第六章 ∕ 海の⾒える喫茶店へ
※本作は連載小説『雨の夜のカルテ / 三つの声』の続きです。性暴力被害および医療・支援に関する描写を含みます。
【美咲】
先⽣と会う場所は、私から、頼んだ。
「海の⾒える喫茶店で」
ホテルのラウンジは、天井が、少し⾼すぎる気がした。
⼆⼗歳の私が、
まだ、あそこに座れるかどうか、
⾃信がなかった。
約束の⽇、電⾞の窓に、額をつけて、海を⾒にいった。
喫茶店の窓辺に、先⽣は、先に座っていた。
⽬の⾼さは、あの夜と、同じだった。
私は、鞄から、⼩さな紙を出した。
⼿のひらサイ ズの、⾓の丸くなった紙。
ひらくと、⼆⼗歳の字で、こう書いてあった。
「あなたは、何も悪くない」
「持ち歩きました」
と、私は⾔った。
先⽣は、その紙を、しばらく 、⾒ていた。
それから、こう ⾔った。
「持ち歩いてくれたのは、美咲さんです。
私は、あの夜、そこにいただけです」
私は、笑った。
⾬の⽇は、いまでも、少し、こわい。
眠れない夜も、たまに、ある。
それは、たぶん、この先も消えない。
私は、それを、先⽣に、⾔った。
先⽣は、うなずいた。
何も、付け⾜さなかった。
帰り際、私から、切り出した。
「今度、拓海くんも、呼びましょうか」
先生は、少し驚いた顔をした。
それから、静かに、うなずいた。
「ええ。連絡してみますか」
私は、少し考えてから、うなずいた。
「お願いします」
【拓海】
先⽣から、短いメールが来た。
「美咲さんに、お会いしました。
あなたのことも、お話ししました。
もしよければ、次は、三人で、お茶を飲みませんか」
俺は、事務所の窓の外を、⻑く 、⾒ていた。
妻に、相談した。
「⾏ってきなよ」
俺は、うなずいた。
返信を書いた。
「⾏きます」
海の⾒える喫茶店の窓辺で、
三⼈が、コーヒーを前に、座っている。
湯気は、もう 、ない。
三⼈は、まだ、⼝を開かない。
それぞれの⼿が、カップの縁を、確かめている。
先に⼝を開いたのは、美咲だった。
「拓海く ん、⾔いそびれていたことが、ある」
拓海は、 顔を上げた。
「あのときの飲み物。蓋を、先に開けて 渡してくれたでしょう 」
「うん」
「あの頃は、あの⾳を、待ってた。」
拓海は、
コーヒーカップの縁を、指で、なぞった。
それから、こう⾔った。
「そうか」
それだけを、⾔った。
美咲は、 ふ、と息だけで、笑った。
先⽣は、⽼眼鏡の縁に、指を、置いた。
何も、⾔わなかった。
三⼈の間に、しばらく 、沈黙が流れた。
やがて、美咲は、深呼吸をして、こう⾔った。
「⽀援の仕事をしていて、こうやって、笑って話せている。
でも、
私が『強かったから』 回復した、
とは、私⾃⾝、思ってない」
「同じ夜を過ごした⼈の中には、
いまも、布団から出られない⼈がいる」
「前向きに、ならなくていい。
仕事に、就けなくていい。
笑えなくていい。
ただ、⽣きていて」
「あの夜、私が悪かった、という ことは、ない。
それだけは、信じてほしい」
先⽣は、うなずいた。
拓海は、⽬を、伏せた。
誰も、まとめの⾔葉を、置かなかった。
コーヒーが、少しずつ、減っていった。
「来⽉、祖⺟の故郷を、訪ねるんです」と、先⽣が⾔った。
「もしよかったら、いつか 三⼈で。祖⺟の海を」
美咲と拓海は、 顔を⾒合わせた。
「⾏きます」
「俺も」
窓の外では、夏の海が、光っていた。
⾬は、上がっていた。
—今⽇は。
また、 雨が降る⽇が、あるかもしれない。
そのときのことは、
そのときに、
考える。
三⼈は、しばらくそこにいて、それから、席を⽴った。
美咲は、駅で、⼆⼈と別れて、相談窓⼝へ戻った。
電話は、また、鳴りはじめていた。
先⽣は、家に帰って、講演の原稿を、机の上にひらいた。
⾏ってきます、 と、
三⼈は
それぞれ、 ⼼のなかで、 ⾔った。
あの⾬の夜の、⼆⼗歳の⾃分たちに。
まだ
⾬の中を⾛っている、
名前を知らない、次の誰かに。
海は、 光っていた。
⾬の匂いは、しなかった。
今⽇は。
著者ノート
本作はフィ クショ ンです。 登場⼈物、 地名、 時期、 経歴などの詳細は、 すべて再構成された創作であり 、 特定の個⼈や事件を描いたものではあり ません。
本作を、
被害を受けた⼈と、その隣に、たとえ短く ても、踏みとどまった⼈へ、
捧げます。
⾬の中を⾛っているあなたに、
この物語が、傘のかわりの、⼩さな灯りに、 なれますように。
南 そら
もし今、あなた自身がつらい状況にある場合、ひとりで抱えず、
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