掌編『私は傘である。』
短編より短いから掌編でいいのかな。
天気予報を見て思いついたものです。
画像はAIで生成しました。
吾輩は傘である。名前はまだない。
……。
夏目漱石を気取ってみたが、どうも合わない。
やり直そう。
こほんっ。
私は傘である。名前はまだない。
もっとも、呼ばれる必要も、覚えられる必要もない身の上であるから、これは不都合でもなんでもない。
……とりえず、傘に思念があるのか――というのは置いておいて欲しい。
ほら、日本では物に命が宿ると言うだろう。おそらく私はそれなのだ。
私の生まれは工場であった。
規則正しい音のなかで骨を組まれ、薄い膜を張られ、何本も同じ姿の仲間と束ねられて箱に詰められた。
そこでは皆、等しく無名であったが、少なくとも同じ行き先を共有していた。
ただ、工場から運ばれ店に並べられたその瞬間から、私の運命はばらばらにほどけ始めたのである。
色とりどりの傘の脇で、私はただ透明であった。
目立つことはないが、視界を遮らぬという理由で手に取られる。選ばれたというよりは、「これでいい」と言われた気がした。
仕方ない。私は傘と呼ばれる中でも低位と言えるビニール傘なのだ。
私と同じ物が沢山ある。
だから、その曖昧さが、いかにも私らしい、と思う。
最初の持ち主は中年のサラリーマンであった。
突然の雨に舌打ちしながら、店先で私を掴んだ。
乱暴に開かれたが、雨粒が軽やかに弾ける。
私は嬉しかった。役に立つということは、存在の証のように思えたからである。
しかしその証は長くは続かなかった。
駅に着くと、中年のサラリーマンは私を乱暴に閉じ、傘立てに差し込んだ。
その手つきには、すでに所有の意識が薄れているように見えた。
当たり前だ。通り雨は過ぎ、私はもう彼にとって無用の長物になったのだ。
しばらくして、別の手が私を引き抜いた。
今度は初老の男性である。
彼は慎重に私を開き、歩みもゆっくりであった。風が吹けば体を寄せ、私が煽られぬよう気を配る。
その扱いはどこか申し訳なさを含んでいた。
おそらく、私が自分の傘でないことを知っているのだろう。それでも雨の間だけは、私は彼の頭上で役目を果たせた。
だが、役目を終えれば関係も終わる。
初老の男性は目的地に着くと、私を静かに畳み、やはりどこかへ置いていった。
持ち去られることもあれば、置き去りにされることもある。
そのどちらも、私にとっては大差がない。
いずれにせよ、次の手が現れるまでの間、ただ立ち尽くすのみである。
何度か別の手に渡った後、強い風に煽られて、私の骨が一本だけわずかに曲がった。
完全に折れたわけではないが、開くと少し歪む。
その瞬間、持ち主の若い女は小さく舌を鳴らし、「やっぱり安いのは駄目ね」と言った。
私はその呟きを、雨音とともに受け止めるしかなかった。
私は自らを選んだ覚えもなければ、価値を決めた覚えもない。ただそこにあっただけである。
それでも、刹那の時でも必要とされたいと思うのは、『道具』としての性なのか。
それ以来、私は少し開きにくくなった。
力を込めなければ、骨がきれいに広がらない。ぐにゃりとしわがよったところができる。
それでも雨は容赦なく降り、誰かは私を必要とする。
歪んだ形のままでも、頭上に掲げられれば、わずかながら役に立つ。
役に立つという事実だけが、私を辛うじてこの世に繋ぎ止めていた。
人の手から手へ渡るうち、私は『持ち主』という言葉に疑いを持つようになった。
人は傘を持つのではなく、一時的に借りているだけではないか――いや、借りるというほどの意識すらないのかもしれない。
雨という事象が、ほんの短い縁を結ばせているに過ぎない。
それでも、ときおり不思議な瞬間がある。
信号待ちの間、ふと見上げた顔が私の薄い膜越しにぼんやりと歪む。
その歪みの中で、相手の表情がわずかに和らぐことがある。
雨の憂鬱が、ほんの少しだけ軽くなるのかもしれない。
私はその時、自分がただの覆い以上の何かになった気がする。
満足を得られる――とでも、言うのだろうか。
だが、その感覚も長くは続かない。
雨が止めば、私は閉じられる。
水滴を払われることもあれば、雨水を滴らせたまま放置されることもある。
そして気がつけば、また別の場所、別の傘立ての中にいる。
いずれ、私はどこかで忘れ去られるだろう。
骨がさらに曲がり、膜が破れ、ついには役に立たないものとして捨てられるに違いない。
その時になっても、私に名前が与えられることはないだろう。
――それでも、雨の降るかぎり、私は開かれる。
私は傘である。名前はない。
だが、無数の頭上を渡り歩いたという事実だけは、確かに私のものである。
いつか、壊れて廃棄されるその日までは――
