「自分という輪郭」を手放した先にあるゲーム
私は、社会的な地位や人気、経済的繁栄、 プライベートの充実などは、手放せるものだと思っていた。
たしかに、これらへの執着や依存は、もうあまりない。
「エゴ」は少しずつ消え、やがて完全に消滅していく。
そうして私は、“自分らしさ”に還れるのだと思っていた。
でも、まだ違った。
実はまだ、強烈に残っているエゴがあったのです。
それは、「自分」という存在そのもの。
「わたし」という登場人物がいるから、日常の出来事を味わえる。
「わたし」を通して、周りに存在するものを見聞きできる。
「わたし」を確立すればするほど、「他者」との差異が生まれ、 その差が、
より「わたし」を“際立たせる”。
「わたしというエゴ」を認識するからこそ、 友情、恋愛、人望、地位といったステータスが試され、 この物理空間での体験は色濃くなる。
どちらかというと、私はそういったステータスを、 今まで満足に体験してきたわけではない。
けれど不思議なことに、もうそのような“濃い体験”には、興味が無くなってきているのです。
「自分という色」の濃さ、明るさ、鮮やかさを競い合う“地球ゲーム”。
それをコンプリートする前に、私はなぜか、飽きてしまった。
そしてこれからは、新しいゲームを始めたいと思っている。
けれどそのゲームは、「わたし」がいると、どうやら上手くプレイができないらしい。
なぜなら、そのゲームは“わたしを通して”行われるのではなく、
“全ての中のわたしを通して”行われるのだから。
「自分という輪郭」がはっきりし過ぎていては、この新しいゲームは前に進めない。
自分という輪郭が、全体へと溶けていき、 「何が私なのか、何が全体なのか曖昧」になっていく。
その世界では、個人的な名誉も成功も、もう意味をなさない。
たとえ物理的な出来事としてそれが目の前に発生したとしても、 そこに「わたし個人としての喜び」は薄い。
「わたしという存在」をより際立たせることは、新しいゲームの目的ではないのだから。
あるのは、「全体としての喜び」や、「ただそこに在るだけの至福」だけ。
そんな、輪郭のない、色のはっきりしない新しいゲームを、
“あなたはプレイしますか?”
そのために、
“自分という存在を、手放せますか?”
私たちはいま、エゴからの強烈な問いの前に立っているのです。
