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人生は一度きりだからこそ、耐えられないほど軽い——ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」

サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

— ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』集英社文庫、156頁

この小説には、人生について考えるとき、いつまでも頭から離れなくなる問いがある。

もし人生が一度しかないのなら、私たちの選択に「正しかった」「間違っていた」と言うことは、本当にできるのだろうか。

人生にはリハーサルがない。同じ人生を二度生きることもできない。一度選ばなかった道を、あとから歩いて比較することもできない。

だからこそ人生は、驚くほど「軽い」。

しかし、その軽さこそが、耐えられないのである。

ミラン・クンデラと「軽さ」の哲学

ミラン・クンデラ(Milan Kundera, 1929–2023)は、チェコスロヴァキアに生まれ、後にフランスへ亡命した小説家である。

1968年の「プラハの春」と、その後のソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍の侵攻を経験し、作品の発表を禁じられたのち、1975年にフランスへ移住した。

『存在の耐えられない軽さ』は1984年に発表されたクンデラの代表作である。

物語の中心には、外科医トマーシュと、その妻テレザがいる。

自由奔放な性愛を続けるトマーシュ。それに傷つきながらも彼を愛するテレザ。さらに画家サビナと大学教授フランツ。

四人の男女の愛と欲望が、1968年前後のチェコスロヴァキアという歴史の巨大なうねりのなかで交錯していく。

しかし、この作品はいわゆる恋愛小説ではない。

クンデラが描いているのは、人間が「一度しかない人生」をどのように生きるのか、という哲学的問題なのである。

永劫回帰がない世界

冒頭でクンデラが持ち出すのが、ニーチェの「永劫回帰」である。

もし私たちの人生が無限に繰り返されるのなら、一つ一つの行為には途方もない重みが生じる。

自分がいま行っていることを、永遠に繰り返さなければならないからである。

しかし現実の人生は、そうではない。

私たちは一度しか生きない。

トマーシュがテレザと出会った人生と、出会わなかった人生を比較することはできない。

医師としてチェコに残った人生と、亡命した人生を比較することもできない。

人生に実験群と対照群は存在しないのである。

これは医療者として読んでも非常に面白い。

医学では、ある選択が正しいかどうかを比較し、検証することができる。

しかし人生そのものについては、比較試験を行うことができない。

結婚するか。
仕事を辞めるか。
どこに住むか。
誰と生きるか。

私たちは、その選択の結果しか知ることができない。

別の可能性は永遠に反実仮想のまま残る。

だから人生は軽い。

「軽さ」と「重さ」

しかしクンデラは、軽さと重さのどちらかを単純に肯定しているわけではない。

トマーシュは「軽さ」を求める人間である。

一人の女性に縛られず、性愛と愛情を分離し、自由に生きようとする。

一方、テレザは「重さ」を求める。

愛とは、自分という存在を誰か一人に託すことであり、身体と魂と人生を結びつけることである。

二人は対照的だ。

けれども物語が進むにつれて、その関係は逆転していく。

自由であることは、本当に自由なのか。

何にも縛られない人生は、本当に幸福なのか。

軽さはやがて、足場のなさに変わる。

反対に、誰かを愛し、誰かに縛られ、責任を引き受ける「重さ」のなかに、人は奇妙な安らぎを見いだすことがある。

自由と幸福は、必ずしも同じものではない。

この逆説が、この小説を単なる恋愛小説から哲学小説へと変えている。

「Es muss sein」——そうでなければならない

人生には、偶然と必然が奇妙に入り交じっている。

トマーシュとテレザの出会いも、もともとは偶然の連鎖である。

ある町に行ったこと。
あるホテルに泊まったこと。
ある本を持っていたこと。

無数の偶然が重なり、二人は出会う。

ところが人間は、その偶然を後から「運命」として語り直す。

「あの人と出会うべくして出会った」

「あの出来事には意味があった」

私たちはこうして、自分の人生に物語を与える。

偶然を必然へと変換するのである。

この小説に何度も登場するベートーヴェンの言葉、

「Es muss sein!(そうでなければならない!)」

も、その問題につながっている。

人生は偶然によってできている。

それでも私たちは、その偶然のなかから何かを選び、「これでなければならない」と言いながら生きていく。

人生にはあらかじめ意味があるのではない。

選んだものを引き受けることで、あとから意味が生まれるのかもしれない。

身体は「私」なのか

もう一つ、この小説で印象的なのは身体の描写である。

とりわけテレザは、自分の身体に強烈な違和感を抱いている。

鏡に映る身体。

母親から受け継いだ身体。

欲望される身体。

病み、老い、排泄する身体。

自分の意思では完全に支配できない身体。

身体とは、もっとも自分に近いものでありながら、同時に自分の思い通りにならない「他者」でもある。

その意味で『存在の耐えられない軽さ』は、身体と自己の関係を描いた小説として読むこともできる。

私たちは身体を「所有している」のか。

それとも身体として存在しているのか。

この問いは、病いや老いを考えるときにも避けることができない。

身体がこれまで通り動かなくなったとき、人は自分自身との関係を組み直さなければならない。

テレザの身体への違和感は、その意味では決して特殊なものではない。

キッチュという誘惑

後半でクンデラが重要な概念として論じるのが「キッチュ」である。

キッチュとは、単なる悪趣味という意味ではない。

世界の不快な部分、矛盾、排泄物、死、曖昧さなどを排除し、「世界は美しい」という単純な物語だけを共有する態度である。

政治も、宗教も、家族も、国家も、ときにキッチュをつくり出す。

皆で同じ感情を共有し、同じものに感動し、同じ物語を信じる。

そこには心地よさがある。

しかし、その心地よさのために、人間や世界の複雑さが切り捨てられていく。

クンデラにとって小説とは、おそらくその逆を行うものなのだ。

簡単に善悪を決めない。

一人の人間を一つの言葉で説明しない。

矛盾を矛盾のまま残す。

答えを出すのではなく、世界の複雑さを保存する。

だからクンデラの小説には、明快な教訓がない。

トマーシュが正しいとも、テレザが正しいとも言えない。

軽さがよいとも、重さがよいとも言えない。

その「決められなさ」こそが、小説という形式の力なのである。

人生は下書きなしに書かれる

私たちは、ときどき過去を振り返って考える。

あのとき別の道を選んでいれば。

あの人に会っていなければ。

あの仕事を引き受けていなければ。

しかし、その「別の人生」は存在しない。

クンデラが突きつけるのは、冷酷なほど単純な事実である。

人生には下書きがない。

清書もない。

いま書いているものが、そのまま本番なのである。

だからこそ、一つ一つの選択には根拠がない。

そして、だからこそ自由でもある。

『存在の耐えられない軽さ』を読み終えたあと、「軽さ」と「重さ」のどちらがよいのかという問いには、結局答えが出ない。

むしろ、答えが出ないこと自体が重要なのだと思う。

生きることとは、軽さと重さのあいだを揺れ続けることなのかもしれない。

自由でありたいと思いながら、誰かと結びつきたいと思う。

何にも縛られたくないと思いながら、自分の人生に意味を求める。

偶然にすぎない出来事を、運命だったと語りたくなる。

その矛盾を解消せずに抱えて生きていく。

人生が一度しかないということは、恐ろしく軽い。

しかし同時に、その一度しかない人生を誰かと生きることによって、そこには取り返しのつかない重さが生まれる。

その「耐えられなさ」のなかにこそ、人間が生きるということの不思議さがある。

クンデラは、そのことを描いているのだと思う。


書誌情報

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳、集英社文庫、1998年。

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