残りわずかの歯磨き粉で
街ですれ違った人の香水の香りで、同じ香りをしていた昔の誰かを思い出すみたいに、
歯磨き粉が残り少なくなった時、私は、かつての同僚Nちゃんを思い出す。
Nちゃんは、なんと言うか「人格が完成された」という感じの、欠点が見当たらない人だった。たぶん、小6くらいで人生の悟り開きを済ませている。
ある日の昼休み、私は会社の女子トイレで残りわずかな歯磨き粉を出そうと、チューブを懸命に絞っていた。たまたま隣にいたNちゃんは
そんな私を見て、「貸して」と言ってそのチューブを手に取った。
Nちゃんは歯磨きチューブの蓋を開け、ペタンコになったチューブの形を整えた。チューブには、それで自然と空気が入った。
そして蓋を閉め右手でチューブを持ち、腕を伸ばして円を描くように、歯磨きチューブをブルンブルンと回転させはじめた。
完成された人であるNちゃんが真面目な顔をしてチューブを何回もまわす姿を、私は大笑いしながら見ていた。
その後、遠心力で集められた歯磨き粉は
「プフォッ。。」
と情けないような音を出しながら、1.5回分くらいの量で私の歯ブラシの上に乗った。音とそれに合わない量がまた可笑しかった。
その日以降私は、歯磨き粉の最後は、ブン回し方式を採用するようになった。
Nちゃんはその当時、大人の事情をふんだんに抱えた恋愛をしていた。なかなか山あり谷ありな様子だったことを記憶している。
そのような事情があったため、私はNちゃんの恋愛について詳しいことは知らなかったが、その相手の声は一度だけ聞いたことがあった。Nちゃんがその人と電話をしている横を通りかかった時だった。
ハキハキとしていて大きな声が、電話から漏れていた。その強そうな雰囲気の声を聞いて、私は勝手にラガーマンみたいな人を想像した。この声の感じはスタンドオフだな、と、ポジションまで勝手に設定した。
季節が秋から冬に変わる時期の、寒い日の午後
Nちゃんは私とすれ違いざまに、
「あたしさ、暇になったから」
と言って、スッと去っていった。
スタンドオフとの恋愛が終了した事を、何でもないことのように言った。
その日の夜は、会社の飲み会があった。
Nちゃんはいつもよりずっと早いペースで飲み、二次会の店でトイレにこもってしまった。
3つある個室の一番奥を陣取って、しばらくの間出てこなかった。
私は一度だけ、声をかけるためにトイレに行った。Nちゃんがいる個室をノックして、
「生きてる?」
と聞いてみた。
Nちゃんはいつも通りの声で
「うん、生きてる」
と言って小さく一回、鼻をすすった。
そのあと、トイレットペーパーで鼻をかむような音が聞こえた。
その日の帰り、Nちゃんと私は駅構内にあるコーヒーショップに寄った。
コーヒーは、なぜか異様に熱くて、二人同時に
「あっつーっ!!!」
と言って、笑った。
店のドアが開くたび、
雑踏と電子音が改札方面から聞こえていた。
私たちは一言もしゃべらずに、スースーと音をたてながら熱すぎるコーヒーを飲んだ。
Nちゃんには、だいぶ前の、Nちゃんのお父さんのお葬式以降会ってない。
お葬式の日、Nちゃんはずっと泣いていた。あの日、トイレの個室で流した涙とは違う種類の、別のところから出る涙をたくさん流していた。たぶん。
Nちゃんは私を見つけると飛んできてハグをして、さらにもっと泣いた。Nちゃんは、なんだかとても美しかった。
私たちはまた、何も話さなかった。私はあの時と同じで、かける言葉なんて無かった。
残り少ない歯磨き粉は、
いろんなNちゃんを一気に思い出させる。
ものと人がつながる記憶は
香りも、味も、映画も街も
それぞれが誰かとセットで固定されたまま、
こうしていつまでも残っていくのだろう。
歯磨き粉が残り少なくなる瞬間は、
これから何度も何度もたくさん訪れる。
その度に思い出す人がNちゃん、っていうのは、なんかよかったな、と思う。
