短編小説『許せない。』
頼まれた資料をプリントアウトし、こっそり付箋を付ける。
『いつものところで待ってます。Y』
見られても問題ないくらいにぼかした連絡手段。
それを資料の隙間から見えるようにして、イケメン課長と噂される加藤さんに渡した。
加藤さんはメモにすぐ気づき、笑顔で軽く笑う。
ああ、伝わった。
***
いつものところ――ホテルのラウンジでコーヒーを飲んで、加藤さんを待つ。
向こうは課長。
私はしがない派遣社員。
仕事の量を考えると、七時を回ったこの時間ではまだ来ないのかもしれない。
相手の事情を考えて、時間は指定しないけれど。
それでも、いつもより早く切り上げたらしく、八時前に加藤さんはやってきた。
「お待たせ」
「いえ、コーヒーを飲んで、本を読んでいたので」
「本、か。スマホじゃないのは、いつものことだね」
「紙の本が好きなんです」
いつもバッグの中には一冊の文庫を入れてある。
スマートフォンで電子書籍もいいけれど、やっぱり紙の本がいいから。
「で、ご飯は?」
「食べました。加藤さんは?」
「俺はまだ。ここで食べていい? それとも中に行く?」
「じゃあ、ここでどうぞ。まだコーヒーも残っているので」
ホテルのラウンジなんて、高いところでよく食べられるものだ――と思ってしまう。
加藤さんがメニューを手に取り、選び始める。
けれど。
「その前に、少し話したいことがあるんです」
「何? ご飯食べながら聞くよ」
「そんな余裕、ないと思いますよ?」
「え?」
加藤さんの手が止まる。
そのあと、表情が強張った。
そりゃそうでしょう。
だって、奥さんが私の後ろにいるんだもの。
「清美……」
「やっぱり浮気していたのね、あなた」
「ど、どうしてここに?」
「どうしてかしら?」
奥さんはお腹が張り出て重くなった体をゆっくり動かしながら、空いている席に座った。
実は、奥さんをここに呼んだのは私だったりする。
「それより、この状況をどう説明してくれるのかしら?」
「それは……」
「加藤さんが話しにくいなら、私から説明しますね」
「由香!」
「私、加藤さんに誘われて、関係を持ちました。でも、奥さんがいるなんて知らなかった……」
これは本当。
言い訳になるけど、派遣で入って二ヶ月、既婚者なんて知らなかった。
「ゆ……小川さん、お前何言って……」
「加藤さん、私、浮気する人が嫌いです。許せない」
だって、浮気する人なんて大嫌いだもの。
加藤さんが結婚していて、しかも奥さんが妊娠中だって知っていたら、絶対に断った。
「由香、それは……」
「母も、父の浮気で苦労したから。なのに、私自身が『奥さん』を悩ませる人になってしまうなんて。自分で自分が許せない……」
思い詰めた表情で呟くと、奥さんが「小川さん」といたたまれない表情で私を呼んだ。
「……すみません。写真はありませんが、これが、加藤さんと関係を持った証拠になるなら、使ってください」
私は奥さんの前にすっと、ホテルのレシートなどを置いた。
このレシートは、私に渡していたものだった。
お金は払ってくれるのに、レシートを渡すのが理解できなかったけれど、きっと浮気がばれる可能性を減らしたかったのかもしれない。
「まあ、貴重な証拠ね。ありがとう。それに、私の方も調べているの」
奥さんはバッグから書類を取り出して、中身を見せた。
中には、加藤さんと私がホテルに入っていく写真が何枚も入っていた。
「清美、いつの間に……」
「会社の友人からも聞いたの。それに、あなたの態度がおかしいのなんて、すぐに分かったわよ。そして、興信所で調べてもらったの」
ああ、奥さんは分かっていたんだ。
じゃあ、私は奥さんにとって、憎い相手でしょうね。
私も奥さんから慰謝料を請求されるかもしれないけれど、仕方ないよね。
「さて、あなたには浮気の慰謝料を払ってもらうわ。結婚する前に貯めていた貯金からよ」
「そんな……」
「夫婦の共有財産に手を付けさせるわけ、ないでしょう? あと、慰謝料はもらうけど、離婚はしないわ」
「なんだとっ!」
「離婚はね、被害に遭った方が言えるのであって、浮気したクズ男には自分から離婚する権利なんてないのよ」
奥さんは、これからのことをしっかり考えているようで、加藤さんから私財を奪うつもりなんだ。
「あと、小川さん、でしたっけ?」
「はい」
「あなたに慰謝料を請求する気はないわ」
「……え?」
「あなたはこの人に騙されていたようなもの。そういう人には慰謝料の請求はできないのよ」
「でも……」
確かに加藤さんが既婚だとは知らなかった。
でも、奥さんを苦しめたのは事実だ。
「あなたの気遣いは分かったわ。この人が既婚だと知ったら、すぐに関係を断ったものね。……それも、調べて分かっているの」
「そう、ですか」
「だから、この人には浮気に対して慰謝料を請求するけれど、あなたに対してはないわ」
「……ありがとうございます」
奥さんは、私には非がないと言ってくれる。
それでも、私の中には既婚者と関係を持って、奥さんを苦しめてしまった罪悪感があった。
加藤さんが奥さんに対して「俺から慰謝料を取るのか? 離婚しないのに?」と言っているのを聞きながら、複雑な心境で聞いていた。
「慰謝料は結婚する前の個人の貯蓄から払ってもらうわ。当然でしょう? でも、生まれてくる子のために離婚はしないわ」と奥さんは返していた。
「そういえば、念のために今のやりとりを録音しています。加藤さんも認めていましたし、証拠としてお使いください」
「まあ、私もよ。ほら」
「お前ら、二人とも……」
奥さんと二人で、ボイスレコーダーをテーブルの上に置いた。
もちろん、今も録音している最中だ。
「今さら、何を信じられると言うんですか?」
平静を保っているよう心がけているけれど、心のうちは荒れ狂っている。
派遣社員としているより、結婚という安定を望んでしまったこと。
それは悪いことではないと思う。
けれど、相手は既婚者だった。
母の泣き叫ぶ姿が蘇る。
「加藤さんの言うことなんて、もう信じられないです。もうあの会社で働けくなりましたし」
「由香?」
「名前で、呼ばないでください」
まだ、周囲にはバレていない。
だけど、いつか噂になる。
その前には、消えていたい。
「由香さん、それは悪かったわね」
「けじめですから。いいえ、この人の顔を見ていたくありません」
「そう。情報提供してくれたお礼に、少しばかり用意してきたの」
奥さんはそう言って、バッグの中から封筒を取り出した。
「これ、次の仕事までに使って頂戴」
「いえ、派遣会社から、お仕事をもらいますので」
「いいの。私の気持ち。それに、引っ越しも必要でしょう?」
「……ありがとうございます」
確かに私には必要だ。
派遣の期限が切れる前に辞めるのだから、次を紹介してくれるかどうか怪しい。
他の派遣会社に登録したり、いろいろある。
それに、加藤さんは私のアパートを知っている。引っ越しした方がいい。
「ありがとうございました。では、私はこれで」
封筒を受け取り、席を立つ。
もう加藤さんの顔は見ないで、ホテルを後にした。
私は自分の中の正義感を守っただけだったけど、まさかお礼にと臨時収入が出来るとは思わなかった。
でも、ありがたく使わせてもらおう。
***
あの人の浮気相手を調べたけれど、思ったよりしっかりした人だったわ。
会社の友人にこっそり既婚者だという話を彼女にしてもらった。
それで反応を見ようと思った。
そうしたら、彼女はすぐさま、あの人から距離を置いた。
それどころか、友人を通して私に話をしに来て、謝罪までしたことには、どうしてこんな娘が……と思ったものだった。
あの人が騙していたのだと、すぐに分かったけれど。
すでに、結婚する前にあった気持ちはとっくに薄れている。
それでも、生まれてくる子のためにはお金が必要。
これからはATMとして利用してあげる。
だって、別れたら、あの人は絶対に養育費の支払いを滞らせる可能性が高いもの。
――ありがとね、小川さん。
あなたが思ったよりいい子だったから、情報提供のお礼までしてしまったわ。
それを有効に使って頂戴。
そして、今度は、あの人のような人には捕まらないようにね。
