鳥屋のおばちゃんのゆで卵のような「余白」は、仕様の外にこぼれ落ちてしまう。
余白が生む「ありがたさ」
すべてを説明し尽くすと、「これは料金に含まれますか?」「契約外ですよね?」という線引きが人と人の間に入り込む。すると「してもらって当然」だけが残り、「ありがたい」と感じる場面は減っていく。
けれど、心を込めた小さな行為――
疲れて見えた子にそっと声をかけること。
今日はよく頑張ったから、少し長く残って一緒に振り返ること。
そうした気遣いは仕様の外にあるからこそ、受け取ったときに「ありがたさ」が生まれる。
教育における「余白」
塾もまた「人と人」で成り立つ場だ。授業時間や教材管理といった仕組みは信頼の土台になるが、それだけでは子どもの心には届かない。子どもが本当に頑張ろうと思えるのは、「自分を見てくれる人がいる」と感じたときだ。
その感覚は、マニュアルやコース案内には記せない。だからこそ教育には「余白」が必要なのだ。
「ありがとう」が通い合う場へ
焼鳥屋のおばちゃんは、値段の中にゆで卵を入れているのではない。「いつもありがとうね」という気持ちを自然に差し出してくれている。その心に触れるから、受け取った側も心から「ありがとう」と返したくなる。
塾もまた、便利さや合理性だけではなく、人と人との温かいつながりを大切にしたい。
「ありがとう」が自然に通い合う余白のある場でありたいと、私は思っている。
