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ぼやけたまま、前へ進む

眼鏡をはずして、ぼーっと電車に乗るのが好きです。

もちろん、駅のホームを歩くときは危ないので眼鏡をかけます。
階段も、黄色い線も、人の流れも、ちゃんと見えていたほうがいい。

でも、電車に乗って、座席に座って、しばらく動かなくていい状態になると、私はときどき眼鏡をはずします。

すると、世界の輪郭がふっとほどけます。

電車から見えるこんな風景も
こんな感じの世界に

窓の外の景色は、正確には見えません。
駅名も読めない。
看板の文字も読めない。
ホームに立っている人の表情もわからない。

建物は、ただの色のかたまりになります。
木々は、緑のにじみになります。
空は、明るい面になります。
通り過ぎる車も、人も、線も、光も、全部が少しずつ混ざって流れていきます。

それでも、電車は前へ進みます。

私が景色を正しく認識できていなくても、電車は進む。
私が駅名を読めなくても、次の駅には着く。
私がどこまで見えているかに関係なく、線路は続いていく。

当たり前のことです。

でも、その当たり前が、ふと不思議に思えることがあります。

私の認識状態にかかわらず、世界は進んでいく。

私が世界を正しく見ていても、見ていなくても。
私が何かを理解していても、していなくても。
私が今、少し疲れていても、迷っていても、言葉にできない気持ちを抱えていても。

世界は止まらない。

電車は、次の駅へ向かう。
空は、少しずつ色を変える。
人は、それぞれの目的地へ向かう。
時間は、いつもの速度で流れていく。

それは少し怖いことでもあります。

私がちゃんと見ていなくても、世界は進んでしまう。
私が立ち止まっていても、世界は待ってくれない。
私が何かを理解する前に、次の景色が来る。
さっきまでそこにあったものは、もう後ろへ流れていく。

私は世界の中心ではない。

私が見ているから世界があるわけではない。
私が認識しているから時間が進むわけでもない。
私が正しく把握していなくても、世界は世界のまま動いている。

そう思うと、自分の存在がとても小さく感じられます。

自分が悩んでいることも、
失敗したことも、
うまく言えなかったことも、
気にしすぎている誰かの言葉も、
世界全体から見れば、たぶんとても小さい。

もちろん、自分にとっては大事です。
自分の痛みは、自分の中ではちゃんと大きい。
軽く扱っていいものではありません。

でも、世界の大きさの中に置いてみると、少しだけ距離ができます。

ああ、私はちっぽけなんだな、と思います。

そして、そのちっぽけさは、少しさみしい。
でも同時に、少し安心でもあります。

私がちっぽけな存在なら、少しくらい好きに動いてもいいのではないか。
私が思っているほど、世界は私ひとりの行動で壊れたりしないのではないか。
少し失敗しても、少し寄り道しても、少し変なことをしても、世界は案外そのまま進んでいくのではないか。

そう思うと、ふっと肩の力が抜けます。

完璧に認識しなくてもいい。
完璧に判断しなくてもいい。
完璧に正しくいなくてもいい。

世界は、私が全部を理解するまで待ってはくれない。
でも、私が全部を理解できていなくても、ちゃんと運んでくれることもある。

電車に乗っていると、その感覚が少しだけわかります。

私は窓の外を正確には見ていない。
けれど、身体は前へ運ばれている。
私は駅名を読めていない。
けれど、電車は次の場所へ向かっている。
私は世界の輪郭を見失っている。
けれど、世界はそれでも続いている。

その事実は、冷たいようで、やさしい。

世界は私を待ってくれない。
でも、世界は私を置き去りにするだけでもない。
私が少しぼんやりしているあいだも、ちゃんと次の場所まで運んでくれることがある。

ぼやけた車窓の中で、私はそんなことを考えます。

眼鏡をはずした世界は、前に書いたように、カレーの中にいるような感じです。
輪郭がほどけて、色も光も気配も、少しずつ混ざっていく。
何がどこにあるかは、はっきりしない。
けれど、その曖昧さの中に、妙なあたたかさがあります。

ぼやけた調味液に、しばらく浸かっているような感じ。

外の世界の輪郭がほどける。
自分と世界の境目も、少しだけ曖昧になる。
「ちゃんと見なければ」という力が抜けて、ただ運ばれている自分だけが残る。

そして、しばらくして眼鏡をかけ直す。

すると、世界の輪郭が戻ってきます。

駅名が読める。
人の姿がわかる。
広告の文字が意味を持つ。
窓の外の建物が、また建物になる。
木々が、緑のかたまりではなく、葉を持った木になる。

同時に、私という存在の輪郭も、少しだけ戻ってくる気がします。

私はここにいる。
私はこの電車に乗っている。
私は今日も、どこかへ向かっている。

世界は大きい。
私は小さい。

でも、小さいからこそ、自由でいいのかもしれません。

世界の全部を背負わなくていい。
誰かの機嫌を全部引き受けなくていい。
すべての意味を、今すぐ正しく読み取らなくていい。
私が少しぼんやりしていても、世界は進む。
私が少し好き勝手に動いても、世界は案外、進み続ける。

ならば、私は今日も、思いのままにラビ活をしようと思います。

文章を書く。
絵を作る。
歌を考える。
気づいたことを拾う。
見えたものも、見えなかったものも、自分なりに形にしてみる。

世界から見れば、ほんの小さな活動かもしれません。
でも、私にとっては、自分の輪郭を確かめるための大事な時間です。

ぼやけた世界に浸かったあと、
「わたし」という名の輪郭が、少しだけはっきりする。

だから、今日も前へ進みます。

くっきり見えていなくても。
全部わかっていなくても。
少しぼやけたままでも。

電車が進むように。
世界が進むように。
私も、私の速度で進んでいけばいいのだと思います。

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