恵那の奥路(おきみち) 第1話 - 南無阿弥陀仏と、猪の咆哮
ガタン、ゴトン。
中央本線の快速電車が、恵那の山あいを縫うように走っていた。
名古屋での打ち合わせを終え、夕暮れ時の窓の外へ目を向ける。そこには、見慣れた恵那の風景が広がっていた。
武並駅を過ぎ、電車が少し速度を上げる。
次の停車駅は、恵那だ。
「……次は、恵那、恵那です」
聞き慣れた車内アナウンスが流れた、そのすぐあと。
視界が、ふっと暗くなった。
電車がトンネルに入ったのだ。
窓に映った自分の顔をぼんやり見つめながら、僕はふと、小学校の遠足のことを思い出していた。
このトンネルの上には、かつて西行法師が最期を迎えたという伝説の残る場所がある。
西行塚。
西行公園で友達と追いかけっこをして、転んで膝をすりむいたことがあった。保健係だったミカが、少し得意げな顔で消毒してくれて、絆創膏を貼ってくれた。
「動かないでよ、コウタ。ちゃんと貼れないじゃん」
そんな声まで、なぜか鮮明に思い出す。
「……こんな場所で、都から来たお坊さんは、何を思っていたんだろうな」
トンネルの中で、電車の走行音が低く反響している。
ゴォォォ、と耳の奥に響くその音は、どこか山そのものの唸り声のようにも聞こえた。
疲れていたのだと思う。
瞼がゆっくりと重くなる。
闇の向こう側へ、意識が吸い込まれていった。
風が、吹いた。
エアコンの乾いた冷気ではない。
草の匂いと、湿った土の匂いを含んだ、生温かくも清々しい風だった。
目を開けると、そこは電車のシートの上ではなかった。
「……おや。そんなところで寝ていては、風邪を引くよ。旅人さん」
涼やかな声がした。
顔を上げると、一人の男が立っていた。
頭を丸め、墨色の法衣をまとっている。だが、その肩幅は驚くほど広く、背筋は真っ直ぐに伸びていた。
なにより、その眼光が鋭い。
穏やかな僧侶、というよりは、何度も死地を越えてきた武士のような目だった。
「ここは……」
「美濃の国、恵那の山路さ。あちらに見えるのが胞衣山――神様が生まれた山だよ」
男が指差した先に、恵那山がそびえていた。
現代で見るよりも、ずっと近い。
そして、ずっと荒々しい。
原始の緑をまとったその山は、まるで王者のように、里を見下ろしていた。
足元では、透き通った川が岩を噛み、涼やかな音を立てて流れている。
男は傍らの岩間から湧き出る水を、片手ですくった。
「都の水は喉を通り過ぎるだけだが、ここの水は、腹の底まで神仏が染み渡るようだ」
一口飲むと、男は満足げに笑った。
その笑顔は、さっきの眼光からは想像できないほど、人懐っこい。
彼は手にした木製の杖を、コツン、と地面に突いた。
そのとき。
カチリ、と硬い金属音がした。
僕は思わず、その杖を見た。
「私は西行。見ての通り、しがない隠遁者さ」
男は何でもないことのように言った。
「今は奥州へ向かう旅の途中。……さて、腹が減ったな。この先に、気立てのよい娘がいる村がある。そこで少し、この地の命を供養させてもらうとしようか」
「供養、ですか」
「うむ。食うということは、命をいただくこと。いただくならば、きちんと祈らねばならぬ」
西行はそこで、僕の顔をまじまじと見た。
「ところで、そなたの名は?」
「コウタ、と言います」
「コウタどのか。よい名ですな。どうだ、コウタどのも一緒に来るか」
返事をするより先に、西行は軽やかな足取りで歩き出した。
その腰に差した杖の合わせ目から、一瞬だけ、冷たい光が漏れた。
それが、僕と「情熱の歌聖」との、長く奇妙な旅の始まりだった。
西行さんの足取りは、驚くほど速かった。
法衣の裾を軽やかに翻し、道なき道を迷いもなく進んでいく。
僕の知っている「お坊さん」のイメージとは、あまりにも違っていた。
ミカがこれを見たら、きっと笑うだろう。
「コウタ、もっとしっかり歩きなよ」
そんな声が、頭の中で聞こえた気がした。
「コウタどの、見えてきましたぞ。あそこが私の馴染みの集落だ」
西行さんが杖で指した先に、数軒の茅葺き屋根が、身を寄せ合うように並んでいた。
現代の恵那市のような整った街並みではない。
けれど、そこには力強い生の匂いがあった。
焚き火の煙。
土の匂い。
山から下りてくる湿った風。
そして、何より圧倒的な水の音。
村の入り口近くの川べりで、一人の娘がしゃがみ込んでいた。
「――なぎ。息災であったかな」
西行さんが声をかけると、娘が顔を上げた。
なぎ、と呼ばれたその娘の瞳には、恵那山から流れ出す清流のような、澄んだ光が宿っていた。
「西行様! まあ、またそんな急に現れて……。そちらの方は?」
「道端で眠りこけていた迷子殿さ。コウタどのという」
「ま、迷子って」
僕が慌てて会釈すると、なぎは不思議そうに僕を見た。
スニーカー。
リュックサック。
ミカに「ボサボサだよ」と笑われたままの現代的な短髪。
たしかに、この時代の山里では、どう見ても場違いだった。
けれど、なぎはすぐに屈託のない笑みを浮かべた。
「ようこそ、胞衣の里へ。お疲れでしょう。今、お山から届いたばかりのお水をお持ちしますね」
なぎが汲んでくれた水は、喉を刺すほど冷たく、驚くほど甘かった。
一口飲んだだけで、体の奥に残っていた電車の疲れが、すっと洗い流されていくようだった。
「コウタ様、その……足についている奇妙な箱のようなものは何ですか?」
なぎが、僕のスニーカーを指差した。
「模様が細かくて、まるでお公家様の履物のようですが……」
「えっ、あ、これは靴と言って……。ええと、こっちの鞄には、文字を書く道具とか、いろいろ入っていて……」
説明に困っていると、西行さんが僕の背負ったナイロンのリュックを、指先で軽く弾いた。
「布でもなければ、皮でもない。実に不思議な手触りだ」
西行さんは面白そうに目を細めた。
「コウタどの。そなた、存外、遠い果てから来たのかもしれんな」
そう言って笑った、その直後だった。
グオオオォォォ――。
地を震わせるような咆哮が、里の静けさを切り裂いた。
村の奥の藪が、大きく揺れる。
泥を跳ね上げながら、巨大な黒い影が姿を現した。
猪だった。
いや、猪という言葉から想像する大きさを、はるかに超えていた。
それはまるで、動く泥炭の塊だった。
なぎが短く悲鳴を上げ、僕の背後に隠れる。
西行さんは、ほんの少しだけ眉を上げた。
「……なぎ。この足跡は、また例の主か」
西行さんの視線の先には、田畑があった。そこには、何かに荒らされたような足跡が、深く刻まれていた。
なぎの表情が曇る。
「はい……。昨晩も、隣の家の作物を根こそぎにしていきました。村の男衆も手を焼いています。けれど、あの猪は山の神様の使いだという噂もあって、誰も手を出せないのです」
西行さんの目が、すっと細くなった。
先ほどまでの人懐っこい笑顔が消える。
そこに現れたのは、よく研がれた刃物のような横顔だった。
「神の使い、か」
低い声だった。
「神仏を敬うのはよいことだ。だが、民の腹が空いては、経も歌も聞こえぬ」
西行さんは、手にした杖の握りを静かに握り直した。
「コウタどの。どうやら供養の時間は、少し早まりそうだ」
猪が、鋭い牙を剥き出しにした。
前足で地面を掻き、泥を跳ね上げる。
「なぎ、下がっていなさい。コウタどのも、その不思議なくつとやらで、なぎを安全な場所へ」
西行さんが一歩前へ出た。
法衣が風に揺れる。
猪が、地面を蹴った。
猛烈な突進だった。
ぶつかれば、人間などひとたまりもない。
「これ、山の主よ」
西行さんが、静かに、しかしよく通る声で言った。
「この村の者たちは、胞衣の山を拝み、真面目に土を耕して生きておる。そなたが彼らの糧を奪うのは、巡り巡って仏の慈悲を遮ることになる。……わかるか」
猪は止まらない。
むしろ、さらに加速した。
西行さんの法衣が、突進の風圧で大きく翻る。
「ふむ。やはり言葉では通じぬか」
西行さんは、かすかに肩をすくめた。
「そなた、そのままでは浄土へは行けぬぞ。ほれ、せめてわしに続いて唱えてみよ」
一拍。
「南無阿弥陀仏」
猪が吠えた。
グォアッ――。
「……言えぬか」
西行さんの声が、少しだけ寂しげに響いた。
「ならばせめて、わしの刀で迷いを断とう。来世では、仏の教えを授かるがいい」
カチリ。
金属音が鳴った。
次の瞬間、西行さんの右腕が、目にも止まらぬ速さで横一文字に走った。
杖の中から抜き放たれたのは、陽光を弾いて冷たく輝く、抜き身の刀だった。
シュッ。
重い肉を断つ音すら、聞こえなかった。
突進していた巨体が、西行さんの数センチ手前で、まるで糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
土煙が、盛大に舞い上がった。
西行さんはすぐさま刀を杖に収めると、何事もなかったかのように僕たちを振り返った。
「さて、コウタどの」
にこり、と笑う。
「新鮮なうちに血を抜き、供養といこうか。猪鍋は、このあたりで採れる山菜と合わせると、実にうまいのだよ」
かまどにくべられた薪が、ぱちん、と爆ぜた。
深い土鍋の中で、猪の肉が山菜とともに煮立っている。
漂ってくるのは、現代の牡丹鍋のような甘い味噌の匂いではない。
野生の肉の力強い香り。
土の匂いを含んだ山菜。
そして、なぎがすり潰した山椒の、鼻先を突くような爽やかな刺激。
「さあ、コウタどの。これは里芋だ。泥を落としてそのまま放り込んだが、これが一番甘い」
西行さんが、木の椀にたっぷり盛った肉と芋を差し出してくれた。
箸はない。
村の人たちは、手や、削り出した木のへらを使っている。
僕も見よう見まねで口に運んだ。
「……うまい」
思わず声が漏れた。
味付けは塩と、豆の粒が残る古い味噌だけ。
それなのに、驚くほど濃厚だった。
猪の脂が里芋に染み込み、噛むたびに山の生命力が口の中に広がる。
「だろう?」
西行さんは満足そうに笑った。
「殺生を戒める仏の教えも尊い。だが、この香りを前にしては、阿弥陀様も少しくらいは鼻をつまんでくださるだろうよ」
そう言って、西行さんは豪快に笑いながら、なぎが用意した濁り酒をぐいとあおった。
村の人々にも、ようやく笑顔が戻っていた。
誰かが猪の大きさを大げさに語り、誰かが西行さんの太刀筋を真似て、子どもたちが歓声を上げる。
なぎも、いつの間にかほっとしたように笑っていた。
けれど、僕だけは時折、西行さんの傍らに置かれた仕込み杖に目をやっていた。
僧侶。
歌人。
旅人。
そして、剣を抜く男。
この人はいったい、何者なのだろう。
賑やかだった猪鍋の宴が終わり、村が深い闇に包まれた頃だった。
なぎの家の軒先で夜風に当たっていた僕は、空気の重さが急に変わったのを感じた。
ゴォォォ……。
遠く、東の空。
胞衣の山――恵那山の頂のあたりで、巨大な獣が呻くような音が響いた。
さっきまでの星空は、瞬く間に掻き消える。
墨を流したような雲が、里を覆い尽くしていく。
「……山が、怒っている」
なぎが震える声で呟いた。
彼女の視線の先では、穏やかだった川が、見知らぬ怪物の咆哮のように激しい水音を立て始めていた。
突如、凄まじい突風が家々を叩いた。
茅葺き屋根が悲鳴を上げ、古い戸がガタガタと暴れる。
それは、先ほどの猪の突進など比べものにならない。
大自然そのものの暴力だった。
「コウタどの、なぎ。奥へ!」
西行さんの声が飛んだ。
彼は暴風の中でも微動だにせず、真っ暗な胞衣の山を見据えていた。
バチバチッ、と屋根を叩く乾いた音がする。
雨ではない。
暗闇の中で、白い粒が地面に跳ねた。
霰だった。
五月とは思えない冷気が、里を支配していく。
なぎは恐怖に耐えるように、僕の腕を強く掴んだ。
その手は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。
家を壊さんばかりの嵐。
闇。
現代の恵那では決して味わうことのない、命の危険を感じるほどの夜の深さ。
その時だった。
騒乱の真ん中で、西行さんが静かに座り込んだ。
目を閉じる。
仕込み杖を傍らに置き、嵐の音を、霰が戸を叩く音を、まるで極上の音楽でも聴くかのように、全身で受け止めていた。
そして、その唇が微かに動いた。
「……夜もすがら 嵐の音に 夢さめて」
朗々とした声が、風の咆哮を突き抜けて、僕の耳に届いた。
「大井の夜戸に 霰をぞきく」
その瞬間、不思議なことが起きた。
嵐が止んだわけではない。
風は相変わらず吹き荒れ、霰は戸を叩き続けている。
けれど、西行さんの詠んだ歌が、この暴力的な自然の音を、恐怖から情景へと変えてしまった。
さっきまで僕たちを押し潰そうとしていた夜が、ひとつの歌の中に収まっていく。
西行さんは目を開けると、僕となぎを見て、嵐の中とは思えないほど穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だ」
その声は、静かだった。
「神も仏も、これほど美しい音を奏でるからには、我らを滅ぼしはせぬよ」
なぎの震えが、ゆっくりと収まっていくのがわかった。
僕は、そのとき初めて、西行という男の本当の恐ろしさを知った気がした。
この人は、剣で猪を斬り伏せるだけではない。
言葉ひとつで、世界そのものの見え方を変えてしまうのだ。
明け方。
あれほど猛り狂っていた風が、嘘のように止んでいた。
なぎの家の戸を開けると、洗い流されたばかりの空気が、肺の奥まで痛いほど清らかに流れ込んできた。
東の空が白み始めている。
胞衣の山――恵那山の稜線が、深い藍色から、ゆっくりと朱色へ染まっていく。
昨夜の霰は跡形もなく消えていた。
葉先に残った雫だけが、昇り始めた朝日に照らされ、真珠のように輝いている。
「……行かれるのですか、西行様」
家の前で、旅支度を整えた西行さんの背中に、なぎが静かに声をかけた。
その瞳には、昨夜の恐怖とは違う、堪えきれない寂しさが滲んでいた。
西行さんは振り返ると、なぎの頭を大きな手で一度だけ撫でた。
「ああ。奥州の空が、私を呼んでいる気がしてね」
そして、少しだけ笑った。
「なぎ。そなたの作ってくれた猪鍋の味、生涯忘れぬよ」
なぎは唇を結び、何かを言おうとして、けれど言えなかった。
西行さんは今度は僕の方を向いて、ニカッと笑った。
「コウタどの。そなたも、早く自分のいた場所へ帰るがいい」
「僕のいた場所……」
「ミカ殿、といったか?」
僕は思わず息をのんだ。
「大切な者を待たせておくのは、あまり感心せぬな」
言い返そうとしたときには、もう西行さんは踵を返していた。
東へ続く山道へ、一歩を踏み出す。
その足取りは、まるで風そのものが歩いているかのように軽く、一点の迷いもなかった。
「西行様!」
なぎがたまらず、数歩追いかけて叫んだ。
西行さんは立ち止まらない。
ただ、右手をひらりと上げた。
「心ある わかれをすずし 風のとよ」
その呟きは、恵那の山々を吹き抜ける風の音に溶け込んだ。
真心に触れた別れは、悲しいだけではない。
風のように、清々しく残る。
そんな意味に、僕には聞こえた。
なぎは足を止めた。
零れ落ちた涙を指で拭い、泣き笑いのような顔で、西行さんの背中が見えなくなるまで、ずっと見守っていた。
そのとき、僕の視界が歪んだ。
朝日の輝きが強くなる。
なぎの姿も、胞衣の山も、濡れた草も、すべてが白い光の中へ溶けていく。
「……次は、恵那、恵那です」
機械的な車内アナウンスと、ブレーキの低い音が鼓膜を叩いた。
ハッとして目を開ける。
僕は、電車のシートに座っていた。
窓の外には、現代の恵那駅のホームが広がっている。
トンネルを抜けたのだ。
僕は慌ててリュックの中を探った。
ノートも、ペンも、財布も、すべて元のままだ。
夢だったのか。
そう思いかけたとき、鞄の底から、小さな粒がひとつ転がり落ちた。
山椒の実だった。
昨夜の猪鍋に入っていた、あの山椒の実。
それを指で潰すと、鮮烈で爽やかな香りが、鼻先を掠めた。
嵐の夜。
霰の音。
西行さんの声。
「……また、会えるかな」
僕は独り言を漏らしながら、ホームへと降り立った。
見上げた空の向こう。
現代の建物に切り取られた恵那山は、夢で見た時と同じように、ただ静かに僕を見下ろしていた。
※この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
いいなと思ったら応援しよう!
いつも応援ありがとうございます🐇お預かりしたチップは創作活動に活用させていただき、余剰分は募金させていただいています。