短編小説『喫茶店の過ごし方』カップルの喧嘩とのぞき見の私
照明を絞った薄暗い店内に、豆を挽く低い音が規則正しく響いている。
壁にはミュシャの絵が所々に置かれ、木目だけになってしまう店内にそっと花を添えている。
ここでは時間を気にしないように配慮されているのか、時計がない。
ここは駅から少し離れた、古びた喫茶店。
常連しか知らないような場所で、私はこの空気が気に入っている。
いつものようにカウンター席に座り、タブレットPCを開く。
画面に光が灯り、ここだけ少し明るくなった。パスワードを入力しいつもの画面が目に入る。
いつものようにワードを立ち上げ、文章を打ち込んでいく。
持ち運びに便利なようにと買ったこのタブレットPCは、意外といい買い物だったと思う。 キーボードを叩く音は、意外と小さく、静かなこの喫茶店の空気を邪魔しない。
マスターはゆっくりと丁寧な動作でコーヒーミルを動かす。
規則正しい音は、心を静かにさせてくれる……そう思っていたのに……。
斜め後ろから男女二人の声がするんだけど、だんだん大きくなってきたわ。
「――だから、そういう言い方がムカつくって言ってんの!」
「はぁ? じゃあどう言えばいいんだよ!?」
女性が金切り声を上げると、男の声も負けじと大きくなった。
このレトロで落ち着いたお店を選ぶカップルは、最初は静かにしていたのに。話を始めてエキサイトしてきたらしい。
私は、はぁ、とため息をつく。せっかくの静かな店内が台無しだ。
少々苛つきながら、少しだけ体を傾けて二人の様子を見る。
互いに乗り出して自分の主張を変えない様は、さらにヒートアップする様相を呈している。
……実は、こういう展開は嫌いじゃない。むしろ面白いと思ってしまう。
こういうのは、記録しておくと、何かの役に立つかもしれないし。
面白そう――という単純なる好奇心もあるけれど。
タブレットPCの横に置いてあったスマホを手に取り、音が鳴らないように音量を絞る。
カメラを起動してインカメラに変え、二人の様子が映るように調整する。
画面に言い争う二人がきちんと収まり、録画モードにして撮影を――
ボタンを押そうとしたときに、視界の端に白いカップがすっと差し出された。
マスターだ。
いつの間にかに私の横に来て、撮影を邪魔するような位置に立っていた。
いつもなら、カウンター越しに出されるコーヒーが、今はマスターの手にある。
湯気の立つコーヒーは、いつもと同じ深い香りがして、私の好奇心を少しだけ抑えた。
「どうぞ」
静かなマスターの声。
私はコーヒーを受け取ると、ソーサーの上に小さな紙片が乗っていた。
――何?
スマホの存在を忘れ、紙片を手に取ると、丁寧な字でこう書かれていた。
『駄目ですよ』
この言葉に、思わず顔を上げマスターを見た。
マスターは何も言わない。ただ静かに私を見ていた。
この紙片の意味――明らかに、私のこの行為についてだろう。
私は小さく息を吐き、スマホをそっとタブレットPCの横に戻した。
……ちょっと、やりすぎだったらしい。
マスターはこの店の雰囲気を大事にしている。それを守るために、私に静かに釘を刺したのだ。
しかも口頭ではなく『メモ』という、音にならない――喫茶店の雰囲気を変えないために。
私だってこの喫茶店のコーヒーも雰囲気が好きだ。常連と言えるほどに通っている。
マスターの不興を買いたくはない。
ソーサーをカウンターのテーブルにおいて、少しだけ座りなおす。
背後ではまだ言い争いが続いていたけど、先ほどよりは落ち着いてきたように思える。
怒りのピークは過ぎたのかもしれない。
はぁ、とため息をつき、コーヒーを手に取り口を付けた。
この店一押しの深入りブレンドコーヒーは、雑味が少なく深いコクのあるコーヒーだ。
苦みが少しだけ広がり、ようやく意識が現実――この店に戻ってくる。
しばらくして、店内は再び静けさを取り戻した。
振り返ると、カップルはどこか気まずそうに、けれどさっきより近い距離で座っている。そして、やがて小さく笑い合いながら店を出ていった。
雨降って地固まる――だ。
ドアベルが軽く鳴り、店内は嵐がなかったかのような静けさを取り戻した。
「……仕方ない人ですね」
マスターがぽつりと言った。
おそらく、多分、いや十中八九、私のことだろう。
不幸なことに、今日は先ほどのカップル以外は私しか客がいない。
「だって、記録しておけば何かあった時にいいでしょ?」
少しだけ肩をすくめて、言い訳めいた声が出る。
マスターは何も答えない。ただ、呆れたように小さく息をついただけだった。
「まあ必要はなかったみたいだけど。……それに、動画サイトに公開するわけじゃないし」
自分でも苦しい言い訳だと思いながら、さらに言葉を重ねる。
言えば言うほど薄っぺらくなるのがわかっているのに、止められない。
マスターはカウンター内で作業をしながら、ちらりとこちらを見る。
その視線には、責めるでもなく、ただ「分かっているでしょう」と言われているような、静かな重みがあった。
私はそれ以上何も言わず、コーヒーに口をつける。
さっきよりも少しだけ苦く感じた。
