短編小説「煙越しの二人の距離」
年上女と年下男の日常。
――夜のオフィス街。
街灯の白っぽい光が、建物の壁に反射して、人通りから離れた場所にも光が届いている。
佐藤はビルの通用口から少し離れた喫煙コーナーで、同僚の真理子が紫煙を吐き出すのを眺めていた。
佐藤はタバコを吸わない。それに煙の匂いはどちらかと言えば苦手だが、彼女と一緒にいるこの数分間のためだけに、仕事を中断して缶コーヒーを片手にこの場に立っていた。
「佐藤くんも一本どう? ……って言っても、頑なに吸わないね」
真理子は細い指先でタバコを挟み、茶化すように笑った。
彼女の指先は、いつも少しだけニコチンの匂いと、甘い香水の匂いが混ざっていた。
佐藤にとって、これが彼女の匂いだと感じながら肩を竦めた。
「健康のためですから。それに、真理子さんの分が減っちゃうでしょう?」
「あはは、違いない。私にとっては息抜きの象徴なんだけどなぁ」
彼女は再び深く吸い込み、肺の奥まで煙を届けてから、ゆっくりと空へ解き放った。
その横顔は、昼の仕事中に見せる完ぺきなキャリアウーマンのものとは違い、どこか脆くて頼りなく感じさせる。
仕事の疲れだろうか。
佐藤は彼女が吐き出す煙の行方を追った。タバコを吸わない彼にとって、その煙は無駄な排気物でしかないはずだった。
けれど、彼女が吐き出すそれだけは、彼女の体温や言葉にできないため息が形を変えたもののように見えて、少しだけ愛おしく感じた。
「……それ、なんて銘柄なんですか?」
「これ? 秘密。というか、吸わないくせに銘柄は気にするんだ」
真理子は意地悪く笑って、短くなった吸い殻を備え付けの灰皿に押し込んだ。
魔法が解ける合図だ。
「さあ、もうちょっと頑張りましょうか。後ちょっとよ」
彼女が歩き出すと、わずかに残った煙の香りが佐藤の鼻先をかすめた。
タバコを吸わない彼には、その残り香だけが、彼女から手渡された唯一の共有物のように思えた。
「頑張りますか、真理子さん」
「そうね、後ちょっとよ、佐藤くん」
二人の距離は、タバコ一本分。
近づきすぎることも、遠ざかることもない。
煙のように形を変えながら、ただ静かに夜にとけていく。
仕事か終わって、再度喫煙コーナーに行くと、さっきより夜の気配が濃厚になり、その寒さに軽く身震いした。
「やっと終わったわね」
真理子は疲れを滲ませた一言を呟きながら、タバコを咥えて火をつけた。
煙が立ちのぼり、佐藤は一瞬眉をひそめた。
「ごめん、煙そっち行った?」
「いえ。ちょっと疲れたなって」
「ああ、確かにね」
佐藤が腕時計を見ると、時間はもう十時を回っていた。道理で胃が空腹を訴えているはずだ。
軽く軽食を取ったけれど、仕事で脳を使った分、足りていない。
「真理子さん、この後――」
「そういえば、さ、私そろそろ結婚――」
「真理子さん!」
それ以上言わせない、とばかりに、佐藤は語気を荒めた。
佐藤に真理子の行動に口を出す権利はない。けれど、黙っていることはできず、拳をきつく握りしめた。
真理子は佐藤を見て視線をそらした。
そして、仕切り直しとばかりに、再度口を開く。
「見合いしろって、家から言われたんだよね。孫の顔を早く見たいってさ」
「……」
「大学行ってた時には、遊ぶな、勉強しろって煩かったのに、仕事始めたら今度は結婚はまだか――よ。いつ相手見つけて、交際する暇があるってのよ」
何処の家でも同じだと、佐藤も真理子の意見に同意する。
佐藤は大学を出て新卒で働き、やっと一年になるのに、帰省した折、両親に同じようなことを訊ねられた。
「仕事が忙しいってのもあるけど、探してる暇がね。かといって、親の言う通り見合いなんてしたら、結婚一直線だし」
ボヤいてから、タバコを吸い、ゆっくりと吐き出す。
紫煙が夜の空にとけて消えていき、その様が、まるでこれから先のことを暗示しているようだった。
未来は見通せない。
佐藤は深呼吸を一つしてから、自分の思いを口に乗せる。
「真理子さん、俺が立候補しても?」
手を挙げて真面目な顔で問う佐藤に、真理子は小さくプッと吹き出した。内容にではない、その真面目な表情に、だ。
職場の後輩からの好意は感じていた。
タバコを吸わないくせに、真理子に付き合って寒い中喫煙コーナーにいたりとか。
喫煙コーナーから部屋に戻る時に、そっと扉を開けてくれたりとか。
あれは、そういう意味だったのか……
過去の出来事が脳内でリプレイされて、自然と熱を帯びる。
「真理子さん?」
黙ったままの真理子を、覗き込むようにする佐藤に、真理子は視線を逸らして備え付けの灰皿に吸いかけのタバコを押し付けた。
「……それもいいかもね」
意外と心地よかったこの距離感を、少しだけ変えてみるのもいいのかもしれない。
「ヤニ臭い女だけど、よろしくね」
