夏の終わりと蛹の感覚
僕という人間が、
“ずっと留まれない”のは分かっていた。
新しい場所や人、物事に出会っては、関係を結び、
それがある程度の形になった頃、
また自然に“別の方”へと流れていく。
長く何かを保ち続けたり、深めたりする前に、
ふと自ら手を離してしまう。
最初の頃、それは「寂しいこと」だと感じていた。
せっかく手に入れたものを、
そう遠くないうちに手放していく自分。
人や物事との関係が消えていくことが、
心細さの理由だと思っていた。
でも、本当は少し違う。
人や組織や環境が変わっていくのではない。
それらが同じ場所に留まっていても、
僕自身が変わっていくのだった。
もう以前と同じようには感じられない。
同じ景色も、同じ言葉も、同じ出来事も、
以前と同じ感覚を持たなくなってしまう。
それでも留まっていれば、
きっと絆は深まり、関係は続いていったのかもしれない。
けれどある瞬間、自然に、でも、はっきりと、
僕は自らその関係を手放してしまう。
僕が寂しかったのは、
人や物事との関係を失うことではなかった。
それも多少あるけれど、少しずれている。
寂しかったのは、
《今の自分とさよならする》ということ。
“今の自分”だからこそ、考えられたことがある。
“今の自分”だからこそ、伝えられたことがある。
“今の自分”だからこそ、築けたものがある。
その一つひとつをそこに残したまま、
僕はまた違う存在へと変わっていく。
それはまるで、幼虫が蛹になるときのよう。
ある程度、地上の葉を味わい尽くしたら、
やがて身体は新たな殻に包まれる。
そして、蛹としての時間を過ごし、
殻を破って羽を得たときには、
幼虫のときの感覚はもう遠く霞んでいる。
羽を使い空に舞い上がる成虫にとって、
地上を這っていた日々は、
まるで最初から存在しなかったかのように忘れ去られていく。
いつか空を舞う僕は、
いま地上にいるこの僕をきっと覚えてはいない。
この“寂しさ”を、知らずに過ごすのだろう。
だから僕は、“寂しい”のだと思う。
過去の関係を手放すことよりも、
《その関係を生きていた自分自身》
と別れることに。
執着を手放すのは素晴らしいこと。
軽くなるのは、求めていたこと。
でも、一時的にでも、
何かにフォーカスしていたから、
何かに“こだわって”いたから、
《味わえた世界》があった。
いずれ、自分が移りゆくなかで、
今いるこの世界にこだわらなくなっていく。
それは、素敵なことなのだけれど、
どこか寂しい。
夏の終わりは、そんな“蛹の感覚”に似ている。
一つの季節が終わっても、街は変わらない。
建物も風景も、同じ場所に立っている。
けれども、“夏という眩しさと勢い”をまとったこの街は、
もう二度と戻ってはこない。
街は少しずつ、
秋という全く異なるエネルギーを帯びていく。
そして、いつしか“夏の感覚”は徐々に消えていく。
その寂しさが、
夏の終わりの夕暮れに、虫の声とともに胸をつつく。
そして僕はまた近いうちに、
“今の自分”とさよならをする。
