短編小説「少しだけ遠回りした金曜日」
日常の何気ない会話。
金曜の夕方は、時間の流れ方が少しだけ忙しない。
ちらりと時計を見ると、定時まであと三十分だった。この間に、キリのいいところまで終わらせよう。
仕事が完全に終わったわけではないが、今日中に片づけるべきものは一通り片づいた。メールも急ぎのものは来ていない。
疲れた。特に肩のあたりに溜まった疲れが、じわじわと存在感を主張している。
今すぐ椅子から立ち上がって、何も考えずに帰りたい。
家に帰って適当なものを食べて、だらだらして、そのまま眠りたい――そんな願望が、体の内側からじんわりと湧いてくる。
けれど同時に、胸のどこかが少しだけ軽い。
金曜だからだ。
このあとに待っている二日間のことを思うと、どこか気持ちが緩む。
明日の朝、目覚ましに叩き起こされることもない。
今日は少しくらい夜更かししてもいい――そう思うだけで、同じ疲れでも平日のそれとは質が違う気がした。
キーボードに指を置いたまま、画面をぼんやりと見つめる。
カーソルが点滅を繰り返しているだけで、特にやることはない。
けれど完全に電源を落とすには、まだ早い。
もう少し作ったパワーポイントの書類を見返してみよう。
「もう終わりそう?」
不意に横から声をかけられて、顔を上げた。
振り向くと、同僚の水沢さんが立っていた。
いつもより少し柔らかい表情をしている気がするのは、金曜だからだろうか。
「ああ、うん。だいたい片づいたよ」
そう答えると、水沢さんは小さく頷いてから、少しだけ間を置いた。
「今日、このあと空いてる?」
その一言で、時間の流れが一瞬だけ止まった気がした。
意味を理解するのに、ほんのわずか遅れる。
誘われている――多分、飲みか、食事か。
特別なことではないはずなのに、その事実が妙に現実味を帯びて迫ってくる。
「えっと……」
返事をしようとして、言葉がうまく出てこない。
頭の中では、二つの気持ちが同時に立ち上がっていた。
素直に帰りたい。
体の奥に溜まった疲れが、そう言っている。
でも――水沢さんと行く食事も、同じくらい捨てがたい。
ほんの数秒の沈黙だったはずなのに、やけに長く感じた。
「……ごめん。無理なら全然いいんだけど」
水沢さんが少しだけ笑いながら、そう付け加える。
その声色に、変な圧はないけれど。
「ううん、無理ってわけじゃないよ」
とりあえずそう答えると、水沢さんは「ほんと?」と軽く首を傾げた。
その仕草が妙に自然で、気づけばさっきまでの疲れが、ほんの少しだけ後ろに下がっている気がした。
帰れば確かに楽だろう。何も考えずに済むし、体も休まる。
なんとなく、それじゃ足りない気がした。
帰ろうと思えば、いつでも帰れる。
けれど、今はもう少しだけ遠回りしてもいい気がした。
パソコンの画面に視線を戻す。点滅するカーソルは、相変わらず一定のリズムを刻んでいる。
なぜか、その単調さに背中を押された。
「……じゃあ、少しだけなら」
気づけば、そう口にしていた。
水沢さんの表情が、わずかに明るくなる。
「ほんと? よかった」
その一言で、胸の奥にあった小さな緊張がほどけた。
完全に疲れが消えたわけではない。
それでも、不思議とさっきまでの重さとは違う感覚になっている。
帰れない、というよりは、もう少しだけこの一日を延ばす、という感じに近い。
時計を見ると、定時まであと十分もなかった。
「じゃあ、軽く片づけちゃうね」
水沢さんがそう言って自分の席に戻っていく。
背中を見送りながら、もう一度だけ固まった肩をほぐすように回した。
相変わらず疲れてはいるが、さっきよりも少しだけ体が軽い。
パソコンの電源を落とし、デスクの上を整える。
日常的な動作なのに、その一つ一つが、これから始まる『仕事以外の時間』への準備のようにも感じられ、少しだけ浮足立つのを感じていた。
周りでも、帰り支度を始める人が増えている。
金曜の夕方特有の、少しだけ浮ついた空気がオフィスの中に広がっていた。
エレベーターに向かう途中で水沢さんと合流する。
「どこ行く?」と聞くと、水沢さんは少し考えてから、
「混んでなさそうなとこがいいな」
と笑った。
誘っておいて、場所は決めていないらしい。
水沢さんの意外なアバウトさ。でも、そのアバウトさが、逆にちょうどいい感じがした。
会社の外に出ると、空はゆっくりと夜に向かって色を変えていた。
昼間の疲れを引きずったままなのに、どこか解放されたような空気がある。
帰ろうと思えば、いつでも帰れる。
けれど今は、もう少しだけ遠回りしてもいい気がした。
「まあ、近くで適当に探そうか」
そう言って歩き出すと、水沢さんも「そうだね」と並んで歩き出す。
金曜の夕方は、やっぱり少しだけ特別だ。
疲れているのに、どこか軽い。
その矛盾を抱えたままでも、足取りは思ったより悪くない。
街の明かりが一つずつ灯り始める中で、今日という一日が、まだ終わりきっていないことを静かに実感していた。
「そういえばさ――」
水沢さんが語り掛ける。
その声に、首を傾げて応じる。
「総務の有本さん情報なんだけど、谷本さん、やっと結婚するらしいよ」
「ほんと? なんか付き合って長いってのは聞いていたけど」
「ほんと。名前が変わるから、書類の関係で有本さんに話したらしい」
「なるほど。総務とは離れているから、そういった話には疎いんだよね」
早速、来てよかったと思った。
最近は披露宴をやらない人も多いけど、何もしないのはさすがに気が引ける。
水沢さんはどうするのか、食事の時にでも聞いてみよう。
「あ、あそこどう? 空いているみたいだし」
「定食屋? 水沢さん渋いチョイス」
「だってイタリアンより定食の方が同じ値段でも満足できるじゃない」
「確かに」
そう言って、私たちは紺色の布に大きな白い丸が描かれた暖簾をくぐり、『丸井食堂』に入る。
暖簾をくぐりながら、少しだけ足取りが軽くなっていた。
