短編小説『喫茶店の過ごし方』マスターと私
前から、気になっていたことがある。
それを、今日聞いてみようかな、なんて思いつつ喫茶店の古びたドアを開けた。ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
軽く挨拶をしながら、いつもの席に向かう。
聞きたい―—と思っていたのに先客がいたので、とりあえずコーヒーを頼んでタブレットPCを開いた。
ふと頭に浮かんだ疑問を、私はなぜかそのままにしておけず、こうしてきたのだけれど。
そのせいか、タブレットPCを開いてWordを立ち上げても、なかなか打ち込む気が起きない。
そう思っていると、マスターが「コーヒーをどうぞ」と声をかけた。
「ありがとうございます」
「指が止まってますね」
「……まあ、なかなか乗らなくて」
マスターに聞きたいことがあるから様子を窺ってました――なんて、言えるわけもなく。
私は受け取ったコーヒーにミルクだけ入れて口をつけた。
「あ、マスター、ホットサンドお願いします」
「ハムチーズですか?」
「はい」
先客が帰るのを待つのと、朝ご飯を抜いてきたので小腹を満たすために頼む。
ホットサンドといえば、私はいつもハムチーズを頼む。
その好みを、マスターはしっかり覚えている。
マスターは口数が少ないのに、来た客全ての注文を覚えているかのようで、彼の頭の中はいったいどうなっているのだろう――と思ってしまう。
記憶領域が、喫茶店の客に全振りしているかのようだ。
それに、この間の自称インフルエンサー。
うるさい客は、確かにこの店に入ってほしくはないけど、いつも満席といえるような客入りじゃない。
そうなると、この喫茶店の売り上げはどうなのか。
そんな懐事情を素直に話してくれるとは思わないけど、気になるものは気になるのだ。
好奇心は、いつも私を動かす。
先客が帰るのを虎視眈々と待つ間に、マスターのホットサンドの方が先に来た。
チーズが伸びるうちに食べないと、美味しさが半減してしまう。
私はスマートフォンを横においてテザリングをしているのだけど、転送量が気になってタブレットPCではメールくらいしか使用しない。
でも、今は暇なのでブラウザを立ち上げた。ブログサービスのページを開いて上位に入っていて面白そうな記事を探す。SNSなどもいいが、ブログでしっかり記事を書いているのを読むのが好きだ。
気づくと時間が経っていて、店内は私一人になっていた。
ブログを見ながら噛り付いていたホットサンドも、いつの間にか胃袋に収納されていたようだ。
さて、店内には私一人しかいない。そろそろ質問してみよう。
「マスター」
「なんですか?」
「この間、迷惑インフルエンサー追い返したじゃないですか」
「……ええ、まあ」
「あれ、今思うと、紹介してもらえればお客さんがもっと増えたんじゃないですか?」
今日は先客がいた。
この間のインフルエンサーの時は私一人だった。
客、少ないよね?
「お客さん、あまり見かけないと思うんですけど」
「いらっしゃってくれますよ。特に常連さんが多いですね」
「このお店、儲かってます?」
「まあ、それなりに」
マスターは涼し気な表情を崩さず、静かな声で答える。
なかなか手ごわい。
「うーん……もしかして、本業は別にあって、喫茶店は副業ですか?」
「さあ、どうでしょう?」
「じゃあ、実はかなりの資産家で、趣味で喫茶店をやっているとか?」
「どうしてそうなるんですか?」
マスターは少しだけ嫌そうな顔で訊ねてきた。
ふぅ、とため息を一つついて。
「だって気になったんですよ。マスターは静かなお店を目指しているけど、そうするとお客さんが限られちゃうなって」
「まあ、そうですね。でも、問題はありませんので」
「そうですか」
手ごわい。
残っていたコーヒーを飲んで、次はどう切りだそうと考えていると。
「そういえば」
「はい?」
「いつもタブレットPCで打ち込んでいますが、何をされているのですか?」
「え……えっと」
「今日はあまり捗られていないようですが」
「その……」
気づいたら攻勢が逆転していた。
まるで、人の詮索をする前に、自分のことをどうにかしたらどうですか――と言われているみたいだ。
「たまにはそういう時もあるんです。というか、このお店のことが気になっちゃって」
「心配されるようなことはありませんよ」
「本当――」
そこまで言って、スマホから通知の音がした。
視線を落とせば、『一件のメールを受信しました』と出ている。確認のために通知をタップすると、メールの文章が現れる。
簡潔に『進捗はいかがですか?』とだけ。
「やばっ」
「どうしました?」
「いえ、ちょっと催促のメールで……」
まだ時間にゆとりがあったはずなのに、簡潔なメールは向こうに余裕がないからだろう。
仕方なく、タブレットPCのブラウザを閉じて、Wordを開きなおした。
「コーヒーのお替わりはいかがですか?」
「あ、いただきます」
今はコーヒーを飲んでから頭を切り替えよう。
ほんのわずかな眠気を払うためにも、カフェインを体に入れてしっかりしないと。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
コーヒーを受け取り、今度は何も入れないでブラックで飲む。
口の中に広がる苦みは、人の秘密を暴こうとして失敗したことによるものなのか。それとも罪悪感からなのか。よくわからない。
けれど、一つ言えるのは、カップルの喧嘩をこっそり録画しようとした時とあまり変わっていないのだろうということ。
私は自分の好奇心を抑えられなかったから。
「そうだ。これをどうぞ」
「……マスター、これは?」
「新作です。当店で出してみようかと」
小皿に乗っていたのは、小さなマカロン。色からしてチョコ味だろう。
可愛らしいマカロンをそっと手に取り、少しだけ齧ると、濃厚なチョコの味。
先ほどのコーヒーの苦みが緩和された気がした。
「これ、どこのお店のものですか? すごく、美味しい」
「これは自作です。反応が良ければメニューに加えようかと思ったのですが」
「美味しいです。すごく……お店で買ってきたものかと思った」
「誉め言葉をありがとうございます」
マスターは一言だけ言うと、片付けに入ったようだった。
もう一口、小さく齧る。濃厚で、でもくどくない甘みが口に広がる。
これが、マスターが作ったもの。
そう思うと、いろいろ聞きたかったことはどうでもよくなった。
ただ、マスターはお菓子を作るのも得意、というのが私の中に新しい情報としてインプットされた。
