短編小説『喫茶店の過ごし方』おばあさんと私
ドアベルが小さく鳴った。
私はコーヒーカップを持ったまま、反射的に入口へ視線を向ける。
入ってきたのは、小柄なおばあさんだった。
淡い灰色のコートに、少しくたびれた革の鞄。白髪はきれいにまとめられているけれど、右足を引きずるようにして歩いている。
外はいつの間にか、雨が降り始めていたらしい。天気予報通りだ。
濡れた傘を畳もうとして、おばあさんの体が僅かに傾いた。
その瞬間、私は立ち上がっていた。
「大丈夫ですか?」
自分でも驚くくらい自然に声が出た。
おばあさんは少し目を丸くしたあと、ふわりと笑う。
「あら、ごめんなさいねぇ。最近、足が言うことを聞かなくて」
私は傘を受け取り、入口横の傘立てに立てかけた。
おばあさんは「ありがとう」と小さく頭を下げる。
カウンターの向こうで、マスターが静かにこちらを見ていた。
その視線が、どこか少しだけ柔らかい気がしたのは、気のせいだろうか。
「こちら、座れますか?」
私は入口に近い席を引こうとした。
するとおばあさんは、店内を見回したあと、少し困ったように言う。
「もしよかったら、あなたの隣でもいいかしら?」
「え?」
「一人で座るの、少し寂しくて」
私は少しだけ戸惑い、「どうぞ」と言おうと思ったけれど、やはり思い直す。
カウンターの椅子は小さく、また高めだ。足の悪いおばあさんに優しくない作りだ。
「では、あちらの席はどうですか? 良ければ相席させてください」
「まあ、よろしいの?」
「ええ、もちろん」
おばあさんに合わせて歩き、店内の入り口近くのテーブル席に座った。続いて、私も向かいに座る。
マスターが静かに水を置いた。
「ブレンドをお願い」
「かしこまりました」
いつも通りの落ち着いた声。
マスターは私の飲みかけのコーヒーを持ってきてくれ、タブレットPCはそのままでいいと告げると、カウンターの中に戻った。
店内には再びコーヒーミルの音が響き始める。
「ごめんなさいね。お仕事中だった?」
「いえ、趣味みたいなものです」
「小説家さん?」
「そんな大層なものじゃないです」
苦笑しながら答えると、おばあさんは「でも、書く人って、人をよく見てるでしょう?」と言った。
ドキリ、とした。
つい先日、私はカップルの喧嘩場面を録画しようとしていたのだ。やり取りをあとで見返すために。
まるで見透かされたような気がして、なんとなく落ち着かなくなる。
けれど、おばあさんはそんな私の内心など知らないまま、穏やかに続けた。
「だから、少し話を聞いてくれるかしら?」
「……私でよければ」
マスターがおばあさんの前にコーヒーを置く。
深い香りがふわりと広がった。
おばあさんは砂糖とミルクを入れて数回かき混ぜると、両手でカップを包むように持ちながら、ゆっくり話し始める。
「主人とはね、お見合い結婚だったの」
それは、昔を懐かしむような声だった。
「若い頃は、本当に無口な人でねぇ。何を考えているのか、全然わからなかったの」
私は自然と耳を傾ける。
まったく知らない人の素性を、すんなりと聞いている。不思議な感じだ。
「嬉しいのか、怒ってるのか、楽しいのか……全然分からない人だったわ。でもね、不思議と、ずっと一緒にいたの」
おばあさんは小さく笑った。
「喧嘩もしたわよ。私ばっかり怒ってた気もするけど」
なんとなく、先日のカップルを思い出してしまう。
あの二人も、そんな感じで続いていくのかもしれない。
「でもね、ある日、転んで足を怪我したことがあったの」
おばあさんは自分の足を軽く見た。
「その時ね、主人が仕事を休んで、一日中そばにいたの。余り美味しくなかっけど、ご飯を作ってくれたり、シップを張り替えてくれたり」
「優しい旦那さんだったんですね」
「ううん。普段は全然なのよ?」
即答だった。
思わず笑ってしまう。
「ありがとうも、ごめんも、ほとんど言わない人だった。でもねぇ、そういう時だけ、黙って隣にいてくれたの」
店内に静かな雨音が混ざる。
「だからね、長く一緒にいると、言葉じゃない部分の方が増えるのよ」
私はカップを持つ手を止めた。
私には、まだ分からない感情で、彼女の言うことをただ聞くだけだった。
「若い頃は、もっと言ってほしいって思ってたの。好きとか、ありがとうとか。でもね、最後の頃は、そこにいるだけで良かった」
最後――その言葉に、私は少しだけ視線を落とした。
おばあさんは穏やかな顔でコーヒーを飲む。
「主人、三年前に亡くなったの」
「……それは」
「いいの。気にしないで」
その言葉は静かだった。
悲鳴みたいな痛みではなく、長い時間をかけて丸くなった寂しさ。
「でもね、最近になって、もっとちゃんと話を聞いておけばよかったなって思うの」
おばあさんは苦笑した。
「無口だからって、勝手に分かった気になってたのかもしれないわねぇ」
私は何も言えなかった。
マスターは相変わらず静かにカウンターの中で作業をしている。
けれど、こちらの会話を聞いている気配はあった。
「ごめんなさいね、変な話しちゃって」
「いえ……」
私は少し迷ったあと、口を開く。
「でも、きっと旦那さん、分かっていたと思います」
「何を?」
「……そこにいてくれるだけで、良かったってこと」
おばあさんは目を細めた。
「あなた、優しいのねぇ」
「そんなことないです」
反射的に否定した。むしろ私は、人を観察して、面白がる側だ。
優しいなんて、そんな立派な人間じゃない。
けれどおばあさんは、ふふっと笑った。
「優しい人ほど、そう言うのよ」
しばらくして、おばあさんは席を立った。
私はまた反射的に立ち上がる。
「あ、お会計を――」
「今日は私から」
おばあさんはそう言って、伝票を取ろうとする私を制した。
「話を聞いてくれたお礼、ね?」
「そんな」
「いいのよ。久しぶりに、誰かに主人の話をしたかったの」
私は結局、それ以上言えなかった。
店の外へ出るおばあさんを見送る。おばあさんは、何度も私に頭を下げながら、傘をさして去っていった。
扉が閉まり、再び静けさが戻る。
私は席へ戻り、なんとなくぼんやりしたままコーヒーを飲んだ。
「……意外と、お人好しですね」
ぽつり、とマスターが言う。
「え?」
「先日、盗撮しようとしていた人とは思えません」
「う……」
痛いところを突かれた。
私は思わず視線を逸らす。
するとマスターは、カウンターの奥から小さな皿を差し出した。
白い皿の中央に、四角い一口チョコがひとつ。
「常連サービスです」
「え、でも、いつもこんなの――」
「今日は特別です」
マスターはそれだけ言って、また作業へ戻ってしまう。
私は皿を見下ろした。深い色のチョコレートは、艶やかで小さい。
なんだか、子供みたいだと思いながら口に入れる。
チョコレートがゆっくりと溶け、甘さが広がった。
その甘さに少しだけ気が緩んで、私は小さく笑ってしまう。
カウンターの向こうで、マスターがほんの少しだけ目を細めた気がした。
