小説「となりのひの字|ブラザー制度の現実」
27歳社会人、響(ひびき)と、22歳新入社員、日野(ひの)の話。
二人はブラザー制度で一年は一緒に仕事をする前提。
短編?オムニバス形式で進みます。
梅雨に入ってから、初めての晴れ間が見えた朝。
たくさんの人波に揉まれながら駅を出ると、歩いて十五分の所にあるビルを目指す。そこに、響の働く事務所が入っている。
人の流れに任せながら、少し足早で歩いていると、後ろから「響さん!」と声をかけられた。
聞いた声につい振り向くと、犬がしっぽをぶんぶん振って走ってくるのを錯覚するくらい元気で素直な顔をした、新入社員の日野だった。
「おはようございます!」
「朝から元気ね、日野君。おはよう」
「元気っすよ。まだ月曜日ですから」
「何を言うのよ。月曜日だから憂鬱なんじゃない」
「響さんこそ何を言うんですか? 月曜日は二日の休みで元気をチャージした後じゃないですか」
話が嚙み合わない。
響はわずかに眉をひそめた。
この日野は、今年入った新入社員でいわゆるZ世代と言われている。
けれど、ニュースで見るZ世代とそれに合致しないな、と響は思う。
元気で、多少叱っても「スンマセン」と軽く頭を下げる。それでも、人の話はちゃんと聞いている。
響にとってはブラザー制度で日野の面倒を見なければならない立場。
こういう性格で良かったと内心では思っていた。
「で、休みで元気をチャージしたとしても、よく朝から走る気になるわね」
「えー、だって先輩見つけましたし。あ、そうだ。今日給料日っすよね?」
「あー、そうだったわ」
響たちの会社は、ホワイトとまではいかないが、ブラックではない、まっとうな企業だ。
一部上場しているため、安定感もある。
けれど、出張のない職場、規定内の残業時間。
響からすると自分の給料がどれくらいか、給料明細を見なくても分かってしまう。
(先月は二十時間きっかり残業したから、お給料はマックスね)
「でも、意外と少ないですよね。一応、給料面も見ながら選んだんだけどなぁ」
「そりゃ、日本は税金だらけだもの。引かれるのが多いのよ」
「うん、最初見た時、ショックだった」
と、一気にトーンダウンする日野。
思った以上に効いているらしい。
給料からごっそり引かれる現実は、最初は誰だって堪える。
響も、最初はそうだった。
けれど、それが社会というものだ。
厚生年金は……いずれ自分に戻ってくると思いたい。
そんなことを考えつつ、老婆心ながら、日野に爆弾を落としてあげた。
「そんな日野君に、さらなる悲報です」
「え? なんすか?」
響ば協力真面目な顔をして、日野の方を見た。
日野がコクリと喉を鳴らした気がした。
「社会人一年目はまだいいのよ」
「え?」
「二年目のほうが、もっと引かれる」
「えっ!? どういうことっすか!?」
日野の表情がどんどん絶望的になっていくのを、響は少し面白く思いながら。
「増えるというか、ね。住民税」
「じゅ、住民税……」
「一年目は所得がなかったから免除されてただけ」
「え……」
「二年目からは『昨年の所得』に対して、容赦なく天引きされるのよ」
「容赦なく!?」
「おそらく一万五千円くらいはいくんじゃないかしら?」
「マジかぁ……」
肩をガクリと落とした日野に、朝からショックを与えすぎたかなと心配する響。
どう声をかけようかと、ほんの少しためらっていると。
「俺、今の給料をもとに、車のローン組んだのに……。一万五千円も引かれたら、昇給があっても絶対マイナスですよー」
ボソリと呟く日野。
今どき、通勤に使うでもないのに車を買うなんて珍しい。
「意外だね。車んて、通勤に必要ないじゃない」
「そう言いますけどね。俺、働いたら自分の車買うのが目標だったんです」
「へぇ。意外。イマドキの若い子は車離れしてるって聞くけど」
「あ、響さん、イマドキの若い子って言い方止めてください。なんか、一括りにされたくないっす」
時々、ですます口調から「っす」になるのは、社会人として日が浅いからなのだろうか。
少なくとも、無意識に出てしまうんだろうな、と響は推測した。
(意外と体育会系かな?)
少なくとも、横を歩いている社会人一年生は、ニュースで言っているZ世代に当てはまらない。
それが、響は好ましくも思う。
「ごめんごめん。で、なんの車買ったの?」
「ハチロクっす」
「ハチロク……『頭文字D』の? 峠を制覇する気?」
「いやいやいや、さすがに古くてメンテが大変そうじゃいっすか。そうじゃなくて、少し前に数字で86ってのが発売されたんで、その中古っす」
それから、日野は86について熱く語った。
中古でいい状態のものをネットで探したり、実際に中古車センターに通ったりと、なんとか購入できる金額のものを見つけたと。
車は自宅に置いてあり、休みの日はドライブを楽しんでいると言う。
次はカスタマイズに力を入れたかったのに、とぼやいていた。
「あ、でも、峠は攻めないですよ。普通にドライブです」
少し熱が冷めてきたのか、日野は語尾がですます調に戻る。
それを見て、男の子だなあ、と関心してしまう。
「日野君って、草食系男子じゃないねぇ」
昔の男性のよう――と、響は勝手な想像をする。
少なくとも、年の離れた従兄はそんな感じだった。
兄よりも従兄になついていた響は、従兄の影響をモロに受けていた。ちょうどバブル真っ只中の従兄は、今の二十代と違う。
「えー、響さんの中の俺って、どんな感じなんですか。これでも恋愛に関しては、オクテで今は相手もいないんですよ」
日野は相変わらず一言も二言も多いな、思ったことが脳内と喉のフィルターを通さないで、そのまま口からダダ漏れているようだ。
「あんたの彼女のことまでは知らないわよ。それ聞いて私にどうしろって言うのよ」
「別に何かして欲しいわけじゃなないですよ。ただ本当のことを言っただけで。あ、でもやっぱり、ドライブに行くのに助手席に乗ってくれる相手は欲しいっす」
日野は最後の方はまたテンションが上がったのか、「っす」で締めた。
響は内心、だからどうしろって言うの――と呆れる。
まさか、自分に乗ってほしいとアピールしているとまでは自惚れてはいない。五歳年上の女性には、彼も興味がないだろう。
「そうねぇ。……なら、私の妹を貸してあげるわよ」
「妹さん? 響さん、妹さんいるです?」
「いるわよ。ちょっと箱入りだから、大事にしないなら貸さないけど」
「いやいやいや、響さんが勝手に決めることじゃないでしょう!?」
「だから、彼女として『紹介』するんじゃないの。ドライブの話し相手に『貸す』だけ」
「いやいやいや、箱入りのお嬢さんなら、男と二人にしちゃ、不味いでしょ!」
自分からそう言ってしまう彼だから安心できるんだけど――と響は思っていると。
「おいおい、朝から何コントやってんだよ。『ひの字コンビ』」
後ろから渋い声がかかった。
二人揃って振り向いて、「課長!?」と大きめの声で、声の主を呼んだ。
「朝から元気だなぁ。『ひの字コンビ』は。やっぱり若さ――か?」
声の主は、二人の上司だった。課長の矢立だった。
年は五十手前だが、中年太りをしていないしっかりとした体を、サラリーマンのスーツに隠していた。
また厄介な――と、響はため息をつきつつ。
「ですから、その言い方は止めてください」
「俺は別に気にしないですが……」
「お黙り。日野君」
「でも」
「いいから黙る」
「おいおい、『ひの字コンビ』じゃなくて『ひの字コント』になる気か?」
『ひの字コンビ』――響に日野、二人とも『ひ』から始まるのとブラザー制度で一緒にいることが多いため、課内で『ひの字コンビ』と呼ばれていた。
響は課長の問いかけに、表情を取り繕うことも忘れ、顔をしかめた――というより、顔をゆがめた。思いっきり。
「おいおい、顔が心情をものすごーく物語ってるぞ」
「……そう言うなら、月曜の朝から疲れさせないでください」
「響さん、年寄り臭いこと言わないでくださいよ。まだ二十代ですよね?」
「元気いっぱいの新入社員に、さらにエネルギーを奪われている気がするわ」
「俺のせいっすか!?」
滅茶苦茶ショック――とばかりに、上半身を引いてショックのポーズを見せつける。
だからそういうのが疲れるのよ――とツッコみを入れたかったが、言えばそれ相応のリアクションが返ってくる日野だ。もう何も言わない方がいいだろう。
タイミングよく会社に着いたのも、そう判断するのに一押ししていた。
が、元気な日野と空気を読まない矢立課長は、ビルに入っても会話を続けている。
そのままエレベーターに乗り、二人をよそに六階のボタンを軽く押した。ちょっとした浮遊感を感じた後、しばらくしてチンという音とともに、六階にたどり着く。
後ろを見ずに早足で歩くが、しょせん女性の足。男性二人は全く気にせず会話をしながら付いてくる。
イラつく――と悪態をつきながら、自分のデスクまでたどり着くと、バッグをどさりと机の上に置いた。飲食代を浮かせようと自販機での購入を抑えるために、紅茶をステンレスボトルに入れているおかげで、持って歩くのが辛いのだ。
「で、さっきの話の戻りますけど、妹さんってどんな感じですか?」
懲りない日野は、響の気持ちを考えずに押してくる。
「……可愛いと思うよ。ただ、一番下の子だから、親が甘やかしてね。ちょっと過保護」
「まあ、響さんの妹さんなら可愛いんでしょうけど」
「なんだ、響から日野へ彼女の紹介か?」
「そんなわけでは、ないですけど」
この課長、いつまで話に混ざる気だ。
矢立は課長らしからぬ陽気さでだ。
響にすると、上司の矢立と面倒を見る新入社員、日野の二人に挟まれて、「ああ、エネルギーが吸い取られていく……」と呟いていた。
そんな状態も、始業を告げるチャイムで終わりを告げた。
「はい、仕事! 課長自らサボらないでくださいね」
「はいはい」
「俺、もっと語りたかったっす」
「じゃあ、続きは昼休みな。響、逃げるなよ」
釘を刺されたようでムッとするが、逃げるのはなんとなく癪に感じて「分かりましたよ」と不機嫌な表情で答えた。
「よしっ。じゃあ、日野には俺からイイ話を聞かせてやるよ。転職の時に覚えていたらイイ話だぞ」
「え、転職っすか? 先輩、メモの用意した方がいいっすかね!」
いや、それ、絶対イイ話じゃない。課長楽しんでるじゃん。そもそもまだ三ヶ月も経っていないのに、転職の話なんてするんじゃない――その言葉が喉元ギリギリまでこみ上げたが、なんとか飲み込んだ。
始業のチャイムが鳴ったのだから、仕事に切り替えるのだ。
でも――
「……結局、休まらないじゃない」
響は内心で激しく毒づきながら、大きくため息をついてパソコンを立ち上げた。
ブラザー制度はおよそ一年だが、その間に日野が一人前になるだろうか。
なったとしても、大型わんこを想像させる日野は、響に懐いていて、二年目に入ってもこの関係は変わらないのかもしれない。
