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短編小説 月曜日の窓辺 💜

月曜日の朝、ふと見上げた隣のビルの窓に映っていたのは――“かつての自分”。
その姿は、ずっと忘れていた夢を、もう一度思い出させてくれた。
これは、週の始まりにだけ開く、とても静かな“心の窓”の物語。

 月曜日の朝は、いつも少しだけ重たい。

 仕事が嫌なわけじゃない。ただ、週の始まりという響きが、体の奥を鈍く揺らすような気がしていた。

 その日も、いつもと同じようにコーヒーをいれて、カーテンを開ける。目の前に広がるのは、隣のビルの灰色の壁と、ずらりと並んだ窓の群れ。いつもなら、どれも無機質なままだ。だがその朝、ひとつだけ、光っている窓があった。


 「……あれ?」


 左上から三番目。ふだんはブラインドが下りたままのその窓に、やわらかな光が差し込んでいた。しかも――なぜか、その中に“誰か”がいた。

 いや、正確に言えば、「誰かがいるように見える」のだ。

 目をこらすと、その窓の中には部屋があった。見覚えのある古びた机、グリーンのマグカップ、小さな観葉植物。そして、そこに座っているのは……見間違えようのない、若い頃の“自分”だった。


 白いTシャツにくたびれたジーンズ、肩にはギターケース。

 それは、夢を追っていた頃の自分の姿だった。

 咲良は思わず息をのんだ。そんなはずはない、と首をふる。けれど、まばたきしてもその光景は変わらない。まるで映画のワンシーンのように、静かにそこに“昔の自分”が存在していた。


 若い自分は、ふとこちらを見上げた。遠くを見つめるようなその瞳が、いまの咲良の心を突き刺す。

 咲良は、カップを持つ手に力が入るのを感じた。

 ――あれは、幻だ。そうに決まってる。

 でも、どうして月曜日だけ?


 思い返せば、先週も、先々週も、なんとなく気配のようなものを感じていた気がする。けれど、はっきりと姿を見たのは今日が初めてだった。

 カーテンを閉じかけた手を止めて、咲良はそっと、もう一度その窓を見た。

 そこにはまだ、夢を捨てる前の自分がいた。

 時計の針は、まだ午前七時を指していた。いつもならニュースを流しながら、ぼんやりパンをかじる時間だ。


 けれど今日は、何かが違っていた。

 咲良は、窓の前に立ったまま動けずにいた。

 夢を見ていたわけじゃない。眠気ももう抜けている。ただそこに、自分が見てはいけないものがあるような気がして、息を呑んでいた。

 ギターケースの持ち手に添えられた手が、ゆっくりと動いた。あちら側の“自分”が、何かを言おうとしているように見えた。


 けれど音は聞こえない。

 ただ、その唇の形は、どこか懐かしいフレーズを紡いでいた。

 ──あの頃、毎日のようにノートに書いていた言葉。

 「まだ間に合う」

 咲良の心が、かすかに揺れた。

 月曜日の朝だけ、現れるあの窓。


 咲良は次の週も、その次の週も、気がつけば同じ時間にカーテンを開けるようになっていた。カップに注がれたコーヒーの湯気を見つめながら、ふと視線を上げる。すると、やはりあの窓には“彼”がいる。

 変わらず若く、どこか無邪気な目をして、机に向かってなにかを書いている。

 そしてある週、とうとうその“彼”が、こちらに手を振った。


 咲良は息を止めた。幻が、幻でなくなる瞬間だった。

 手を振り返すべきか。そんなことを考えているうちに、窓の中の彼はゆっくりと手にした紙を掲げた。白い紙に、黒いマジックの太字で、こう書かれていた。


 『まだ、やめたくないんだろ?』


 咲良は思わず椅子に崩れ落ちた。

 誰にも言っていなかったのに。いや、もう自分でも忘れたふりをしていたのに。

 あの頃、自分が何を願っていたのか――もう思い出せないと、諦めたつもりだったのに。

 彼の言葉が心を刺して、にじむように広がっていく。


 なぜ、この窓が現れるのか。なぜ月曜日なのか。

 もしかしたら、週のはじまりにこそ、人は立ち止まるのかもしれない。進み続けるために、振り返らなければならない瞬間があるのかもしれない。

 咲良は静かに立ち上がると、机の引き出しを開けた。奥から取り出したのは、埃をかぶった古いスケッチブック。

 表紙には、あの頃の自分のサインが書かれていた。


 「もう描かないって、決めたはずだったのに……」


 ページをめくると、懐かしい色鉛筆の線と夢のかけらたちが、そこに息づいていた。

 それを手に、再び窓の向こうを見たとき――彼は、笑っていた。

 スケッチブックを開いたまま、咲良は立ち尽くしていた。


 そのとき、ふと気づく。向こうの自分が、今度は何かを描いているのだ。勢いよく走る手元、その表情は、何かに夢中になるとき特有のものだった。

 咲良は、机の引き出しから一本の鉛筆を取り出した。

 芯は少し丸まっていたけれど、不思議と手になじむ。それをスケッチブックの上に乗せる。動き出すのは指ではなく、心だった。

 1ページ、また1ページ。かつて自分が信じていた線を、また描いてみようと思った。


 あの窓の向こうにいる自分は、過去ではないのかもしれない。

 忘れたくなかった気持ちを、ずっとあそこに残しておいてくれた“自分”なのかもしれない。

 月曜日の朝にしか会えないその姿に、咲良は小さく、頭を下げた。

 「ありがとう。少しだけ、もう一度、信じてみる」


 その瞬間、窓の光がすこし揺れたように見えた。

 それから咲良は、毎週月曜日の朝になると、窓の向こうに“かつての自分”を探すのが日課になっていた。

 描きかけのスケッチブック、買い直した色鉛筆、そして週末にだけ進める創作の時間。かつて諦めたと思っていたものが、少しずつ呼吸を取り戻していく。

 ある月曜日の朝、窓の中の彼がこちらに向けて、ノートを掲げた。

 そこには、ただ一言。


 『もう、渡せるよね?』


 咲良は胸の奥に小さな衝撃を受けた。そうだ、自分が描いていたのは、誰かに届けたい「物語」だった。子どものころから、いつか絵本を描きたいと願っていたのだ。

 日々の生活に流されて、夢を捨てたのではなかった。ただ、どこに置いてきたのかを忘れていただけなのだ。

 咲良は窓の前に立ち、深く息を吸った。


 「もう、怖くないよ」


 その言葉は、窓の中の“自分”にも届いたのだろうか。

 彼は、ゆっくりと微笑んだあと、ふと背を向けた。そしてそのまま、部屋の奥へと歩き出す。

 咲良が「待って」と声をかけそうになったとき――窓の光が、ふっと消えた。


 そこには、ただ灰色の壁があるだけだった。見慣れた、何の変哲もない、静かな隣のビルの窓。

 もう、“彼”はいなかった。

 だが、咲良は不思議と寂しくなかった。あの窓の存在が、夢を思い出させてくれたのだ。だからもう、一人でも歩ける。

 コーヒーを飲み干し、机に向かう。白紙のスケッチブックを開き、鉛筆を手に取る。

 そして新しいページに、はじめての物語の一行を書き始めた。

 月曜日の朝にだけ現れた、あの窓の話を。


 その日の午後、咲良は久しぶりに画材屋を訪れた。

 絵本コーナーに立ち寄ると、棚に並ぶ色とりどりの表紙たちが、まるで「おかえり」と言ってくれているようだった。自分の名前が、いつかその棚のどこかに並ぶかもしれない――そんな想像が、胸の奥をあたためた。

 窓が消えてからも、咲良は毎週月曜日の朝にカーテンを開ける。

 そこにはもう、誰もいない。けれど、光の加減や影の揺らぎにふと気づくたび、かつての自分がそこに立っていた気がして、思わず微笑んでしまう。


 「もう、大丈夫」


 その一言は、自分自身への約束だ。

 日々の中で埋もれてしまいそうな夢も、過去の声も、あの窓辺が教えてくれた。忘れていたものは、たしかにあった。でも、消えてはいなかったのだ。

 咲良は今日もペンを取る。物語の続きを描くために。







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