自分を差し出せる人間は、他人も差し出せる
自分を差し出せる人間は、他人も差し出せる
前回、配慮範囲という道具を分解した。そのとき、一番大事なところを抽象のまま置いてしまった。自分自身が、その範囲に入っているかどうかという話だ。今回は、そこだけを書く。入っていない人間が実在する。そして、その人間は強く、そして危険だ。話は、一本の映画から始まる。
序章 更地になった男
先日、一本の映画を観た。
一九八七年の『ゆきゆきて、神軍』というドキュメンタリーだ。今、YouTubeで無料公開されているので、誰でも観られる。
主人公は、奥崎謙三という男だ。神戸でバッテリー屋をやっていた。撮影当時、六十二歳。
この男は、太平洋戦争のニューギニア戦線から生きて帰ってきた。彼の部隊は、ほぼ全滅している。生き残ったのは一割にも満たない。そして死因の大半は、戦闘ではなく餓死と病死だった。
その部隊で、終戦から二十三日後に、二人の兵が味方に撃たれた。罪状は敵前逃亡とされたが、戦争はもう終わっている。記録には「病死」と書かれ、遺族はそう信じたまま三十八年を過ごした。
奥崎は、その三十八年後に動き出す。元隊員の家を一軒ずつ訪ね歩き、誰が命じたのかを問い詰めた。相手が「覚えていない」と言うと、殴った。カメラの前で、七十過ぎの老人を殴り倒した。
映画の最後で、彼は元中隊長の家に行き、対応に出た息子を撃つ。懲役十二年。妻は、その勾留中に一人で死んだ。彼は死に目に会っていない。
そして二〇〇五年に、彼自身が死んだ。八十五歳だった。
死後まもなく、彼の家は解体されて駐車場になった。母と妻と本人が眠っていた墓も、撤去された。
血も、家も、墓も残っていない。残ったのは、この映画と、六冊の本だけだ。
観終わって、しばらく動けなかった。何に打たれたのかを整理するのに、丸一日かかった。
そして、その整理の途中で気づいたことがある。
前回、俺は配慮範囲という道具を分解した。誰を勘定に入れて行動しているか、という話だ。形は円ではない、軸が違う人間がいる、外に置く技術がある、といったことを書いた。
その中に、一つだけ、抽象のまま置いてしまった項目がある。
自分自身が、その範囲に入っているか。
書きはしたが、二章分しか使っていない。しかも、具体例をほとんど出さなかった。
奥崎謙三は、その実物だった。
店も、家庭も、自由も、全部差し出した。二十年以上を刑務所で過ごし、最後は自分の墓まで消えた。
そして、周りにいた人間も、同じように削られた。妻は勾留中に死に、同行していた遺族は途中で離れ、何の関係もない息子は撃たれた。
この二つは、別々のことではない。同じ一つの性質から出ている。
今回は、そこだけを書く。
自分を範囲に入れていない人間は、なぜ強いのか。なぜ危険なのか。どうやって見分けるのか。そして、自分がそうなっていないかを、どうやって確かめるのか。
抽象の話にはしない。前回それをやって、失敗した。
第一章 三十八年、止まらなかった男
まず、奥崎という人間が何をしたのかを、具体的に並べる。
一九二〇年生まれ。尋常小学校を出て、丁稚奉公に入った。二十代前半で召集され、ニューギニアへ送られる。独立工兵第36連隊。
ニューギニアがどういう場所だったかは、数字を見れば分かる。東部戦線に投入された日本兵は十六万人。生きて帰ったのは二万人ほどだ。死者の九割以上は、戦って死んだのではない。餓死と病死である。
補給が絶たれ、食えるものがなくなった。草の根、トカゲ、ネズミ、昆虫。それも尽きた後、一部の部隊では人肉食が起きている。「白豚」「黒豚」という隠語まで存在した。呼び名がついているということは、一度きりの事故ではなかったということだ。
奥崎自身は、人肉食はしていないと生涯主張し続けた。野生の豚を捕まえ、現地の畑から作物を盗み、住民と物々交換をして凌いだという。
そして、生き延びた理由を、彼はこう説明している。
国家や国法を守らず、上官を多く殴ってきたからだ。
軍隊の秩序に従った者が死に、逆らった者が生き残った。この経験が、彼の出発点になる。
復員後、彼は普通に生活を始めた。一九四七年に就職し、二か月後に職場の寮母だった女性と結婚する。一九五一年には神戸で店を開いた。バッテリー、中古車、自動車修理。
つまり、彼は最初から社会の外にいたわけではない。店を持ち、妻がいて、商売をしていた。
一九五六年、彼は不動産業者を死なせて懲役十年を受ける。賃貸借をめぐるトラブルだった。この事件は、戦争とも戦友とも関係がない。まだ「神軍平等兵」を名乗る前の話だ。
出所は一九六六年、四十六歳。
そして一九六九年一月二日、皇居の一般参賀で、彼は昭和天皇に向けて手製のパチンコで玉を四発撃った。「ヤマザキ、天皇を撃て」と叫びながら。ヤマザキというのは、ニューギニアで死んだ戦友の名前だ。
以後、彼は止まらない。天皇の写真を使ったビラを街頭でまいて逮捕され、田中角栄を殺すという文字を車体に大書して走り、殺人予備で逮捕され、衆議院選挙に出て落選し、そして映画の撮影中に元中隊長の息子を撃った。
通算の独房生活は、十三年八か月。そこに、最後の懲役十二年が加わる。
成人してからの人生の、二十年以上が獄中だ。
ここで、映画そのものの話をしておきたい。この記事を読んでいる人の多くは、まだ観ていないと思うからだ。
あの映画は、ひたすら訪問で構成されている。
奥崎は、元隊員の家の玄関に立つ。アポイントメントはない。名乗って、上がり込む。
相手は高齢だ。七十前後の人が多い。病を抱えている者もいる。布団から起き上がれない者もいる。
そこで、三十八年前の出来事について問い詰める。
出てくる答えは、だいたい四つに分類できる。
責任の転嫁。 自分も辛かったが、上からの命令だった。逆らえなかった。すでに死んでいる上位の将校に、罪を寄せる。
忘却の主張。 昔のことだから、記憶が曖昧だ。もう覚えていない。
正当化。 あの状況では誰でも同じことをした。軍紀を保つために必要だった。
拒絶。 帰れと怒鳴る。警察を呼ぼうとする。
奥崎は、どれも受け付けない。
食い下がると、「忘れた」と言っていたはずの相手が、突然、凄惨な詳細を語り出す。記憶の欠落が逃避でしかなかったことが、その場で露見していく。
そして、相手が黙り込むと、殴りかかる。
この暴力との距離の近さが、観ていて一番戸惑うところだ。
しかも、殴られた側も、もみくちゃになった次のカットでは普通に会話を続けている。加害と対話が地続きになっている。
島根では、殴りかかった奥崎が逆に組み伏せられ、首を絞められそうになる場面がある。監督は助けに入らず、カメラを回し続けた。
撮影後、奥崎はこれに激怒したという。制作が中止になりかけた。
ここに、一つ引っかかる点がある。
彼は、助けに入らなかったことに怒った。つまり、撮る側に守られることを期待していた。
すべての代償を一人で払う人物、という像が、ここで少しだけ崩れる。
孤立を選びながら、完全な孤立は望んでいなかった。
証言を重ねるうちに、映画は別の事実に行き当たる。人肉食だ。
そして、処刑された二人の兵が撃たれた理由として語られるのが、その人肉食だった。
飢えて人を食べた者が、食べたことを理由に殺された。
ただし、その行為は部隊内で広く行われていた。隠語まであった。だとすれば、二人だけが選ばれた基準は別にある。
映画の中で示唆されるのは、口封じと、食糧としての利用だ。
一人は病気で、もう死ぬ身だった。もう一人は隊に反抗的で、復員すれば隊にとって不利になり得た。
つまり、戦争が終わったからこそ、口を塞ぐ必要が生まれた。
戦犯裁判が始まる。追及される。その前に、都合の悪い者を消す。
これが正しければ、あの処刑は戦場の狂気ではない。戦後を見越した、計算された行為だ。
そして、その計算は成功した。三十八年間、誰も語らなかった。
ここで、一つ確認しておきたいことがある。
彼は、狂人ではない。
行動が四十年間、一貫している。標的は常に「上に立ちながら説明しない者」で、一度も外れていない。手段も計算されている。政見放送という枠を自分で見つけて使い、映画の企画を自分から出し、逮捕されることを織り込んで行動した。法廷での陳述は、そのまま本になっている。
監督の原一男は、彼のことを、単なる狂人ではなくクールな論理と強烈な情熱を併せ持った人物だったと言っている。最も近くで見た人間の評価だ。
そして、相手の強さによって態度を変えていない。天皇にも、元上官にも、田中角栄にも、同じように向かった。逆に、刑務所では障害を持つ受刑者に優しかったという証言がある。
上に噛みつき、下には優しい。この基準は、最後まで変わらなかった。
問題は、彼が狂っていたかどうかではない。
なぜ、誰も彼を止められなかったのか。
そこにある。
第二章 失うものがない人間は、強い
止められなかった理由は、単純だ。
彼には、失うものがなかった。
正確に言えば、失うものを持っていたのに、全部自分から差し出した。
店があった。差し出した。家庭があった。差し出した。自由があった。二十年以上差し出した。名誉も、社会的な立場も、健康も、最後は自分の墓まで。
そうなると、外から手を打つ方法がなくなる。
普通、人を止めるには三つの手がある。
脅す。 ここまでやったら仕事を失いますよ、家族に迷惑がかかりますよ、逮捕されますよ。これは、失うものがある相手にしか効かない。
交渉する。 これを譲るから、あれを譲ってくれ。これも、相手が何かを守りたがっている場合にしか成立しない。
損得を示す。 そこまでやっても割に合わない。これも同じだ。損として計上される項目が、相手の中になければ意味がない。
奥崎には、この三つが全部効かない。
逮捕すると言われても、彼は最初から逮捕を織り込んでいる。妻が困ると言われても、妻ごと巻き込んでいる。割に合わないと言われても、割に合うかどうかを計算する天秤自体を持っていない。
だから、四十年続いた。
ここで、この「強さ」がどういう形で現れるかを、もう少し具体的に見ておく。
普通の人間が四十年続けられないのは、途中で降りる理由が発生するからだ。
理由その一。生活が回らなくなる。
収入が要る。家賃が要る。食う金が要る。
ある時点で、続けることと生活することが衝突する。そこで、たいていの人は生活を取る。
奥崎は、店を畳んだ。生活の側を捨てた。
理由その二。周りが止める。
家族が反対する。友人が説得する。同僚が心配する。
この圧力は、思っているより強い。人は、周囲全員に反対されると続けられない。
奥崎の場合、止める人間が一人ずついなくなった。遺族は降り、妻は死んだ。
理由その三。自分が疲れる。
これが一番大きい。人間は、疲れると続けられない。
そして、疲れたときに休むかどうかは、自分を配分表に入れているかで決まる。
入っている人は休む。休むと、そこで一度止まる。止まると、続けるかどうかを判断し直すことになる。
入っていない人は、休まない。だから、判断し直す機会が来ない。
ここが重要だと思う。
止まらない理由は、意志が強いからではない。
判断し直す機会が発生しないからだ。
普通の人間は、休むたびに「これ、続ける意味あるのか」と一度考える。考えた結果、続けることもあるが、やめることもある。
その機会が来ない人間は、始めた時点の判断のまま、四十年進む。
慣性で進んでいる、と言ってもいい。
外から見ると、鉄の意志に見える。実際には、止まる仕組みがないだけだ。
そして、これは強さの正体であると同時に、危うさの正体でもある。
これは、能力である。
普通の人間は、どこかで自分の生活と天秤にかける。ここまでやったら職を失う。家族に迷惑がかかる。体を壊す。その計算が働いて、止まる。
止まるのは、弱いからではない。天秤があるからだ。
天秤を持たない人間は、止まらない。
そして、この性質を持つ人間は、歴史上たびたび大きなことを成し遂げている。
考えてみれば当たり前で、大きなことをやるには長い時間がかかる。長い時間続けるには、途中で降りない必要がある。途中で降りない人間というのは、降りる理由を持たない人間のことだ。
奥崎が三十八年かけて掘り当てたものは、実際に残った。二人の兵が終戦後に撃たれたという事実は、彼が来なければ、今も「病死」のままだった。遺族は、兄が病気で死んだと信じたまま生涯を終えていたはずだ。
映画も残った。四十年後の今、無料公開されて何千人が観ている。
常識的な人間なら、三十八年前の件で老人の家を訪ね歩いたりしない。
割に合わないからだ。
彼は、その計算をしなかった。だから残った。
ここまでは、評価すべき部分だ。ここを認めずに批判だけすると、話が嘘になる。
問題は、ここからだ。
第三章 そして、他人も差し出せる
自分を勘定に入れない人間は、他人も勘定に入れられない。
理由は、身も蓋もない。基準が同じだからだ。
自分の平穏を軽く扱っている人間にとって、他人の平穏も軽い。自分が損をすることを気にしない人間は、他人が損をすることも気にしない。
「俺は自分のことなんかどうでもいい」と言う人間は、たいてい他人のことも同じくらいどうでもいい。
映画の中で、これが三回起きている。
一つ目。同行していた遺族が、途中で降りた。
奥崎の旅には、撃たれた二人の兵の遺族が同行していた。妹と、弟だ。自分の兄の最期を知るための旅である。
その二人が、途中で耐えられなくなって降りる。奥崎の暴力に付き合えなくなったからだ。
映画は、その理由を説明しない。観客は、気づいたときに二人がいないことに気づくだけだ。
これは、静かだが決定的な場面だと思う。彼が代弁していたはずの遺族が、彼のやり方を拒否した。
普通なら、ここで方法を見直す。少なくとも、遺族を伴わない形に切り替える。
彼はどうしたか。
二つ目。妻と知人に、遺族の役を演じさせた。
偽の遺族を仕立てて、訪問を続行したのだ。しかも向かった先は、処刑を直接命じたとされる元隊長の家である。
三十八年、嘘を許さないと言い続けてきた男が、真相を引き出すために嘘をついた。
しかもこの一件は、映画の中で隠されていない。観客は、それを知った上で以降の場面を観ることになる。
三つ目。息子を撃った。
一九八三年十二月、彼は元中隊長の家に行った。対応に出たのは本人ではなく、その息子だった。
彼は撃った。息子は重傷を負う。
この息子は、何も知らない。何も語れない。あの戦場にいたわけでもない。父親の罪とも無関係だ。
三十八年かけて説明を求め続けた旅が、説明できない人間を撃つことで終わった。
これを、彼の性格が悪いから、と説明することはできない。彼は下や横を叩いたことが一度もない。刑務所では弱い立場の受刑者に優しかった。
そうではなく、構造で説明できる。
彼の配分表に、家族という単位が存在しない。息子は父とは別人だから守られるべきだ、という欄がない。
そして、遺族の平穏という項目も入っていない。妻の生活という項目も入っていない。
なぜ入っていないか。
彼自身の平穏も、そこに入っていないからだ。
自分の生活を差し出せる人間にとって、他人の生活も差し出せる範囲にある。特別扱いする理由がない。
ここが、この記事の中心だ。
残酷さと自己犠牲は、同じ一つの性質から出ている。
別々のものではない。裏表ですらない。同じものだ。
ここで、一つ補足しておきたいことがある。
この構造は、本人からは見えない。
奥崎は、自分が妻を巻き込んでいるとは思っていなかったはずだ。
妻も一緒に戦っている、と考えていた可能性が高い。実際、彼女は付き合った。付き合ったのだから、同意していると読める。
だが、断れない状況で同意しても、それは同意ではない。
第十三章で書くことになるが、自己犠牲は周囲の口を封じる。相手のほうが多く払っている状況で、こちらの都合を言うのは難しい。
そして、言われない側は、問題がないと解釈する。
沈黙が、同意として処理される。
これは、悪意ではない。反対されていないのだから、反対がないと考えるのは自然だ。
だから、この型の人間は、最後まで気づかない。
気づくとしたら、誰かが実際に降りたときだけだ。
映画の中で遺族が降りたとき、奥崎はどう受け取っただろうか。
裏切られたと感じたかもしれない。あるいは、彼らには覚悟が足りなかったと考えたかもしれない。
自分のやり方に問題があった、とは考えなかったと思う。
考えていれば、偽の遺族を仕立てるという選択にはならない。
第四章 妻の話
この記事で、一番書きにくい部分を先に書いておく。
奥崎シズミという人がいた。奥崎謙三の妻だ。
出会いは一九四七年。彼が就職した製作所の寮母をしていた。就職から二か月で結婚している。彼が二十七歳、彼女が二十九歳くらいのはずだ。
その後の人生は、夫の行動に丸ごと規定された。
一九五六年に夫が懲役十年で収監される。結婚から九年目だ。彼女は三十代後半で、十年間を一人で過ごすことになる。
出所後も、夫は止まらない。パチンコ事件で一年六か月。ビラ事件で一年二か月。そのたびに、彼女は待った。
映画の冒頭に、この夫婦が二人でバッテリー屋をやっている場面が出てくる。穏やかな朝の光景だ。店のシャッターだけが手書きの文字で埋め尽くされているが、中では老夫婦が普通に働いている。
その彼女が、映画の途中で、遺族の役を演じさせられる。
本物の遺族が降りた後、夫は妻と知人を遺族に仕立てて、訪問を続行した。彼女は、他人になりすまして、元隊長の家に上がり込んだ。
監督の原一男は、彼女がそこまでした理由を、夫への深い愛だったと語っている。一目惚れだったという話も残っている。
その真偽を、俺は確かめる手立てを持たない。
確かなのは、次のことだ。
一九八六年九月、彼女は死んだ。夫が広島拘置所に勾留されている最中だった。
夫は、妻の死に目に会っていない。
自分の行動の結果として、そうなった。
そして、この後に起きたことを書く。
映画は翌年の一九八七年八月に公開された。夫は服役中で、自分の映画を観ていない。
公開中の九月十八日、劇場で観客と関係者に、饅頭が配られた。二個入りで、神と軍の焼印が押してある。「神軍饅頭」と呼ばれたそうだ。
拘留中の奥崎から贈られたものだった。
その日は、妻の一周忌だった。
この一件を、どう受け取るかは人によって違うと思う。
弔いのつもりだったのかもしれない。妻への手向けを、映画館という場に送ったのかもしれない。
だが、俺はここに、この記事で書いてきたことの全部が詰まっていると感じる。
刑務所から饅頭を配る男と、一年前に一人で死んだ妻。
彼の配分表には、妻の生活という項目が入っていなかった。入っていれば、九年目で店を失う事件は起こさなかったし、六十三歳で人を撃ったりもしなかった。
そして、入っていなかった理由は、彼が冷たかったからではない。
彼自身の生活という項目も、そこには入っていなかったからだ。
自分の平穏を差し出せる人間にとって、妻の平穏も差し出せる範囲にある。特別扱いする理由がない。
ここで、一つだけ言っておきたいことがある。
シズミが被害者だったのか、共犯者だったのか、それとも自分の意志で選んだのか。俺には判断する資格がない。
彼女は、自分で書き残していない。夫の本の中にも、監督の証言の中にも、彼女自身の言葉はほとんど出てこない。
外から見えるのは、行動だけだ。夫を待ち、店を守り、遺族の役を演じ、そして一人で死んだ。
その一つ一つに、彼女がどういう気持ちで臨んだのかは、誰も知らない。
この記事で扱っている構造の、一番の代償を払ったのは彼女だ。そして、彼女の言い分だけが残っていない。
自分を差し出す人間の周りでは、これがよく起きる。
払わされた側は、文句を言えない。相手のほうが多く払っているからだ。だから、記録に残らない。
残るのは、差し出した側の記録だけになる。
第五章 同じ型の人間は、身の回りにいる
奥崎は極端な例だ。だから、遠い話に見えるかもしれない。
だが、この型の人間は、たいていの人が一人か二人、思い当たる。
自分は休まず働き、部下にも休ませない上司。
この人は、実際に一番働いている。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る。休日も出てくる。だから、文句を言われる筋合いがないと思っている。
そして、部下が体調を崩しても「俺だってきついんだ」と言う。搾取しているつもりが、まったくない。
自分の人生を子供に捧げ、子供にも同じ献身を要求する親。
この人は、実際に捧げている。自分の趣味も、キャリアも、友人関係も、全部後回しにしてきた。嘘ではない。
だから、子供が自分の人生を優先すると、裏切られたと感じる。「あんたのために全部捨てたのに」という言葉が出る。
自分の生活を投げ出して活動し、周囲の生活も巻き込む人。
社会運動でも、宗教でも、ボランティアでも、起業でも、この型は現れる。
本人は無私だ。実際、報酬も受け取っていない。だからこそ、周囲にも同じ献身を要求できる。要求される側は、断りにくい。相手のほうが多く払っているからだ。
自分の体を壊しながら店を続ける職人。
そして、弟子にも同じことを求める。「俺は寝ずにやった」と言う。実際にやった。
自分の金を全部つぎ込んで、家族の生活も傾ける人。
投資でも、ギャンブルでも、事業でも、推し活でも同じことが起きる。本人の中では、自分が一番損をしているので、公平だと思っている。
もっと身近な例も並べておく。極端な人物でなくても、この型は日常のあちこちに出る。
風邪を引いても出社する人。
そして、風邪で休んだ同僚に「大丈夫?」と言いながら、内心で少し引っかかっている。自分は出たのに、と。
口には出さない。だが、次に人事評価をするときに影響する。
家族の予定を全部自分で調整して、疲れ切っている人。
誰も頼んでいない。本人が引き受けた。
そして、家族が感謝を示さないと、不満がたまる。「私がやらなかったら誰がやるのよ」という言葉が出る。
自分の食事だけ、極端に手を抜く人。
家族には作る。自分の分は、立ったまま残り物で済ませる。
これは美談として語られることが多い。だが、その人は自分を配分表に入れていない。
そして、この習慣を持つ人は、たいてい他人の食事にも口を出す。自分がそこまでやっているから、言う資格があると感じる。
自分の趣味を全部やめた人。
子供のため、家族のため、仕事のため。理由は色々ある。
やめたこと自体は、選択だ。問題はその後で、周りが趣味を楽しんでいると、不機嫌になる場合がある。
病院に行かない人。
他人には「早く行け」と言う。自分は行かない。
そして、悪化してから行く。悪化してから行くと、周りにかかる負担は大きくなる。
謝りすぎる人。
自分に非がない場面でも謝る。場を収めるために、自分を差し出している。
一見、無害に見える。だが、この習慣を持つ人は、他人が謝らないことに強く反応する。
貸したものを返してもらわない人。
金でも、物でも、時間でも。返せと言わない。
言わないので、相手は返さなくてよいと学習する。そして、貸した側は不満を溜める。
溜まった不満は、いつか別の形で出る。
これらは、どれも小さい。人生を壊すほどのものではない。
だが、共通しているものがある。
自分が損をすることを、損として数えていない。
そして、数えていないぶん、他人が損をすることにも鈍くなる。あるいは、他人が損をしないことに苛立つ。
苛立ちは、たいてい自分を外していることの副産物だ。
自分が我慢しているのに、あの人は我慢していない。
この形の苛立ちを感じたときは、自分の配分表を疑ったほうがいい。
これらに共通しているのは、四つだ。
一つ。本人が、実際に最も多く払っている。これは嘘ではない。
二つ。だから、搾取している自覚がない。
三つ。外から見ると、立派に見える。献身的だ、無私だ、と評価される。
四つ。周囲は、断りにくい。相手のほうが多く払っているからだ。
そして、これが一番厄介な点だが、批判されると本人が傷つく。
「そこまでやらなくていい」と言われた側は、自分の犠牲を否定されたと受け取る。だから、余計に固くなる。
奥崎は、この型の極限形だ。
彼は本当に、誰よりも払っていた。二十年の獄中と、店と、家庭と、最後は墓まで。
だからこそ、遺族が降りても止まらなかった。自分がこれだけ払っているのに、あなたたちは降りるのか、という感覚があったはずだ。
払っていることは事実だ。だが、払っていることと、他人に払わせてよいことは、まったく別だ。
ここが、この型の人間が最後まで理解できない一点だと思う。
第六章 なぜ、自分を外してしまうのか
ここまで、自分を範囲に入れていない人間の話をしてきた。
だが、なぜそうなるのかを書いていない。
生まれつきではないと思う。赤ん坊は、自分を最優先にする。腹が減れば泣く。それが標準の状態だ。
どこかで、外れる。
原因として考えられるものを、いくつか挙げる。全部が仮説であって、証明されたものではない。
その一。生き残ってしまったこと。
奥崎の場合、これが大きいと思う。
彼の部隊は、ほぼ全滅した。千数百人のうち、生きて帰ったのは百人前後、あるいはもっと少ない。
そして彼は、自分が生き延びた理由を「上官を多く殴ったから」と説明している。
つまり、秩序に逆らったから生き残ったという自己認識を持っている。
これは、自慢のように聞こえる。だが、裏返せば、自分だけが要領よく立ち回ったという告白でもある。
彼が見てきたものを考えれば、なおさらだ。ウジが湧き、ハエにたかられながら死を待つ戦友が道端に放置されていた。歩けなくなった兵には手榴弾が渡された。彼はその横を通り過ぎて、生きて帰った。
通り過ぎた、という記憶を持った人間は、自分の生活を大事にしにくくなる。
大事にした瞬間に、通り過ぎた相手との差が開くからだ。
これは、極限の戦場に限った話ではない。事故で自分だけ助かった人。倒産した会社で自分だけ再就職できた人。同期が辞めていく中で残った人。
規模はまるで違う。だが、構造は同じものが動く。
その二。自分を大事にすることが、悪いことだと教わった場合。
わがままだ、自分勝手だ、我慢しなさい。
これを繰り返し言われて育つと、自分の欲求を計算に入れること自体に、罪悪感がつく。
そして、計算に入れないことが習慣になる。
厄介なのは、これが褒められることだ。手のかからない子、しっかりした子、我慢強い子。
褒められた行動は、定着する。
その三。自分を後回しにすると、周りがうまく回った経験。
家庭でも職場でも、誰かが引き受ければ場が収まる。
一度それをやって、うまくいってしまうと、次もやる。次もうまくいく。
そのうち、引き受けるのが自分の役になる。
そして、この役は降りにくい。降りると、場が崩れるからだ。崩れた責任が、自分に来る。
その四。差し出すものがあるうちは、必要とされる。
これは、かなり暗い話だ。
自分を差し出している間は、周囲から評価される。感謝される。必要とされる。
差し出すのをやめると、その評価が消えるかもしれない。
だから、やめられない。
自分に価値があるかどうかを、差し出した量で測っている状態だ。
この状態にいる人間に「そこまでやらなくていい」と言うと、たいてい怒る。
自分の存在理由を否定されたと受け取るからだ。
その五。単に、余力がないだけの場合。
一番多いのは、これかもしれない。
自分を配分表に入れるには、余力が要る。自分の状態を観察し、必要なら手を打つ、という作業には時間と気力がかかる。
余力がなければ、その作業ごと落ちる。
そして落ちた状態を、本人は「自分は自分のことに構っていられない性分だ」と説明する。
性分ではない。余力がないだけだ。
この五つに共通しているのは、一つだけある。
どれも、本人が選んだわけではない。
生き残ったのも、育った環境も、引き受けた役も、余力の量も、自分で決めたものではない。
だから、この状態にいる人を責めても意味がない。
責められると、たいてい「自分は自分のことなんかどうでもいい」と繰り返すだけになる。
もう一つ、書いておきたいことがある。
自分を外していることは、本人にとって苦しくない場合が多い。
これが、この問題の一番厄介なところだと思う。
苦しければ、直そうとする。苦しくないから、直す動機が発生しない。
なぜ苦しくないのか。
自分の状態を、観察していないからだ。
疲れているかどうかを確認しない。痛いかどうかを確認しない。嫌かどうかを確認しない。
確認しなければ、苦痛は認識されない。認識されない苦痛は、存在しないのと同じだ。
自分の状態を書き出そうとしても、そもそも「自分に対して何をしたか」という欄を作らない。
作らなければ、書くこともない。書かれていないものは、後から見返しても出てこない。
これは、記録の問題ではなく、認識の問題だ。
自分の状態を観察する習慣がない人は、自分が消耗していることに気づかない。気づくのは、動けなくなってからだ。
「気づいたら倒れていた」という言い方をよく聞く。
あれは比喩ではない。本当に、直前まで気づいていない。
そしてもう一つ。
苦しくないぶん、周りのほうが先に苦しくなる。
本人は平気なので、周りにも同じ水準を要求する。要求された側は、平気ではない。
だから、消耗の順番が逆になる。
本人が最後まで元気で、周りが先に潰れる。
これが起きると、本人はこう考える。自分は耐えられるのに、あの人たちは弱い。
そして、この解釈は、さらに要求を強くする。
第七章 罰を受けたかったのではないか
もう一つ、別の読み方を置いておく。確度は高くない。だが、奥崎の行動の非合理な部分を、これだけがうまく説明する。
彼の行動には、目的から見て明らかに割に合わない部分がある。
服役している間、彼は何もできない。
追及もできない。証言も取れない。書くことはできたが、動けない。
そして、待ってくれるものは何もなかった。
十三年八か月の独房生活に、最後の懲役十二年が加わる。その間に、証言できる元隊員は次々に死んでいった。妻も死んだ。彼自身も老いた。出所したときは七十七歳で、腰が曲がり、耳も遠くなっていた。
説明を取りに行くことが目的なら、逮捕される行動は目的に対して直接不利だ。
しかも彼は、それを四回繰り返している。
一度なら、勢い余ったと言える。四回は、選択だ。
ここで、一つの読みが立つ。
罰を受けること自体が、目的の一部だったのではないか。
無惨に死んでいった戦友を思えば、自分が要領よく生き延びること――保身を持つこと自体が許せなかった。
たとえ保身のほうが、合理的に仲間の無念を晴らせるとしても。
この読みを採ると、彼の行動は非合理ではなくなる。別の目的に対して、合理的だったことになる。
説明を取ることと、自分を罰すること。二つが同時に走っていたから、外から見ると矛盾していた。
裏づけになる点を、いくつか挙げる。
一つ。彼は、自分も天罰を受けたと言っている。
映画の中で、彼は天罰について熱く語る。すべての不幸は天罰だ、と。相手に対しても「あなたは天罰で病気になった」と告げる。
そのうえで、自分も天罰を受けたと言う。自分を例外にしていない。
これは、評価すべき点だと思う。相手にだけ天罰を言い、自分は無傷だと考える人間より、はるかに誠実だ。
二つ。過去の罪を隠していない。
一九五六年の事件を、彼は隠さなかった。政見放送でも、殺人、暴行、窃盗、前科三犯と読み上げられている。自分に不利な事実を、そのまま公にしている。
三つ。生き延びた理由の説明が、負い目を含んでいる。
前章で書いた通りだ。
ここで、天罰という考え方について、もう少し掘っておく。
彼が天罰を持ち出したのは、たぶん体系を閉じるためだ。
現実の司法は、天皇も元上官も裁かなかった。だが、彼一人で全員を撃つことは物理的に不可能だ。相手は日本中に散らばり、老いていく。
罪はあるのに罰がない、という状態を、彼は認められない。
その穴を埋めるのが天罰だ。自分が撃てない相手は、天が罰する。病気も、事故も、家族の不幸も、全部そこに回収できる。
神秘的な体験の結果ではない。穴埋めの部品だ。
そして、その部品を自分にも適用したとき、自罰が成立する。
ただし、ここには非対称がある。
天皇に対して彼が求めたのは、自ら死ぬことまで含む、目に見える形での引き受けだった。
自分については、苦しんだことと反省したことで足りるとした。
相手には外から確認できる行為を求め、自分には内心の申告を認めている。
そして、決定的な証拠がある。
餓死した戦友を、彼は天罰とは呼ばない。
呼ぶはずがない。
つまり彼の天罰は、天の法則ではない。自分が有罪と判定した相手にだけ発動する。
判定しているのは、彼自身だ。
ここまで来ると、前章までで書いてきたことと接続する。
判定する人間が一人しかいない体系は、外から訂正できない。
そして、訂正できない体系の中で自罰を続けると、終わりが来ない。
彼が四十年止まらなかった理由の一つは、たぶんここにある。
ただし、この読みには一つ、致命的な穴がある。
自分を罰しても、死んだ戦友には何も返らない。
死者は受け取れない。謝罪も、償いも、苦痛も、受け取る主体がいない。
受け取れる相手のいない償いは、償いの形をした自罰でしかない。
そして、自罰には終わりがない。
誰も「もう十分だ」と言ってくれないからだ。判定するのは彼自身であり、彼が納得しない限り、罰は続く。
終われない構造を、自分で作ってしまったことになる。
そして、もう一つ。
彼が自分を罰している間、周りの人間も一緒に罰を受けていた。
妻は、夫の刑期の分だけ一人だった。それは、彼女が選んだ罰ではない。
自罰は、本人の内側で完結しない。
必ず、外に漏れる。
第八章 見分け方は、たった一つしかない
では、どうやって見分けるのか。
外から見ると、献身度は同じに見える。よく働く人、家族に尽くす人、他人のために動く人。全部同じに見える。
だが、区別する方法が一つだけある。
その人が、自分に対して、他人にするのと同じことをしているか。
順に見ていけばいい。
他人が疲れていたら、休めと言う人がいる。その人は、自分が疲れていたら休むだろうか。
他人が失敗したら、そこまで責めるなと言う人がいる。その人は、自分が失敗したときに、同じことを自分に言うだろうか。
他人が無理をしていたら、心配する人がいる。その人は、自分が無理をしているときに、心配するだろうか。
他人が体調を崩したら、病院に行けと言う人がいる。その人は、自分が体調を崩したときに行くだろうか。
ずれていたら、その人は自分を範囲の外に置いている。
そして、これは非常に高い精度で判定できる。なぜなら、この人たちは自分に対する扱いを隠さないからだ。
むしろ、誇る。
「俺は三日寝てない」
「風邪くらいで休むわけにいかない」
「自分のことなんか後でいい」
これらは、自慢として口に出される。だから、聞いていれば分かる。
そして、ここが重要なところだ。
自分を範囲に入れている人の献身は、持続する。壊れない。周囲も壊さない。
入れていない人の献身は、加速する。そして、必ず誰かを巻き込む。
加速するのは、歯止めが内側にないからだ。「そこまでやると割に合わない」という判断が働かない。
そして、割に合わないという判断が働かないから、いつまでも続く。続けば、必ず周囲に及ぶ。一人でやり切れる量には限りがあるからだ。
奥崎の場合、及んだ先が妻であり、遺族であり、最後は無関係の息子だった。
外から見た献身度は、同じに見える。区別できるのは、この一点だけだ。
もう一つ、判定に使える点を書いておく。
その人が、他人からの好意を受け取れるか。
これは、かなり精度が高い。
自分を範囲に入れていない人は、受け取るのが下手だ。
何かをもらうと、すぐに返そうとする。奢られると、次は自分が奢ると言う。手伝ってもらうと、申し訳ないと繰り返す。
受け取ることが、借りになる。
なぜ借りになるかというと、自分がその好意に値すると思っていないからだ。
値しないものを受け取ると、帳尻が合わない。だから、返して合わせようとする。
一方、自分を範囲に入れている人は、普通に受け取る。ありがとう、で終わる。
この差は、日常の細かい場面に出る。
そして、受け取れない人は、たいてい与えるほうに回る。与えていれば、借りが発生しないからだ。
外から見ると、気前がよく、親切な人に見える。
実際には、受け取れないだけの場合がある。
もう一つの見分け方も書いておく。
「自分のためにやったこと」を、最近いつやったか。
誰のためでもなく、自分がやりたかったからやったこと。
すぐに出てくる人は、入っている。
考え込む人、あるいは「そんな時間はない」と答える人は、入っていない可能性が高い。
そして、この質問は自分にも当てられる。
直近の一か月で、自分のためだけにやったことを三つ挙げられるか。
三つ出ない人は、たぶん入っていない。
第九章 怒りは、どこへ向かうのか
ここで、話を一つ広げる。
自分を差し出せる人間の怒りは、どこへ向かうのか。
普通に考えれば、上に向かう。悪いことをしている権力者、命令を出した人間、不正で得をしている人間。
奥崎も、確かに上へ向かった。天皇、元上官、田中角栄。物理的に手を出した相手は、全員が上だ。
だが、彼の文章を読むと、もう一つの敵が出てくる。
彼はこう書いている。裕仁が今日まで誰からも罰せられず、公然と天皇として存在している。ゆえに、裕仁と、それを許している者たちに、激しい怒りと軽蔑を抱かずにおれない、と。
「それを許している者たち」。
ここに、二つ目の敵がいる。
権力を持っていない。命令も出していない。誰も殺していない。
ただ、問わない。
これは、彼の他の行動とも一致している。
一九八三年の衆議院選挙で、彼は政見放送に出た。落選確実だと自分で言った上で、こう述べている。この事実を知らない人類全員が、無知蒙昧な野蛮人であり、重症の気違いである、と。そして最後に、自分に投票してくれる「正気に近い軽症の気違い」がどれだけいるだろうか、と問いかけて締めくくった。
攻撃対象が、聞いている有権者そのものだ。
権力者を批判する演説ではない。国民を批判する演説である。
ビラを街頭でまいたのも、同じ理屈で説明がつく。標的が権力者だけなら、権力者に手紙を書けばいい。銀座や新宿の歩行者天国で三千枚をまいたということは、通行人に向けて言っていたということだ。
ここで、話が飛ぶが、まったく同じことを言っている人物が漫画にいる。
『キングダム』の桓騎という将軍だ。元は野盗の頭で、残虐なことで知られている。
その男に、こういう趣旨のせりふがある。
この世には、高い所で好き放題やる馬鹿どもと、その犠牲になる底辺の者たちと、その中間の者たちがいる。底辺の者たちは、自分の仇は高い所のクソ野郎どもだと思っているだろうが、本当はそうじゃない。本当に怒りを向けるべき相手は、無関係を決め込んでいる中間の奴らだ。 数で言えば、この世界は中間の奴らで占められている。そいつらが何もしねえから、世の中の構造が変わらねぇんだよ。
奥崎の「それを許している者たち」と、同じ場所を指している。
そして、この二人には他にも共通点がある。
国というものに関心がない。上の判断より自分の判断を上に置く。仲間思いが動機の核にある。深い喪失を経験している。一番上の責任を重く見る。芯がぶれない。
そして、世界に絶望していないから、怒り続けている。
絶望した人間は怒らない。諦めるからだ。怒り続けられるのは、まだ変わりうると思っているからである。
奥崎は、怒りを持続させることで自分の正気を保っている、と書いている。
怒りが、生きるための燃料になっている。
止まらないのは、止まると自分が保てなくなるからでもある。
ここで、なぜこの話を持ち出したのかを書いておく。
自分を差し出せる人間の怒りは、必ずこの形になるからだ。
自分が全部差し出しているとする。その人から見ると、差し出していない人間は全員、何かをサボっていることになる。
権力者は、明確な敵だ。分かりやすい。
だが、それ以上に目につくのが、何もしていない大多数のほうになる。
自分がこれだけ払っているのに、あの人たちは払っていない。
第五章の最後で書いた苛立ちと、同じ形だ。規模が違うだけである。
そして、この苛立ちは正当化しやすい。
実際、その人は払っている。払っていない人より、多く払っている。
だから、要求する資格があるように感じる。
自己犠牲は、他人への要求に変換される。
第五章で書いた通り、ここが分岐点だ。
そして、規模が大きくなると、要求の対象が社会全体になる。
奥崎の政見放送が、まさにそれだった。人類全員が重症の気違いである、という言い方の裏にあるのは、たぶんこれだ。
俺はこれだけ払った。おまえたちは払っていない。
第十章 なぜ、傍観者に向かうのか
前章の観察は、偶然ではないと思う。
構造を変えたい人間は、必ず同じ結論に行き着く。
理由は、単純な算術だ。
権力者は、数が少ない。一人ずつ倒しても、次が出てくる。ポストが空けば、誰かが座る。
構造を支えているのは、その下の大多数のほうだ。
命令を出す人間がいても、実行する人間がいなければ命令は実現しない。不正をする人間がいても、見て見ぬふりをする人間がいなければ続かない。
だから、本当に構造を変えたいなら、大多数を動かすしかない。
そして、大多数は動かない。
動かない理由は、悪意ではない。前回書いた通り、範囲の外にあるものは意識にすら上がらないからだ。見えていないものは、無視しているのではなく、存在していない。
だが、怒っている側からは、それが見分けられない。
無視しているのか、見えていないのか、外からは区別がつかない。
だから、怒りは向く。
そして、この見方は正しい。少なくとも、構造の分析としては正確だ。
同時に、これは非常に危険な刃でもある。
「傍観者こそが真の敵だ」という論理は、無限に敵を作れる。
問わない人が敵なら、世の中のほぼ全員が敵になる。実際、奥崎は政見放送で人類全員を「重症の気違い」と呼んだ。論理を突き詰めた結果である。
そして、この形の論法は、歴史上しばしば最悪の結果を生んできた。
「敵に協力しない者は敵だ」
「沈黙は同意だ」
「何もしないことは、加担していることだ」
どれも、粛清と動員の言葉である。
ここで、奥崎について一つ書いておきたい。
彼は、この論理を言葉のレベルに留めた。
中間層に対して、彼は物理的な暴力を振るっていない。撃ったのは、常に上と、その周辺だった。街頭でまいたのはビラであって、殴りに行ったわけではない。
そこに彼の抑制があったのか、それとも全員を撃つことが単に不可能だっただけなのか。
俺には判別できない。
だが、区別はしておきたい。怒りが傍観者に向かうことと、傍観者に手を出すことは、別のことだ。
ここで、もう一つ考えておきたいことがある。
なぜ、傍観者への怒りは、これほど気持ちがいいのか。
正直に書くと、気持ちがいい。
自分は動いている。あいつらは動いていない。この構図は、常に自分を正しい側に置く。
しかも、コストがほぼゼロだ。
権力者を追及するには、資料を集め、証拠を積み、相手の前に立たなければならない。時間も、危険も伴う。
傍観者を責めるのは、一秒で済む。
そして、対象が無限にいる。追及する相手に困らない。
これは、二本目の記事で書いた構造と同じだ。断定はコストがゼロで報酬がある。だから増える。
傍観者への怒りも、コストがゼロで報酬がある。だから増える。
そして、増えると何が起きるか。
本来の相手を追及する時間が、減る。
奥崎がビラをまいていた時間、街宣車を走らせていた時間は、元隊員を訪ねる時間ではなかった。
もちろん、両方やっていた。だが、資源は有限だ。
傍観者に向かうほど、上への追及は薄まる。
これは、彼の目的から見れば損だったはずだ。
そして、たぶん彼はそれに気づいていない。気づく機会がなかったからだ。
第十一章 止まれる人間
ここで、対照になる人物を出す。
創作のキャラクターだ。『テイルズ オブ ヴェスペリア』という作品に出てくる、ユーリ・ローウェルという男がいる。
彼は下町の出身で、騎士団を辞めた元騎士だ。作中で、法が裁かない権力者を、自分の判断で殺す。賄賂で無罪になった貴族と、部下と民間人を使い捨てる軍人。
構造としては、奥崎と非常に近い。
司法が機能しない領域で、自分が判決を下す。組織に属さない。動機が理念ではなく、顔の見える下町の人間関係にある。犯罪者と呼ばれることを受け入れている。
だが、決定的に違う点がある。
彼は、止まれる。
守る相手が「やめてくれ」と言えば、やめる。彼が守っているのは目の前の生きている人間だから、その人間が拒否したら、続ける理由が消える。
そして、対象を外さない。本人だけを裁き、家族には手を出さない。
さらに、記録を残そうとしない。仲間にも隠す。称賛も求めない。彼が求めているのは結果であって、記録ではない。
奥崎は、全部逆だ。
遺族が降りても止まらなかった。息子を撃った。本を六冊書き、映画に出て、選挙に出て、街宣車を走らせた。
この差はどこから来るのか。
俺は最初、性格の差だと思った。ユーリには自制があり、奥崎にはない、と。
これは間違いだった。
ユーリには、選択肢がある。剣の腕があり、仲間がいて、制度の内側にフリンという親友がいる。汚れ役は自分が引き受け、正しい道は相手に託す、という分業が成立している。
目的を達する道が複数あるから、暴力を最小限に絞れる。
奥崎には、何もなかった。資力も、組織も、託せる相手も、口を割らせる手段も。残ったのは自分の拳一つだ。
選べる人間と選べない人間を、選び方の質で比べていた。
これは不公平な比較だ。そして、この種の読み違いは、人を評価するときに最も頻繁に起きる。
環境の差を、人格の差として読む。
だが、条件を揃えても、一点だけ埋まらない差がある。
遺族が止めても続けたことだ。
ユーリの芯は「目の前の誰かを守ること」にある。だから、守る対象が拒否すれば止まる。
奥崎の芯は「説明させること」にある。だから、生きている遺族の意向より、死者への借りと未来への記録が上位に来る。
この差は、選択肢がいくら増えても埋まらない。
むしろ、資源が増えるほど、拒む相手にも押し通す力を持ってしまう。
ただ、もう一つの読み方も残しておきたい。
前章で出した桓騎に、こういう場面がある。仲間の少女が襲われかけ、桓騎が敵を倒した。ところが当の少女は、なんてことをしてくれた、自分はどうなってもいい、これでは皆を守れない、と言う。
それに対して桓騎は、こう返した。おまえらおかしいんだよ、当たり前になっちまってんだよ、奪われることが、と。
そして、言いたくても言えなかった子供たちが、その場で涙を流した。
被害を受けた側が我慢を選んでいるときに、代わりに怒った。
これを奥崎に重ねると、別の読み方が立つ。
遺族が「もうやめてくれ」と言ったとき、彼はそれを尊重しなかった。冷たいからではなく、当事者が諦めることを許さなかったのかもしれない。
どちらが正しいかは、俺には決められない。両方本当だった可能性が高いと思う。
ここで、一つ書いておきたいことがある。
ユーリ方式には、決定的な弱点がある。
何も残らない。
黙って処理して、黙って去る。記録もない。証言もない。四十年後には、事件そのものが忘れられている。
奥崎は、その正反対を選んだ。
殴り、撃ち、逮捕され、映画に出た。だからこそ、ニューギニアで何が起きたかが今も語られている。
両者は、失うものが違うだけだ。
ユーリは自分を守って記録を失い、奥崎は記録を残して自分を壊した。
だから、ユーリのほうが優れている、とは言い切れない。
ユーリが奥崎の立場なら、より少ない被害で、より誠実に振る舞えたはずだ。ただしその代わり、この記事も、あの映画も存在していない。
もう一つ、桓騎も並べておく。
桓騎は、奥崎に近い。国に関心がない。上の判断より自分の判断を上に置く。仲間思いが動機の核にある。深い喪失がある。
違うのは、彼が語らせないことだ。
不正を見つけたら、殺す。奥崎は、殺せる相手を殴って喋らせた。三十八年、住所を把握していながら殺していない。
死人は喋らないからだ。
彼の要求は「言え」だった。桓騎の要求は「消えろ」だ。
三人を並べると、こうなる。
ユーリは、目の前の生きている人を守る。だから止まれる。だが、記録が残らない。
桓騎は、身内を守る。怒りは上と、無関係を決め込む中間層に向かう。記録には関心がない。
奥崎は、死者と記録を守る。だから止まれない。そして、記録だけが残った。
三人とも、深いところでは同じものを拒否している。
力を持つ側が、弱い側を踏みつけて、説明もしないこと。
そして、それを当たり前だと受け入れてしまう空気。
違うのは、そこから先だけだ。
第十二章 組織にも、同じ型がある
ここまで個人の話をしてきたが、同じ構造は組織にも出る。
自分を配分表に入れていない組織、というものが存在する。
具体的には、こうなる。
顧客のためだと言う。取引先のためだと言う。社会のためだと言う。
そして、自社の従業員が壊れることを、損として計算していない。
これは、悪意ではない。本気で顧客のためだと思っている。
だから、社内で誰かが倒れても、「大変だったね」で終わる。損失として集計されない。集計されないから、対策も打たれない。
第二章で書いた通り、損として数えられないものは、判断材料にならない。
そして、こういう組織には、必ず特徴がある。
上の人間が、一番働いている。
これが決定的だ。第五章で書いた上司の型が、組織全体に拡大した形である。
社長が休まない。役員が休まない。だから、下も休めない。
しかも、上の人間には搾取している自覚がまったくない。実際に、一番払っているからだ。
そして、批判されると傷つく。「俺だって寝ていない」と言う。
この一言が出た時点で、その組織は自分を配分表に入れていない。
もう一つ、よく見る形がある。
「お客様のため」が、内部の要求に変換される。
顧客のためだから、無理な納期を飲む。顧客のためだから、深夜まで対応する。顧客のためだから、休日に出る。
どれも、外向きの善意から出ている。
だが、コストを払っているのは内側の人間だ。そして、そのコストは計算に入っていない。
これは、第五章で書いた「自己犠牲を、他人への要求に変換する」の、組織版だ。
見分ける方法は、個人のときと同じでいい。
その組織は、自分の内側の人間に対して、外の人間にするのと同じ扱いをしているか。
顧客には期限を守るのに、社内の約束は守らない。
取引先には丁寧に説明するのに、社員への説明は雑。
外部からの問い合わせには即日返すのに、社内の相談は放置される。
ずれていたら、その組織は自分を範囲の外に置いている。
そして、こういう組織は、外から見ると立派に見える。
顧客第一。誠実な対応。手を抜かない。
実際、外向きには嘘がない。だからこそ、内側の消耗が見えにくい。
外向きの誠実さが、内側の消耗を隠す。
個人の場合とまったく同じ構造だ。献身が、周囲の口を封じる。
対処も、個人と同じところから始まる。
「そのコストは、誰が払うのか」
顧客のために何かを引き受けるとき、そのコストを誰が払うのかを確認する。
自社が払うなら、その分を計算に入れる。
計算に入れないまま引き受け続けると、いつか払えなくなる。払えなくなった時点で、顧客にも迷惑がかかる。
自分を入れないことは、最終的に、外への裏切りになる。
これは、個人にも当てはまる。
自分を削って他人に配り続けると、原資が尽きる。尽きた時点で、配れなくなる。
配れなくなってから困るのは、配られていた側だ。
ここで、家庭についても書いておく。
家庭は、この型が最も濃く出る場所だ。
理由は、外では形式的な扱いが働くからだ。挨拶をする。敬語を使う。手続きを踏む。
家では、それがない。だから、配分表がそのまま行動に出る。
そして、家庭には逃げ場がない。会社なら辞められる。家庭は、簡単には抜けられない。
抜けられない場所で、誰か一人が自分を外していると、何が起きるか。
その人の水準が、家の基準になる。
母親が休まないと、家族は休みにくい。父親が趣味を持たないと、家族は趣味を持ちにくい。
明文化された規則はない。だが、空気として機能する。
そして、この空気に逆らうと、罪悪感が発生する。
「私はこれだけやっているのに」
この一言は、直接言われなくても伝わる。ため息でも、表情でも伝わる。
伝わった側は、自分の欲求を引っ込める。
そして、引っ込めることを繰り返した人間は、次の世代で同じことをやる。
この型は、家庭内で複製される。
第六章で書いた「自分を大事にすることが悪いことだと教わった場合」というのは、たいていこの経路で入ってくる。
親が自分を差し出しているのを見て育つ。それが標準になる。
そして、自分が親になったときに、同じことをやる。
しかも、これは愛情の形として渡される。
だから、切りにくい。
切ろうとすると、親を否定することになる。親が払ったものを、無駄だったと言うことになる。
だから、誰も切らない。
第十三章 なぜ、自己犠牲は美徳とされてきたのか
ここで、一段手前の問いを立てる。
なぜ、自分を差し出す人間は、立派だと思われるのか。
これは、ほとんどの文化で共通している。私心がない、無私、献身的、滅私奉公。全部、褒め言葉として使われてきた。
理由は、たぶん単純だ。
集団にとって、得だからである。
自分の取り分を後回しにする人間が集団に一定数いれば、その集団は強くなる。誰かが損をする役を引き受けるから、全体が回る。
だから、そういう人間を褒める文化を持った集団のほうが、生き残りやすかった。前回、配慮範囲が広い集団のほうが生き延びたと書いたのと、同じ理屈だ。
つまり、自己犠牲を称賛する感覚は、たまたま生まれたものではなく、集団の側に得があったから定着した可能性が高い。
そして、ここに問題がある。
称賛は、暴走を止めない。
むしろ加速させる。
自分を差し出した人間が褒められる。褒められると、もっと差し出す。もっと差し出すと、もっと褒められる。
歯止めが、どこにもない。
しかも、この人が周囲を巻き込み始めても、外からは見えにくい。献身の延長として処理されるからだ。
「あの人は本当に熱心だから」
「あの人は自分のことを考えていないから」
これらは、免罪符として機能する。
そして、被害を受けている側も、文句を言いにくい。相手のほうが多く払っているからだ。
自己犠牲は、それ自体が周囲の口を封じる装置になっている。
奥崎の周りで起きたのも、たぶんこれだ。
妻は、彼を止められなかった。原一男監督によれば、彼女がそこまで付き合った理由は、彼への深い愛だったという。
そうかもしれない。だが、それだけだろうか。
夫が全部を差し出している。獄中に何年もいる。世間から罵倒されている。その相手に、「私の生活を考えてほしい」と言えるだろうか。
言えないと思う。
言った瞬間に、自分が小さい人間になる。
これが、この型の人間の周りで必ず起きることだ。
ここで、少し違う角度から見ておく。
自己犠牲が美徳とされる社会は、自己犠牲を必要とする社会でもある。
誰かが損をする役を引き受けないと回らない、ということだ。
回るように設計されていれば、犠牲は要らない。
具体的に言えば、人員が足りていれば、誰かが休まず働く必要はない。制度が整っていれば、誰かが自腹を切る必要はない。
犠牲が称賛されている場所は、たいてい設計が壊れている。
そして、称賛は設計の欠陥を隠す。
誰かが穴を埋めているうちは、穴があることが見えない。埋めている人が倒れて初めて、穴が露出する。
これは、個人の美談として処理されがちだが、実際には構造の問題だ。
「あの人がいなくなったら回らない」という状態は、褒め言葉ではない。
そして、こういう場所では、自分を配分表に入れている人が浮く。
定時で帰る。休む。断る。
どれも、本来は当たり前のことだ。だが、周りが自分を外している場所では、外していない人が異物になる。
異物として扱われた人は、いずれ外すようになるか、去る。
だから、この型は伝染する。
上が自分を外していると、下も外す。外さない人は居づらくなって出ていく。残るのは、外している人だけになる。
そして、その組織は外から見ると、非常に献身的な集団に見える。
第十四章 自分を入れる、というのはどういうことか
では、どうすればいいのか。
前回、俺は配慮範囲を少しずつ広げろと書いた。段階を四つに分けて、近くから遠くへ、と。
あの記述には、抜けがあった。
広げる前に、自分が範囲に入っているかを確認する必要がある。入っていない状態で広げると、広げた分だけ誰かを踏む。
だから、順序はこうなる。
自分を入れる。それから、広げる。
逆からやると、必ずどこかで踏む。
ここで、誤解を潰しておきたい。
自分を範囲に入れるというのは、自分を最優先にするという意味ではない。
利己主義に転向しろ、という話でもない。
前回、配慮範囲が広い人間は「優しくなったのではなく、自分が大きくなっただけだ」と書いた。隣の家が自分の一部なら、隣の家が損をすると自分が損をする。だから直す。優しさではなく、範囲の問題だ。
その論理を、そのまま自分に適用する。
自分は、自分の範囲の中にいる一人である。
だから、自分が困っていたら直す。他人が困っていたら直すのと、同じように。多くもなく、少なくもなく。
これで、何が変わるか。
歯止めが、内側にできる。
自分の生活が壊れることが、損として計算されるようになる。
損として計算されるということは、「そこまでやると割に合わない」という判断が働くということだ。
第二章で書いた通り、奥崎にはこの天秤がなかった。だから止まらなかった。
天秤があれば、止まる。
そして、これが重要なのだが、天秤があっても、続けることはできる。
止まるか続けるかは、天秤の有無では決まらない。天秤に載せた上で、それでも続けると判断することはできる。
違うのは、判断しているかどうかだ。
天秤がない人間は、判断していない。ただ、止まる理由がないから続いているだけだ。
天秤がある人間は、毎回判断している。そして、判断している人間は、条件が変われば止まれる。
実際にどうやるのか、具体的に書く。
自分の状態を、他人の状態と同じ扱いで記録する。
他人に対して何をしたかと、自分に対して何をしたかを、同じ紙に並べる。
並べると、扱いの差が見える。見えれば、直せる。
自分の欲求を、要求として言葉にする。
「疲れた」ではなく、「今日は八時に上がる」と言う。
前者は感想で、後者は決定だ。感想は無視できるが、決定は無視しにくい。
これは、一本目の記事で書いた話と同じ構造をしている。詰めていない言葉は、相手を動かさない。
自分に対しても同じで、詰めていない言葉は、自分も動かさない。
断る練習を、損の小さい場面でする。
いきなり大事な場面で断ると、失敗したときの損が大きい。
だから、小さい場面で練習する。営業の電話を断る。行きたくない誘いを断る。無理な納期を一度押し返す。
断るという動作自体に、練習が要る。
やったことがない人は、断り方を知らない。知らないから、引き受ける。
「自分がやったほうが早い」を、一度我慢する。
これは、この型の人間が一番よく言う言葉だ。
そして、たいてい事実だ。実際に早い。
だが、自分がやると、相手は覚えない。覚えないから、次も自分がやる。
早さを取ると、永久に自分がやることになる。
誰かに「今日は無理」と言ってみる。
一回でいい。
言ってみると、たいてい何も起きない。相手は普通に受け入れる。
何も起きないことを一度経験すると、次から言いやすくなる。
言えない理由の大半は、言ったら大変なことになるという予測だ。予測が外れることを確認すれば、予測は書き換わる。
そして、ここが重要だ。
自分を入れることは、他人を切ることではない。
この型の人間が一番警戒するのが、そこだと思う。自分を入れたら、誰かが困るのではないか、と。
だが、第十二章で書いた通り、削って配り続けると原資が尽きる。尽きた時点で、配れなくなる。
長く配りたいなら、原資を守るしかない。
これは、優しさを捨てる話ではない。優しさを続けるための話だ。
第十五章 周りに、この型の人間がいる場合
ここまで、自分の話をしてきた。
だが、実際に困るのは、周りにこの型の人間がいる場合だと思う。
上司かもしれない。親かもしれない。配偶者かもしれない。
そして、この人たちは非常に扱いにくい。理由は、これまで書いてきた通りだ。
本人が、実際に一番払っている。
だから、こちらから何かを要求しにくい。要求した瞬間に、自分が甘えている側になる。
そして、批判すると傷つく。傷つくと、余計に固くなる。
対処を、いくつか書く。効くかどうかは場面によるので、試して確かめてほしい。
その一。「あなたも、この中に入っていますか」と聞く。
批判ではなく、質問として。
「そこまでやらなくていい」と言うと、否定されたと受け取られる。
「あなた自身のことは、どう数えているんですか」と聞くと、答えなければならなくなる。
そして、答えられない人がいる。答えられないことに、本人が初めて気づく場合がある。
これは、責めていない。だから、防御されにくい。
その二。感謝ではなく、事実を返す。
「ありがとう」と言うと、この型の人はもっとやる。
感謝は、差し出す行為への報酬になるからだ。報酬があれば、行動は増える。
代わりに、事実を返す。
「今週、あなたは三回残業して、俺は一回だった」
数字は、報酬にならない。ただの情報だ。だが、情報を並べると、偏りが見える。
その三。自分の分を、自分でやる。
引き受けさせない。
これは、地味だが一番効く。差し出す機会そのものを減らす。
ただし、相手はたいてい怒る。「私がやったほうが早い」と言う。
そこで引くと、元に戻る。
その四。相手の余力を、直接減らさない形で守る。
「休め」と言っても、休まない。
代わりに、休まざるを得ない状況を作る。予定を先に埋める。一緒に出かける。手伝わせない仕事を用意する。
これは操作的に聞こえるかもしれない。実際、操作している。
だが、正論が通じない相手には、環境を変えるしかない。
その五。巻き込まれるのを、断る。
一番難しいのが、これだ。
この型の人間は、必ず周囲を巻き込む。そして、断ると自分が薄情に見える。
だが、断らないと、こちらの原資も尽きる。
尽きた時点で、二人とも動けなくなる。
だから、断ることは裏切りではない。
その六。変えられない場合があることを、認める。
第六章で書いた通り、この状態は本人が選んだものではない。生き残ったこと、育った環境、引き受けた役、余力の量。
変わるのは、たいてい何かを失ったときだ。
平時には、まず変わらない。うまくいっているうちは、変える理由がないからだ。
だから、変えようとし続けると、こちらが消耗する。
その七。最悪の場合は、離れる。
これは書きたくないが、書いておく。
この型の人間の暴走が止まらない場合、周りにできることはほとんどない。
奥崎の周りで実際に起きたのが、それだ。遺族は降りた。妻は、降りずに死んだ。
降りた側が正しかったのか、降りなかった側が正しかったのか、俺には判断できない。
ただ、降りるという選択肢があったことは、記録しておきたい。
第十六章 この見方の、弱いところ
ここで、自分の主張を疑う。
弱点を並べて予防線を張るのではなく、実際に修正する。修正しないなら、書く意味がない。
弱点その一 奥崎を、この型の代表にしていいのか。
俺はこの記事で、奥崎を「自分を範囲に入れていない人間」の実物として扱ってきた。
だが、彼は極端すぎる。二十年の獄中も、天皇へのパチンコも、日常のどこにもない。
極端な例で説明すると、話は分かりやすくなる。だが、分かりやすくなった分、自分の話ではなくなる。
だから、主張を修正する。
この記事で言えるのは、「自分を入れていない人間は強く、そして危険だ」という傾向までだ。
奥崎の到達点まで行く人は、ほとんどいない。第五章で挙げた上司や親のレベルが、実際に周りにいる形である。
程度が違うと、話も変わる。 上司が部下に無理をさせるのと、人を撃つのは、同じ構造でも別の問題だ。
構造が同じだからといって、同じ扱いをするのは雑になる。
弱点その二 「自己犠牲的な人間は危険だ」は、言い過ぎではないか。
自分を差し出しながら、誰も巻き込まない人もいる。実際にいる。
黙って自分だけ引き受けて、周りには何も要求しない人。この型は、確かに存在する。
だから、主張を修正する。
危険なのは、自己犠牲そのものではない。
自己犠牲を、他人への要求に変換したときだ。
「俺はこれだけやっている」が、「だからお前もやれ」に変わる瞬間がある。
そこが分岐点だ。変換していない人は、危険ではない。ただ、消耗するだけだ。
それはそれで別の問題だが、この記事の対象ではない。
弱点その三 測る方法がない。
第八章で、見分け方を書いた。他人にするのと同じことを自分にしているか、と。
だが、これを客観的に測る方法はない。
自分に厳しくしているように見えて、実は自分を甘やかしている人もいる。逆もいる。
だから、主張を修正する。
第八章の基準は、他人を判定するためのものではない。
自分に当てるためのものだ。
他人に当てると、必ず外す。外から見えるのは行動だけで、その人の内側の天秤は見えないからだ。
自分になら、当てられる。行動を記録すれば、そこに出る。
弱点その四 この記事自体が、誰かを裁く道具になりうる。
これが一番怖い。
「あの人は自己犠牲的だから危険だ」
こう言えるようになると、便利すぎる。目の前で献身している人間を、危険人物として片づけられる。
だから、主張を修正する。
この記事は、他人を分類するためのものではない。
そして、実際に献身している人が目の前にいるとき、必要なのは分類ではない。
「あなたも、この中に入っていますか」と聞くことだ。
これは、批判ではない。質問である。
そして、この質問に困る人がいるなら、そこに何かがある。
弱点その五 俺自身が、この構造の外にいるわけではない。
ここまで書いてきたことは、全部自分にも当たる。
そして、当たると分かっていることと、直すことは別だ。
この記事を書いた時点で、俺は何も直していない。
書くことは、直すことの代わりにならない。
弱点その六 三部作との接続が、都合よすぎないか。
俺はこの記事で、一本目から三本目までの話を、全部この構造に接続してきた。
説明を詰めるかどうかも、決めるか保留するかも、配慮範囲も、全部つながっているように書いた。
つながって見えることと、つながっていることは違う。
一本の道具で全部説明できるとき、それは道具が優れているのではなく、道具が緩いだけの可能性がある。
前回、俺は同じことを書いた。何でも説明できるものは、何も説明していないのと同じだ、と。
この記事にも、その疑いはそのまま当たる。
だから、こう限定しておく。
この記事で確実に言えるのは、**「自分に対する扱いと、他人に対する扱いは、同じ物差しで動きやすい」**という一点だけだ。
そこから先――強い、危険、暴走する、周囲を巻き込む――は、観察から導いた推測であって、証明ではない。
弱点その七 奥崎の内心は、分からない。
俺は、彼が自分を範囲に入れていなかったと書いた。
だが、彼がそう言ったわけではない。彼の行動から、俺が逆算しただけだ。
本人は、自分を大事にしているつもりだったかもしれない。あるいは、まったく別の理屈で動いていたかもしれない。
行動から内心を読むのは、この記事が一貫してやってきたことだが、原理的には推測でしかない。
これは、認めておく。
弱点その八 「危険だ」と書くことの、副作用。
この記事は、献身している人間を警戒しろ、という読み方ができる。
そう読まれると、害のほうが大きい。
実際に、何も要求せずに黙って引き受けている人は大勢いる。その人たちを疑ってかかる理由はない。
危険なのは、差し出したものを他人への要求に変換したときだけだ。
そこを外して読まれると、この記事はただの疑心暗鬼の道具になる。
第十七章 取扱説明書
最後に、実践に落とす。処方ではなく、入り口として書く。
一。「他人にすることを、自分にしているか」を確認する。
他人が疲れていたら休めと言うなら、自分が疲れていたら休むか。
他人の失敗を責めないなら、自分の失敗も責めないか。
ずれていたら、自分は範囲の外にいる。
二。一週間、四つを記録する。
手を抜いた場面と相手。丁寧にやった場面と相手。迷った場面と理由。そして、自分に対して何をしたか。
四つ目を忘れると、自分が記録から消える。そして、消えたことにも気づかない。
三。「省いた分のコストは、誰が払うのか」と聞く。
前回と同じものだ。自分が払うなら、省いていい。他人が払うなら、その他人を入れるかどうかを決める。
決めるところまでやれば、それは判断になる。無自覚に省くのとは違う。
四。今回は、これを足す。「そのコストの計算に、自分は入っているか」
自分が払うことになるコストを、損として数えているか。
数えていないなら、そこに歯止めはない。
五。献身している人に、「あなたも入っていますか」と聞く。
批判ではなく、質問として。
この質問に困る人がいるなら、そこに何かがある。
六。「そこまでやらなくていい」と言われたときに、腹が立つかどうかを見る。
腹が立つなら、自分の犠牲を否定されたと受け取っている。
これは、第五章で書いた型に自分が入っているサインだ。
七。誰かが自分に対して払っているものを、確認する。
払われていることは、見えにくい。払っている側は、言わないからだ。
たまに、「この人は俺のために何を払っているか」を考える。
八。怒りが誰に向いているかを、見る。
上に向いているか。それとも、何もしない大多数に向いているか。
後者に向き始めたら、一度立ち止まる。第十章で書いた通り、その論理は無限に敵を作れる。
九。「自分は一番払っている」と思ったときを、記録する。
これは、たいてい正しい。実際に払っていることが多い。
だが、そう思った直後に他人への要求が出てくるなら、そこが分岐点だ。
十。余力を作る。
自分を範囲に入れるというのは、具体的には、自分の余力を守るということだ。
寝る。休む。抱えているものを減らす。
守った余力が、他人に配る原資になる。自分を削って配ると、原資が尽きる。
十一。「私がやったほうが早い」と言った回数を、数える。
これは、この型の人間が最もよく使う言葉だ。
たいてい事実である。だが、言うたびに、自分の仕事が増えている。
十二。褒められている行動を、疑う。
責任感がある、我慢強い、他人思い。
こう言われている行動は、たいてい自分を差し出している行動だ。そして、褒められているぶん、歯止めがつかない。
十三。断る練習を、損の小さい場面でする。
いきなり大事な場面で断らない。営業の電話、行きたくない誘い、無理な納期。
断ることには練習が要る。
十四。「今日は無理」と、一回言ってみる。
たいてい、何も起きない。何も起きないことを一度確認すれば、次から言いやすくなる。
十五。苛立ったときに、自分の配分表を疑う。
自分は我慢しているのに、あの人は我慢していない。
この形の苛立ちは、たいてい自分を外していることの副産物だ。
一つだけ選ぶなら
「そのコストの計算に、自分は入っているか」
これだけでいい。
入っているなら、天秤がある。天秤があれば、止まれる。
入っていないなら、止まる理由がない。そして、止まる理由がない人間は、いつか誰かを巻き込む。
終章 更地に戻る
序章に戻る。
奥崎謙三の家は、死後に解体されて駐車場になった。墓も撤去されて、更地になった。
血も、家も、墓も残っていない。
残ったのは、映画と、六冊の本だけだ。
これは、彼が望んだ通りの結果だったのだと思う。
彼が残そうとしたのは、自分の名前でも、家系でもなかった。あの二人が終戦後に撃たれたという事実だ。
そして、それは実際に残った。四十年後の今、この記事を書いている俺が、その事実を知っている。彼が来なければ、知らなかった。
だから、彼のやったことには意味があった。ここは認める。
同時に、代償を払ったのは彼だけではない。
妻は、勾留中に一人で死んだ。遺族は、途中で離れた。何も知らない息子は、身体に穴を空けられた。
この二つを、両方持ったままにしておく。
どちらかに寄せると、話が嘘になる。英雄にすると被害者が消える。狂人にすると、彼が言っていた内容が消える。
そして、狂人扱いは、たぶん彼が一番嫌った処理の仕方だ。「あの人はおかしいから」で済ませれば、彼が言っていたことを聞かなくて済む。
それは、彼が三十八年間、元上官たちに対して絶対に許さなかった態度と、同じ形をしている。
最後に、もう一つだけ書いておく。
この記事は、奥崎という極端な人物から始まった。
だが、俺が書きたかったのは、あの男の話ではない。
自分を勘定に入れ忘れる、という現象そのものだ。
これは、どこにでもある。
風邪でも出社する人。自分の分だけ手を抜いて食事を済ませる人。他人には休めと言って自分は休まない人。
程度がまるで違うだけで、方向は同じだ。
そして、これが厄介なのは、全部、褒められる行動だからだ。
責任感がある。我慢強い。他人思い。
褒められる行動には、歯止めがつかない。
だから、気づいたときには相当進んでいる。
もう一つ。
この記事を読んで、誰かを思い浮かべた人が多いと思う。
あの上司だ。あの親だ。あの人だ。
その気づきは、たぶん正しい。
だが、第十六章で書いた通り、この見方を他人に当てると外す。外から見えるのは行動だけで、その人の内側の天秤は見えないからだ。
当てるなら、自分に当てる。
そして、自分に当てるのは、他人に当てるよりずっと難しい。
なぜなら、第八章で書いた見分け方――他人にすることを自分にしているか――を、正直に確認しなければならないからだ。
正直に確認すると、たいてい気持ちのいい結果は出ない。
そして、この記事を書いている俺も、その例外ではない。
書いた時点では、まだ何も直していない。
これは正直に書いておく。書くことと、直すことは別だ。
最後に、一行だけ残す。
自分を差し出せる人間は、他人も差し出せる。
これは、批判ではない。構造の話だ。
自分を勘定に入れない人は、他人の生活も勘定に入れられない。基準が同じだからだ。
だから、順序がある。
自分を入れる。それから、広げる。
逆からやると、立派な形をした暴力になる。
そして、これは遠い話ではない。
他人には休めと言うのに、自分には言わない。近い相手ほど説明を省く。自分の不調は後回しにする。
程度が違うだけで、方向は同じだ。
前回の記事で、俺はこう書いた。面倒だと思った瞬間が、自分の範囲の境界線だ、と。
今回は、そこに一つ足しておく。
その線の内側に、自分がいるかどうかを確認してから、線を動かす。
いなければ、動かした分だけ、誰かが踏まれる。
映画は、まだ観られる。年内は無料で公開されている。
観れば分かる。あの男は、狂ってはいなかった。
ただ、自分を勘定に入れ忘れただけだ。
この映画について、別のところで全部書いた
この記事では、奥崎謙三を一つの型の実例として扱った。自分を勘定に入れ忘れた人間、という一点だけを見ている。
だが、あの映画にはそれ以外のものが大量に詰まっている。
ニューギニアで実際に何が起きていたのか。終戦から二十三日後の処刑は、狂気だったのか計算だったのか。撮った側は、なぜ暴力を止めずにカメラを回し続けたのか。そして、説明を求め続けた男が、なぜ最後に身分を偽ったのか。
そちらは、クロノ・アーカイブという別のアカウントで、全三十一章かけて書いた二十二章までは無料で読める。
作品の経緯とあらすじ、戦場の実態、思想の解体、映像作品としての批評、派生して調べたこと。この記事で触れなかった部分は、全部そこにある。
映画は、年内はYouTubeで無料公開されている。
観てから読んでも、読んでから観てもいい。
