その夜、二人の男が雨のなかを歩いていた。
短編小説『雨の夜のカルテ』挿話 / 加害者にならなかった、名前も知らないあなたへ
本文には性暴力に関する描写を含みます。相談窓口は末尾に置いています。
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その夜、雨のなかを、二人の男が歩いていた。
一人は、加害者になった。 もう一人は、ならなかった。
違いは、たった一つだった。
これは、その「たった一つ」の話です。
読み終わるまで、10分ほど。
もしよろしければ、少しだけ、お付き合いください。
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もう一つの、雨の夜
その夜、雨のなかを歩いていた男は、彼だけではなかった。
同じ街の、別の路地で、傘もささずに歩いていた、もう一人の男がいた。
三十代なかば。
名前は、書かない。
ここに書くのは、彼の内側だけだ。
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その日、彼は、上司に叱られていた。
理不尽な叱責だった。
帰りの電車で、酒を煽った。
降りた駅の改札で、若い女性が、彼の前を歩いていた。
傘を差していた。
傘の下から、白いうなじが、見えた。
彼のなかで、なにかが、一瞬、揺れた。
「あとをつけたら、どうなるだろう」
考えた自分に、彼は、驚いた。
驚いて、立ち止まった。
立ち止まって、雨のなかで、自分の靴の先を、しばらく見つめた。
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そして、彼は、気づいてしまった。
自分の目が、無意識に、その女性の「情報」を、集めていることに。
改札を出て右に曲がったこと。 二十二時十五分、たぶん毎晩この時間だということ。 イヤホンをしていて、後ろの足音が聞こえないだろうこと。 傘の柄を左手に持っていて、右手には何も持っていないこと。 駅前のコンビニに、必ず寄る癖があるらしいこと。
先週も、その先週も、彼は、たまたま同じ電車で、この人を見かけた気がすること。
自分がいつのまにか、その人の「時刻表」を、頭のなかで組み立てていたことに、彼は、ぞっとした。
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彼は、自分を「まとも」だと思っていた。
妻がいて、娘がいて、真面目に働いている。
それでも、心のどこかで、無意識に、他人の生活パターンを記録していた。
それは、たぶん、多くの男が――加害しない男ですら――無意識にやっていることだ。
集めた情報を、多くの男は、忘れる。
忘れて、家に帰って、缶コーヒーを飲む。
――忘れなかった男が、加害者になる。
同じ「毎晩同じ時間、同じ道、同じコンビニ」が、
忘れる男にとってはただの記憶で、
忘れない男にとっては、狩りの地図になる。
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彼は、その夜、思った。
――俺は、いま、境界線の上にいる。
行かなかった。
特別に立派だったからではない。
心のなかの、
「だめだ」を、
聞いたからだ。
聞けたのは、酒を煽った瞬間の、ほんの一秒の理性のおかげだった。
もう一杯飲んでいたら、聞こえなかったかもしれない。
もう一つ、上司にひどい言葉を投げつけられていたら、聞こえなかったかもしれない。
―――
彼は、コンビニに入った。
缶コーヒーを買った。
缶の温かさを、両手で握って、ゆっくり歩いて、家に帰った。
妻がいる家に。
まだ二歳の娘がいる家に。
玄関を開けて、彼は、その夜、少しだけ、長く手を洗った。
彼は、自分が「思いとどまった」ことを、誰にも話さなかった。
話す種類のことではないと、思った。
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けれど――
同じ夜、同じ街の、別の場所で、思いとどまらなかった男がいた。
その男は、たぶん、「毎晩同じ時間に、同じ道を通る若い女性」を、何日も、何週間も、観察していた。
ある夜には、コンビニの向かいから、傘を差して、彼女がおにぎりを買うのを見ていた。
次の夜には、別の場所から、彼女が下宿の鍵を開ける後ろ姿を見ていた。
彼にとって、彼女の生活は、時刻表だった。
書き終えた時刻表に、あとは、赤い丸を一つ、つけるだけだった。
彼女は、そのあいだ、一度も、視線に気づかなかった。
気づかなくて、当然だ。
私たちの多くは、自分の日常が、誰かに「地図」として記録されているなんて、想像しないから。
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だから、あなたに、伝えたい
だから、この物語を読んでいる、あなたに、伝えたい。
あなたは、いま、誰かの時刻表に、書き込まれている最中かもしれない。
その時刻表を、狂わせる方法がある。
同じ道を、同じ時間に、同じ順番で歩く癖。
――それは、あなたが悪いのではない。
生活とは、そういうものだ。
習慣がなければ、人は生きていけない。
けれど、その習慣を、時々、ほんの少しだけ、崩してほしい。
コンビニを、たまに違う店にしてほしい。 帰り道を、たまに一本ずらしてほしい。 イヤホンを、駅を出たら片方だけ外してほしい。 誰かに「いま帰ります」と、一言送ってほしい。
これは、「油断するな」という説教ではない。
あなたに落ち度があるという話でも、絶対にない。
これは、あなたの一週間を「時刻表」にして、あなたの街を「地図」にしようとしている、名前も知らない誰かの、その時刻表と地図を、ほんの少しだけ、狂わせるための、ささやかな工夫の話だ。
時刻表が読めなくなれば、
狩りの計画は、立てられない。
地図が描きにくくなれば、
獲物は、変えられる。
――変えられて、いいのだ。
あなたは、
誰かの獲物では、ない。
加害の責任は、百パーセント、加害者にある。
それは、揺らがない。
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そして、男性のあなたへ
心のなかの、
「だめだ」を聞くこと。
それだけが、
犯罪者と、人間との、
たった一つの、境界線だ。
服装ではない。
仕草でもない。
時間帯でも、道でもない。
「だめだ」と言える声を、
自分のなかに、持っていること。
それを、
一秒でも長く、
聞き続けること。
それが、
人間である、
ということだ。
―――
あなたのなかの「だめだ」の声を、大事にしてほしい。
その声こそが、あなたの人間としての、尊厳だ。
あなたの隣にいる女性を、守るためではない。
あなた自身が、加害者にならないために。
守る、ではない。
ならない、だ。
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そして、あなたが自分のなかの「だめだ」を聞き続ける限り、あなたは、女性の日常を、地図にしない。
地図にしない男が一人増えるたびに、
この世界の、雨の夜は、一つずつ、明るくなっていく。
―――
最後まで
最後まで、読んでくださって、ありがとうございました。
もし、心のどこかに、静かに残るものがあれば――
どうか、隣にいる誰かに、話してみてください。
恋人でも、友人でも、息子でも、同僚でも。
「加害者にならない」という選択は、
日々の、静かな、小さな決意の積み重ねです。
心のなかの「だめだ」を聞いて、
缶コーヒーを両手で握って、家に帰った、
名前も知らないあなたに、
この一篇を、捧げます。
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相談窓口
もし今、あなた自身が、あるいはあなたの隣にいる誰かがつらい状況にあるなら、ひとりで抱えず、下記へ。
性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター 📞 #8891 (はやくワンストップ) → 最寄りの支援センターにつながります。
よりそいホットライン 📞 0120-279-338(24時間・通話料無料)
Cure Time(SNSチャット相談) 💬 https://curetime.jp/
→ 電話がつらい方へ。匿名で相談できます。
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本編『雨の夜のカルテ / 三つの声』について
来週から、連載を始めます。
被害を受けた女性、 その夜に付き添った青年、 そして、担当した産婦人科医。
三人の声が、二十三年の時をまたいで、静かに交わる短編小説です。
この挿話は、その物語の、ちょうど真ん中に置かれます。
続きが気になった方は、フォローしていただけると、公開時にお知らせが届きます。
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雨のなかを走っているあなたに、
この物語が、傘のかわりの、小さな灯りになれますように。
南 そら
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・出来事・地名はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。
