【考察】運は、流れではなく“切り取り方”なのかもしれない
最近、「運がいい」「運が悪い」とか、「流れが来てる」とか、そういう言葉をよく見かけるようになった気がします。
最初は、自分が気にしているから目に入るだけかもしれないと思っていました。
でも、少し気になって考えてみたくなりました。
そもそも、運や流れって“外側”にあるものなんでしょうか。
それとも、「どこを見ているか」で形が変わる、視点の問題なんじゃないか。そんな気がしています。
たとえば、同じ人の人生でも、ある瞬間を切り取れば「うまくいっていない人」に見えるし、別の瞬間を切り取れば「ちゃんと成長している人」に見えます。
川の水も同じで、流れとしてはつながっているのに、どこで汲むかによって見え方は変わる。
同じものを見ているはずなのに、切り取った場所だけが“全体”のように扱われてしまうことがあります。
運も、それと似ているのかもしれません。
たしかに流れはあると思う。 そのどこを切り取って見るかで、「運」や「評価」の見え方が変わるだけなのかもしれないと思うんです。
「運が悪い」と感じるとき、それはただ悪い場面ばかりを切り取って見ているだけで、その前後を切り取ればまた別の部分が見えるかもしれない。
ずっと気になっていることがあります。
スポーツ、特に野球は、その一瞬ごとに状況が変わっていて、同じ場面なんて二度とないところだと思うんです。
同じ投手からホームランを打つ人もいれば、三振する人もいる。
でもそれだけで「良い・悪い」を決められるものではない気がします。
その前の球はどんな球だったのか。どんな配球の意図があったのか。どんな流れの中の一球だったのか。
投げる側にも、打たせないための工夫がある。
だからこそ、一瞬だけを切り取って評価してしまうのは少し乱暴に感じます。
これは人生にも同じことが言えるのかもしれません。
失敗したところだけで終わらせれば「失敗した話」になります。
でも、そのあとに学んで改善して、少しでも前に進んだところで切り取れば「成長した話」になります。
怖いのは、時間が進んで状況が変わっているのに、過去の一場面だけを取り出して評価を固定してしまうことです。
それはもう現在の話ではなく、過去の一瞬を根拠に未来まで決めてしまうような感じがして、少し不思議な怖さがあります。
UNISON SQUARE GARDENの『オリオンをなぞる』という曲が好きです。
この曲を聴いていると、「視点の途中」を歌っているように感じることがあります。
「暫定ロマン」「半信半疑」「今はなんとも」
そういう歌詞は、まだ途中であることをそのまま肯定しているようにも聞こえます。
そして、
「さっき立ってたんだし立てないわけがないよ」
「ココデオワルハズガナイノニ」
という歌詞。
立っている場面を見れば「立てる人」だし、座っている場面を見れば「立てない人」にも見える。
でもそれはただ、どこを切り取ったかの違いでしかない。
倒れた瞬間だけを見ればもうダメなようにも見えるけれど、その前には立っていた時間があるし、倒れたってその後にまた立つこともある。
運も流れも、たしかに環境やタイミングの偏りはあると思います。
それでも、「どこで切り取るか」で見え方が変わるのなら、少しだけ待ってから見てもいいのかもしれません。
悪いところで切り取って終わりにするのか。
それとも、少し時間が経ってから、別の切り口で見るのか。
同じ出来事でも、その意味は変わってしまうからです。
すぐに結論を出さずに、もう少し流れの中に置いておくこと。
それも一つの見方なのかもしれません。
