見出し画像

短編小説『喫茶店の過ごし方』通り雨と私

 その日は、朝から空が厚く重くのしかかってくるようだった。
 雨が降りそうで降らない。そういう日は、折りたたみ傘を持っていくかどうかで少し迷う。
 迷った末に、私は鞄の底に傘を入れた。
 たいてい、こういう時は降らない。
 けれど、持ってこなかった日に限って降るのが雨というものだ。
 駅から少し離れた古びた喫茶店のドアを開けると、いつものようにドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは」

 店内には先客が二人いた。窓際の席で新聞を読んでいる男性と、奥の席で本を読んでいる女性。
 私はいつもの席に座り、タブレットPCを鞄から取り出した。

「ブレンドコーヒーを一つ」
「かしこまりました」

 マスターはいつも通りだった。
 今日は仕事が少し残っている。家でやってもよかったのだけれど、どうにも気分が乗らなかった。だから、私はここに来た。
 けれど、静かな店内に、低く流れるジャズ。古びた壁と、ミュシャの絵。時計のない空間は時間に追われていることを忘れさせようとする。
 駄目だ。コーヒーを飲みながらなら、少しは進むかもしれない。
 そう思ってWordを立ち上げたところで、窓の外が暗くなった。
 ぽつり、と大きな雨粒が窓を打つ。
 次の瞬間、ざあっと音を立てて雨が降り出した。

「……すごい降り」

 後ろから、男性のそんな声が聞こえた。窓際の席で新聞を見ていた人だろう。
 思わず横を向いて、窓の外を見る。雨は、思ったよりも強かった。
 さらに後ろを見れば、窓際の男性も、少し奥の方で本を読んでいた女性も、窓の外を見ていた。
 ゲリラ豪雨――とまではいかないけど、かなり降っている。この降り具合なら、この店を出たら一分も持たないうちにずぶ濡れだろう。
 まあ、折りたたみ傘はある。けれど、今すぐ帰る予定はない。
 しばらくすると、ドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは、若い女性二人組だった。傘を持っていなかったのか、肩口がかなり濡れている。

「すみません、雨宿りしてもいいですか?」
「どうぞ。お好きな席へ」

 二人は店内を見回し、「すごい、レトロ」と小さく声を上げた。
 まあ、初めて来た人はそう思うだろう。私も最初はそう思った。
 とはいえ、この店はそこがいいのだ。

 そこから、なぜか次々と人が入ってきた。
 会社員らしい男性。
 年配の夫婦。
 スマートフォンを見ながら入ってきた大学生らしい青年。
 近くにいたらしい親子連れ。
 気づけば、いつもは静かな店内が、少しざわついていた。
 皆、雨に降られて、マスターが親切にタオルを何枚か出してきてくれた。
 口々に「ありがとう」と言って受け取り、入り口で水気を落として、それぞれ空いている席に着いていた。

(まだ入ってくるの?)

 失礼ながら、私はそう思った。
 だって、この店がこんなに混むところを初めて見たのだ。
 いつもは、静かで、少し空いていて、客同士の距離もほどよい。だからこそ居心地がいい。
 それなのに今日は、席が埋まっていく。
 この店は、マスターは一人なのに……大丈夫なのだろうか。

「ブレンド二つお願いします」
「ホットコーヒーと、あと何か甘いものありますか?」
「サンドイッチってできます?」
「子どもにオレンジジュースを」

 注文が重なっていく。
 マスターは慌てなかった。ただ、少しだけ動きが速くなった気がする。

「かしこまりました」
「少々お待ちください」
「サンドイッチはハムチーズでしたら」

 声の調子は変わらないけれど、手は止まらない。
 私はタブレットPCの前で指を止めたまま、その様子を眺めていた。
 手伝った方がいいのだろうか――そう考えて、すぐにやめた。
 私は客であって、店員ではない。コーヒーカップの置き場所も知らなければ、レジの扱いも知らない。下手に動いたら邪魔になるだけだ。
 常連とはいえ、私が口を出す必要もない。

 それなら、せめて静かにしていよう。
 私は飲み終えたカップを少し奥に寄せ、タブレットPCの画面を暗くした。
 席を立つことも考えたけれど、外はまだ雨が強い。今出れば、傘があってもそれなりに濡れるだろう。私はともかく、タブレットPCを濡らすわけにはいかない。
 それに、出入り口の近くに立つ方が邪魔になる。私は大人しく座って、窓の外を見た。

「ここ、前からあったのかな」
「知らなかったね」
「雰囲気いいね」

 そんな声が後ろから聞こえた。
 この店は、駅前のチェーン店のように目立つ場所にはない。通り雨でもなければ、入ってこなかった人も多いのかもしれない。
 そう思うと、不思議な気持ちになった。
 いつもは私の隠れ家のように思っていた場所に、知らない人たちが次々に入ってくる。
 少し落ち着かない。
 けれど、嫌ではない。

 マスターは相変わらず淡々としていた。
 コーヒーを淹れ、サンドイッチを作り、焼き菓子を運ぶ。空いた皿を下げ、時々席を回る。
 忙しそうなのに、不思議と慌ただしく見えない。
 誰かが「いつもより、忙しそうですね」と言った。

「雨の日は時々ありますので」

 マスターはそう答えた。
 ……時々あるのか。
 私は少し驚いた。
 この店が混む日なんて、今まで想像したこともなかった。
 けれど、マスターにとっては、これも日常の一つなのかもしれない。
 やがて、雨の音が弱まってきた。

「あ、止んできた」
「今のうちに行こうか」

 最初に若い女性二人組が席を立った。
 それをきっかけにするように、雨宿りの客たちは一組、また一組と店を出ていく。

「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」

 ドアベルが何度も鳴る。
 さっきまであれほど賑やかだった店内は、少しずつ元の静けさを取り戻していった。
 本を読んでいた女性は、雨が弱まる頃に静かに会計を済ませて帰っていった。 
 最後の雨宿り客が出ていくと、残ったのは私と、新聞を読んでいた男性だけだった。
 その男性も、しばらくして会計を済ませて帰っていく。

 気づけば、店内には私一人になっていた。
 マスターはカウンターの中で、静かにカップを片付けている。
 私は空になった自分のカップを見て、少し迷ったあと声をかけた。

「マスター」
「はい」
「今日は大変でしたね」
「ええ」

 マスターは短く答えた。
 その声は、いつも通りだった。
 あれだけの客をさばいた後とは思えないほど。

「時々、こういうことがあるんですか?」
「ありますね。特に通り雨の日は」
「そうなんですね。私は初めて見ました」
「そうでしたか」

 マスターは洗い終えたカップを布巾で拭いた。

「今日は昼食時を過ぎていたので助かりました。食材はあまりありませんので」
「確かに。サンドイッチを頼む人がもっと多かったら大変でしたね」
「ええ」

 私は窓の外を見た。
 雨はもうほとんど止んでいる。濡れた道路に、夕方の光が薄く反射していた。

「コーヒーなら大丈夫ですか?」
「ええ」

 マスターは少しだけ口元を緩めたように見えた。

「コーヒーでしたら」

 それなら、と私は言った。

「おかわりをお願いします」
「かしこまりました」

 再び、豆を挽く音がした。

 少し前までの賑やかさが嘘のように、店内は静かだった。
 けれど、さっきの慌ただしさも、この店の一部なのだろう。
 雨の日にだけ見せる、もう一つの顔。
 そんなことを考えながら、私は新しいコーヒーを待った。


#喫茶店の過ごし方
#通り雨

いいなと思ったら応援しよう!