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人生という構造を、人生の流れという現象を、そのまま信じてみる

“がんばって現実を築く”という流れが、自分の中で収束を迎えているのを感じます。

頑張ることを続ける
耐えて積み上げる
抵抗を受けてでも進む

そういった行動が今はもうほぼできなくなってしまった。
というよりも、それを選ばないことが自分にとっての“自然”となった感じ。

その感覚に対しては、
「それは成功や成果を収められない自分を味わいたくないからなんじゃないのか?」
という問いを掛けて注意深くしてみるのだけど、どうやらもう“不安から選ぶ”自分はいなくなっているようで。

だからって、結果、成功しました、成果を収めました、理想通りに日常が流れました、という体験をしているわけではない。

何か違和感のような“抵抗”を感じる瞬間が、日常で起きる。

でも、そのときに無理して流れを変えようとか、耐えてそこに止まろうという選択を選ぶことはなくなった。

無理をする、耐えるというのまた“摩擦”を生むものであって、ぼくはもうそれを選ぶことが無くなりつつあるようです。

その感覚に対しては、
「それは先の見えない未来について“目標”を定めて進むことが怖いからなんじゃないのか?」
という問いを掛けて注意深くしてみるのだけれども、“見えないものは見えないままでいい”という状態が自分にとっての自然となったようで。

でも、だからって、不幸になってもいいとか、辛い人生でもいいと諦めてるわけでもない。

「幸せや喜びを味わたい」という意識は、ある。
ただ、そのために維持しようとか、変わろうとか、意識を向け続けなきゃという意図はあまりない。

それはなんとなく、
人生という川を一枚の葉っぱに乗って流れていく感じ。

葉の上にいる自分は、ただただ流されていくだけ。
水の行方がどこへ向かうかは分からないし、ゴールというものがあるのかも分からない。

途中で、石や水草にぶつかってしまうかもしれないし、行き止まりの流れに入ってしまうかもしれない。

それでも、葉の上の自分はただ流れていく。

そこから見える景色を味わい、こっちがいいとか、あっちには進みたくないとか、そういう“抵抗”に止まることなく、川の流れの通りに進んでいく。

その“状態”でいられるのは、

「人生」という川そのものを信頼しているということ。
人生は、必ず思いの方向に向かうよう創られているという《構造そのもの》への信頼。

「人生の動き」という川の流れそのものを信頼しているということ。
たとえ流れに変化が起きたとしても、その強弱、進行、静止は、人生を再創造するための変化、調整であるという《現象そのもの》への信頼。

人生という構造を、人生の動きという現象を、
コントールしようとせず、ただ人生の流れの中で見える景色を味わう。

そんな抵抗も摩擦もない、
自ら消耗することを選ぶことなく、
流れるように“自然”に生きていく。

その生き方は、
頑張ることを、耐えることを、積み上げることを、
進もうとすることをやめたとき、ふっと顕れる。

それは、
『人生を良くしようとする主体』から、
《人生を生きている感覚そのもの》に還るということ。

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