昨日まで敵だった人間が、五分で味方になる
昨日まで敵だった人間が、五分で味方になる
前回、配慮範囲という線の形を見た。歪んでいて、穴が空いていて、飛び地がある。そして、その内側に自分が入っているかどうかが一番の変数だった。今回は、その線が動く瞬間を見る。何が動かしているのか。動かせるのか。それとも、動かされているのか。
一 クレーマーが、人間に戻る瞬間
窓口で怒鳴っている人間がいるとする。
こちらから見れば、クレーマーだ。理不尽で、話が通じなくて、時間を奪う相手。
線の外にいる。名前も知らないし、知りたくもない。
ところが、話を聞いていくうちに、こういうことが分かる。
その人は先週、家族を亡くしている。手続きが何度もたらい回しになっていて、今日で三回目の来訪だ。前の二回で言われたことと、今日言われたことが食い違っている。
この情報が入った瞬間、何かが変わる。
怒鳴っている人間が、困っている人間に見える。
ここで確認しておきたい。
相手は、何一つ変わっていない。
同じ人が、同じ声量で、同じことを言っている。態度も変わらない。
変わったのは、こちらが持っている情報だけだ。
つまり、線を動かしたのは情報だった。
これは、かなり重要なことだと思う。
前回まで、俺は線の形の話をしてきた。どこが伸びていて、どこに穴が空いているか。そして、その形は環境と経験で決まる、と書いた。
だが、形が固定されているわけではない。日常的に、線は動いている。
そして、動く瞬間には共通した形がある。
情報が入ると、動く。
逆も同じだ。
信頼していた人間が嘘をついていたと分かったとき。約束を破られたとき。裏で悪口を言っていたと知ったとき。
このときも、相手は変わっていない。
昨日と同じ人間が、昨日と同じ性格で、そこにいる。
こちらが知った情報が増えただけだ。それで、内側から外側へ移動する。
だから、こうなる。
線は、感情で動くのではない。情報で動く。感情は、その後についてくる。
順序を逆に考えている人が多いと思う。
好きだから内側に入れる。嫌いだから外に置く。そう考えると、線は感情の結果ということになる。
だが、実際には逆のことがよく起きる。
外に置いてあるから、嫌えるのだ。
内側にいる相手のことは、簡単には嫌えない。事情が見えているからだ。あの人はああいうところがあるけど、家のことが大変だから、と考える。
外にいる相手には、その情報がない。だから、行動だけで判断できる。判断できるから、嫌える。
つまり、嫌悪は情報の欠如から生まれている場合がある。
逆から見ると、こうも言える。
線が動かない相手というのは、情報が入ってこない相手になる。
そして、情報が入ってこない理由は、たいてい二つある。
一つ。こちらが聞いていない。
聞けば話す相手なのに、聞いていない。だから、何年経っても入らない。
二つ。相手が話さない。
これは、こちらが外に置いていることが相手に伝わっている場合が多い。外に置かれていると分かっている相手に、事情は話さない。
つまり、循環している。
外に置く。だから情報が入らない。情報が入らないから、外に置いたままになる。
この循環は、自分では切れない。
なぜなら、切るには情報が要るのに、情報が入らない状態だからだ。
だから、外から切ってもらうしかない。
誰かが「あの人、実はこういう事情があるらしいよ」と言ってくれる。それで切れる。
前の章で書いた、紹介という入口が効くのは、この循環を外から切れるからだと思う。
そして、この循環に気づいている人は少ない。
自分が誰かを外に置いていることは、自覚できない。前回書いた通り、外にあるものは意識に上がらないからだ。
自覚できないものは、切れない。
これは、自分に当てはめると少し嫌な発見になる。
自分が本気で嫌っている相手について、どれだけ知っているか。名前と、肩書きと、やらかしたことくらいではないか。
知らないから、嫌えている。
もちろん、知った上で嫌う場合もある。全部知って、それでも許せないという場面はある。
だが、たいていの嫌悪は、その手前で止まっている。
もう少し、日常の例を並べておく。
電車で足を踏まれる。舌打ちしたくなる。だが、相手が松葉杖をついていると分かった瞬間に、全部消える。
同じ痛みなのに、扱いが変わる。
レジで異様に手間取っている人に苛立つ。だが、その人の手が震えていることに気づくと、苛立ちが消える。
店員の態度が悪いと感じる。だが、その店員が今日入ったばかりの新人だと知ると、見え方が変わる。
車に割り込まれて腹が立つ。だが、その車が病院の方向へ曲がっていくのを見ると、少し違う気持ちになる。
全部、同じ構造をしている。
行動は変わらない。入ってきた情報だけが変わって、線が動いている。
そして、面白いのは、この情報がほとんど推測でしかないことだ。
松葉杖をついているから急いでいたのか、確認していない。手が震えている理由も知らない。あの車が本当に病院へ行くのかも分からない。
にもかかわらず、線は動く。
つまり、線を動かすのに、正確な情報は要らない。
事情があるかもしれない、という可能性が示されるだけで動く。
これは、いい面も悪い面もある。
いい面は、少しの想像で線が動くということだ。相手の事情を実際に確認しなくても、あるかもしれないと考えるだけで扱いが変わる。
悪い面は、嘘でも動くということになる。
作られた事情でも、本当かどうかを確認しないまま動く。
前の章で書いた通り、位置が動いている最中は、確認する動機が生まれない。
そして、動いた後は、確認するのが失礼な気がしてくる。
内側に入れた相手を疑うのは、それ自体が後ろめたい行為になるからだ。
ここで、なぜ情報で動くのかを、もう一段考えてみる。
線を引くという作業は、たぶん省略の作業になっている。
全員のことを考えていたら、生活が回らない。前回書いた通りだ。
だから、考えなくていい相手を決めておく。それが、線の外になる。
外に置いた相手については、行動だけを見て判断する。事情を考えない。考えないから、速い。
これは、処理速度を上げるための仕組みだと思う。
そして、情報が入ってくると、この省略が壊れる。
事情を知ってしまうと、事情を無視できなくなる。無視するには、意識的に無視するという作業が要る。そして、それにもコストがかかる。
だから、知ってしまったら、内側に入れるほうが安い場合がある。
これは、優しさとは関係ない。処理の都合になる。
逆に言えば、知りたくないという気持ちには、合理的な理由がある。
知ると、処理が重くなるからだ。
寄付の広告から目を逸らす。ニュースを見ないようにする。相手の事情を聞かない。
これらは、冷たいからやっているのではない。処理を軽く保つためにやっている。
そして、たいていの人は、これを無意識にやっている。
意識的にやっている人は少ない。
だが、意識的にやったほうがいいと思う。
無意識にやっていると、なぜ知りたくないのかが自分でも分からない。分からないから、後で説明できない。
意識してやれば、これは今処理しきれないから見ない、と言える。
そして、余力ができたときに、見に行ける。
二 線を動かす、六つの入口
情報で動くと書いたが、どんな情報でも動くわけではない。
観察していると、効く情報には種類がある。五つに分けられる。
一つ目は、名前だ。
これは前回も書いた。担当者、と呼ぶか、名字で呼ぶか。それだけで扱いが変わる。
そして、順序が逆ではない。
内側に入れたから名前で呼ぶのではなく、名前で呼ぶから内側に入る。
呼び方を変えると、扱いが変わる。そういう順序で動く場合が、かなりある。
だから、外に置く技術の第一が「名前を消すこと」だった。逆に言えば、名前を戻すのが、線を内側へ動かす一番簡単な方法になる。
二つ目は、事情だ。
冒頭のクレーマーの例がこれにあたる。
なぜそうなっているのか。背景に何があるのか。この情報が入ると、行動の意味が変わる。
同じ行動でも、事情を知っていると別のものに見える。
遅刻を繰り返す同僚がいる。だらしないと思っていた。だが、親の介護をしていると知る。
行動は変わっていない。評価だけが変わる。
三つ目は、共通点だ。
同じ出身地。同じ趣味。同じ病気をした。同じ失敗をした。
これが分かると、相手が急に近くなる。
理屈で言えば、出身地が同じことと、その人が信用できることの間には何の関係もない。
にもかかわらず、動く。
たぶん、自分の一部として処理し始めるからだと思う。前回書いた通り、配慮範囲が広がるというのは、優しくなることではなく、自分が大きくなることだった。
共通点は、その「自分の一部」の判定に効く。
四つ目は、弱さだ。
相手が泣く。困っている。助けを求めてくる。
これは、かなり強力に効く。
そして、この効き方には特徴がある。
相手が強いままだと、線は動かない。同じ人が、弱った瞬間に内側へ入る。
嫌いな上司が病気で倒れたと聞くと、少し気持ちが変わる。この現象は、たいていの人が経験している。
五つ目は、時間の共有だ。
一緒に何かをやる。特に、苦しいことを一緒にやると、強く効く。
これは一番時間がかかるが、一番外れにくい。
そして重要なのは、頻度ではないということだ。
毎日会っているのに何年経っても内側に入らない相手がいる。一方、一度だけ一緒に修羅場をくぐった相手が、十年会わなくても内側に残る。
時間の長さではなく、密度で決まっている。
だから、誰かを内側に入れたいなら、時間をかけても無駄になる。一回、まともに向き合う機会を作るほうが効く。
もう一つ、入口として強いものがある。
六つ目になるが、これは少し性質が違うので分けておく。
第三者からの紹介だ。
自分が信用している人間が「あの人はいい人だよ」と言う。それだけで、会う前から内側寄りの位置から始まる。
これは、線の位置を借りている状態になる。
自分で情報を集めたわけではない。信用している人の線を、そのまま流用している。
だから、非常に効率がいい。そして、非常に危ない。
紹介した人間が騙されていれば、こちらも自動的に騙される。
いわゆる紹介による勧誘が強いのは、この仕組みを使っているからだと思う。
知らない人間から声をかけられたら警戒する。友人から紹介されたら警戒しない。
そして、その友人も、別の誰かから紹介されている。
線の位置が、鎖のように連鎖していく。
さらに厄介なのは、途中で疑いを持ったときだ。
疑うということは、紹介してくれた友人を疑うことになる。
友人は内側にいる。内側にいる人間を疑うのは難しい。だから、疑いを飲み込む。
こうして、抜けにくい構造ができあがる。
これも、悪意がなくても成立する。紹介した側も、善意でやっている場合が多い。
ここまでの六つを並べると、あることに気づく。
全部、意図的に作れる。
名前は呼べる。事情は聞ける。共通点は探せる。弱さは見せられる。時間は共有できる。紹介も、用意できる。
つまり、線は操作できる。
そして、操作できるということは、操作されうるということでもある。
線が動く速さについて、もう一つ。
内側へ入るのに時間がかかると書いたが、例外がある。
一瞬で入る場合がある。
事故現場に居合わせたとき。目の前で誰かが倒れたとき。
このとき、名前も事情も知らない相手が、一瞬で内側に入る。
なぜか。
たぶん、五つの入口のうち「弱さ」が、極端に強い形で入ってくるからだと思う。
そして、もう一つある。
自分にしか助けられない、という状況が加わる。
自分が動かなければ、この人は死ぬ。この判断が入ると、相手は一瞬で内側に来る。
逆に、周りに大勢いる場合は、動かない人が増える。誰かがやるだろう、と思うからだ。
これは、責任の分散の話としてよく語られる。
線の話として読むと、こうなる。
自分にしか助けられない状況では、相手が内側に入る。誰かがやるだろうという状況では、入らない。
つまり、入るかどうかは、相手の状態だけで決まっていない。
自分の位置でも決まっている。
自分が唯一の担当者かどうかで、同じ相手が内側にも外側にもなる。
これは、日常でも起きる。
自分が担当だと言われた仕事には、責任を感じる。全員でやることになっている仕事には、感じない。
同じ仕事なのに、扱いが変わる。
だから、誰かに何かを本気でやってほしいなら、あなたにしかできない、と言うのが効く。
これは、事実として正しくなくても効いてしまう。
そして、この技術も、悪用できる。
三 同じ技術が、詐欺にも使われている
線を動かす技術は、善意でも悪意でも同じように使える。
だから、詐欺と勧誘は、この五つをそのまま使う。
まず、名前を呼ぶ。
電話でも訪問でも、必ず名前を確認して、名字で呼びかける。何度も呼ぶ。
これだけで、相手の中の自分の位置が変わる。
次に、事情を聞く。
体調はどうか。家族はどうしているか。困っていることはないか。
そして、聞いた事情を覚えている。次に会ったとき、その話から始める。
これは、こちらが線の内側に入るための作業だ。同時に、相手の事情を握る作業でもある。
次に、共通点を作る。
出身地が近い。同じ経験をした。同じものが好きだ。
作られたものかどうかは、こちらには分からない。そして、確認する動機も生まれない。
次に、弱さを見せる。
自分も苦労した。自分も同じ立場だった。実は今も大変で。
これは、相手を内側に入れる最短ルートになる。助けたいと思わせれば、警戒は消える。
最後に、時間を共有する。
何度も会う。長く話す。一緒に食事をする。
そして、ここまで来た相手を疑うのは、非常に難しくなる。
なぜなら、疑うということは、自分の線の内側にいる人間を疑うことになるからだ。
前回書いた通り、線の内側にいる相手には、事情を汲む。外側の相手には、行動だけで判断する。
だから、内側に入られた後は、おかしな行動があっても事情を汲んでしまう。
あの人には何か理由があるはずだ。
これが、被害が長引く仕組みだと思う。
騙されている側は、馬鹿ではない。判断力が落ちているわけでもない。
線の位置が動かされているだけだ。
そして、位置が動くと、同じ情報でも解釈が変わる。
もっと言うと、こういう構造になっている。
外にいる相手が金を要求してきたら、警戒する。
内側にいる相手が金を要求してきたら、事情を考える。
同じ要求なのに、扱いが違う。
だから、要求の前に位置を動かす。これが、この種の技術の基本形になる。
宗教の勧誘でも、恋愛を装った詐欺でも、悪質な営業でも、順番はだいたい同じだ。
先に位置を動かす。要求は後から出す。
逆に言えば、要求が先に来るものは、たいてい下手なやり方になる。すぐ断られる。
だから、上手いものほど、最初は何も要求してこない。
ここに、見分ける手がかりがある。
何も要求してこない相手が、なぜこちらに時間を使っているのか。
これを一度考えると、少し止まれる。
もちろん、本当に善意の場合もある。だから、これは疑えという話ではない。
ただ、位置を動かされている最中は、動かされていること自体が見えなくなる。それだけは知っておいたほうがいい。
騙される側の話を、もう少し掘っておく。
被害に遭った人が、周りからよく言われる言葉がある。
なんでそんなのに引っかかったのか。おかしいと思わなかったのか。
この言い方は、判断力の問題として扱っている。
だが、たぶん違う。
判断力は落ちていない。位置が動いているだけだ。
そして、位置が動いた後は、同じ判断力で処理しても、結論が変わる。
たとえば、金を貸してくれと言われたとする。
外にいる相手なら、なぜ自分に頼むのか、返せる当てはあるのか、他に頼める人はいないのか、と考える。
内側にいる相手なら、そこまで困っているのかと考える。
同じ質問を思いつく能力はある。ただ、思いつく必要を感じない。
だから、後から見ると、なぜあのとき聞かなかったのかと思う。
聞かなかったのではなく、聞く場面ではなかった、というのが本人の感覚になる。
もう一つ、抜けにくくなる仕組みがある。
途中で気づいても、抜けにくい。
なぜかというと、抜けるということは、その相手を外に出すということだからだ。
そして、外に出すと、それまで自分がやってきたことが全部無駄になる。
払った金も、使った時間も、信じた自分も。
だから、抜ける判断には、過去の全部を否定する作業がついてくる。
これは、非常に重い。
だから、多くの人は、抜けるより信じ続けるほうを選ぶ。
信じ続けているうちは、過去が無駄にならないからだ。
外から見ると、なぜ気づかないのかと見える。
実際には、気づいている。気づいた上で、認めるコストが高すぎる。
そして、周りが責めれば責めるほど、コストは上がる。
責められると、自分が間違っていたと認めることに、恥が上乗せされるからだ。
だから、抜けさせたいなら、責めないほうがいい。
これは前の章で書いたことと同じになる。責めた瞬間に、こちらが外側になる。外側からの言葉は届かない。
そして、この記事で書いてきた技術は、悪用だけに使われるわけではない。
同じものが、まともな場面でも使われている。
医療の現場では、患者の名前を呼ぶことが基本になっている。番号ではなく名前で呼ぶ。これは、扱いを変えるための手続きになる。
教育でも、生徒の背景を知ることが重視される。事情を知れば、同じ行動でも解釈が変わるからだ。
裁判では、被告人の生い立ちが語られる。これは、線を動かすための作業になる。動かすかどうかは、聞いた側が決める。
営業でも、まず相手のことを聞く。これは技術として教えられている。
つまり、線を動かす技術は、社会のあちこちで公式に使われている。
だから、これを悪いものとして扱っても仕方がない。
問題は、動かした後に何を要求するか、だけになる。
医療は、動かした後に治療を提供する。詐欺は、動かした後に金を要求する。
同じ技術で、出口が違う。
だから、見るべきは技術ではなく、出口のほうになる。
この人は、俺の線を動かした後、何を求めてくるのか。
これを一度考えるだけで、かなり違う。
そして、詐欺や勧誘の話を、もう少し身近な形にしておく。
同じ構造は、日常の中にもある。
営業でも、恋愛でも、就職の面接でも、政治の演説でも、同じ入口が使われている。
そして、大半は悪意がない。
営業の人が相手のことを聞くのは、教えられているからだ。恋愛で共通点を探すのは、自然な行動になる。面接で事情を話すのは、当たり前のことだ。
だから、これを全部疑うのは無理だし、疑う必要もない。
見るべきなのは、要求のタイミングだけになる。
位置が動いた後に、何が来るか。
営業なら、商品が来る。それは分かっている。分かっているから、問題にならない。
問題になるのは、何も来ないはずの場面で、何かが来たときだ。
親切にしてくれるだけだと思っていた人が、ある日、投資の話を始める。
相談に乗ってくれるだけだと思っていた人が、ある日、集会に誘ってくる。
このとき、多くの人はこう考える。
あの人がそんなことをするはずがない。
これは、線の内側にいる人間に対する自然な反応になる。
そして、この反応が出た時点で、既に判断が変わっている。
だから、こう考えたときこそ、一度止まる。
なぜ、そう思うのか。
その根拠は、この人が今まで自分に良くしてくれたから、ではないか。
良くしてくれたことと、この要求が正当かどうかは、別の話になる。
四 線が動く瞬間を、映画で見る
ここで、一本の映画の話をする。
一九八七年の『ゆきゆきて、神軍』というドキュメンタリーだ。今、無料で公開されているので誰でも観られる。
主人公は、奥崎謙三という男になる。神戸でバッテリー屋をやっていた、当時六十二歳の元兵士だ。
この男が、四十年近く前の事件を追って、元隊員の家を一軒ずつ訪ね歩く。
ニューギニア戦線で、終戦から二十三日後に二人の兵が味方に撃たれた。記録には「病死」と書かれていて、遺族はそう信じたまま三十八年を過ごしていた。
奥崎は、誰が命じたのかを問い詰めていく。
なぜこの映画の話をするかというと、この作品には線が動く瞬間が大量に映っているからだ。
しかも、動く方向が両方ある。
まず、外へ動く場面から書く。
訪ねられた元隊員たちは、最初は普通に応対する。玄関で名乗られて、上がってもらって、茶が出る。
そして、事件の話になった瞬間に、態度が変わる。
覚えていない、と言う。昔のことだから、と言う。
このとき、相手にとって奥崎は、もう客ではない。
線の外へ出た。
それまでは近所の人と同じ扱いだったのが、追及者になる。追及者には、事情を汲む必要がない。
だから、平気で嘘がつける。
前回書いた通り、外にいる相手には行動だけで判断できる。逆に言えば、外にいる相手に対しては、こちらも行動だけを見せればいい。
嘘をつくことの心理的コストが、下がる。
そして、内側へ動く場面もある。
奥崎が食い下がり、圧力をかけていくうちに、突然、詳細を語り出す人間がいる。
さっきまで「覚えていない」と言っていた人間が、四十年前の場面を細かく思い出す。
何が起きたのか。
たぶん、こういうことだ。
追及者として扱っている間は、答えなくていい。だが、目の前の相手が本気で四十年間これを背負ってきたと分かった瞬間、扱いが変わる。
同じ戦場にいた人間、として見え始める。
そうなると、答えないという選択が難しくなる。
これは、暴力で口を割らせたのとは少し違う。
殴られたから話した、という説明は、たぶん半分しか当たっていない。
殴られたことで、相手が本気だと分かった。本気だと分かったことで、線の位置が動いた。動いたから、話した。
そう読むほうが、実際の場面に近いと思う。
さらに、線が動かなかった場面もある。
奥崎に同行していた遺族が、途中で降りる。撃たれた兵の妹と弟だ。自分の兄の最期を知るための旅なのに、途中で耐えられなくなって離れる。
このとき、奥崎の側から見ると、遺族が外へ出たことになる。
そして、奥崎は止まらなかった。
妻と知人に遺族の役を演じさせて、訪問を続行する。
つまり、彼にとって遺族は、代替可能な役割になっていた。
これは、線の外に出たということだ。
四十年かけて死者のために動いてきた男が、生きている遺族を外に置いた。
矛盾しているように見えるが、前回書いた軸の話を使うと説明がつく。
彼の主軸は、時間だった。過去に起きたことと、これから起きることが内側にある。
現在にいる人間は、優先順位が低い。
だから、目の前の人が「やめてくれ」と言っても、やめない。
そして、この映画には、もう一つ極端な例がある。
最後に彼が撃つのは、追及していた元中隊長ではなく、その息子だった。
対応に出た人間を撃った。
この息子は何も知らないし、戦場にもいなかった。父親の罪とも無関係だ。
彼の線の中に、家族という単位が存在していなかった、ということになる。
父と子は別人だから、子は守られるべきだ。この欄が、彼の中にない。
観ていて一番きついのは、この場面ではない。
その少し前、遺族が静かに消える場面だ。
映画は理由を説明しない。気づいたときには、二人がいない。
自分が背負っていたはずの人が、自分から離れていく。それでも止まらない。
この映画には、もう一つ、線を動かす場面がある。
しかも、動かしたのは撮っている側だ。
監督は原一男という人だが、この人は撮影の初期段階で、元兵士の一人から人肉食の事実を聞き出していた。ニューギニアで何が起きていたのかを、先に掴んでいた。
そして、それを奥崎に伏せた。
映画の中で、奥崎がその事実を初めて知る場面がある。驚いて、激昂して、追及を強めていく。
観客は、真相が明らかになる瞬間として観る。奥崎の執念が壁を突き破った瞬間として観る。
実際には、掴んでいたのは監督が先だった。
奥崎は、監督が用意した場所へ連れて行かれて、そこで反応した。
つまり、監督は奥崎の線を意図的に動かしている。
情報を渡すタイミングを操作して、動く瞬間をカメラの前に持ってきた。
これは、前の章で書いた技術そのものだ。
情報を渡せば線は動く。渡す順番を変えれば、動くタイミングも変えられる。
そして、動かされた側には、動かされたことが見えない。
奥崎は、自分の執念で辿り着いたと思っていたはずだ。実際には、道が敷かれていた。
もっと言うと、この構造は映画全体に及んでいる。
映画の冒頭に、結婚式のスピーチの場面がある。奥崎が仲人として、国家批判を始めて、会場が凍りつく。
あれは、奥崎が撮影の条件として指定した場面だった。ここを撮るなら映画の撮影を許可する、という取引で撮られている。
そして監督は、劇映画のように構図を計算して撮った。
つまり、被写体が場面を指定して、監督が構図を作り込んだ。
ドキュメンタリーというのは、起きたことをそのまま記録したもの、という響きがある。
そんな作品は存在しない。どこにカメラを置くかで映るものが変わり、どこを切るかで意味が変わり、何を先に見せるかで観客の受け取り方が変わる。
そして、この作品では、その設計が通常より深いところまで入っている。
監督自身が、後年こう言っている。この映画のまんまを信じてもらうと困る、と。
作り手が、自作を額面通りに受け取るなと言っている。
これは、この記事のテーマと直接つながっている。
観客の線も、動かされているということだ。
編集で何を残して何を捨てるかは、観客に渡す情報を選ぶ作業になる。渡された情報で、観客の中の線が動く。
遺族が途中で消える理由は、本編では説明されない。だから、観客は理由を知らないまま、その事実だけを受け取る。
もし理由が説明されていたら、観客の受け取り方は変わっていたはずだ。
説明しないという選択も、線を動かす技術になる。
映画の中で、証言が食い違う場面がある。
これも、線の話として読める。
処刑を命じたとされる元隊長は、自分は立ち会っていないと言う。
一方、実際に撃った側の人間は、とどめを刺したのはその隊長だったと言う。
同じ場所にいた人間の話が、正面から矛盾している。
そして、撃った側にも食い違いがある。
ある者は空砲だったと言う。ある者は照準を外して撃ったと言う。
全員が引き金を引いたことは認める。そして、全員が自分の弾は当たっていないと言う。
つまり、誰の弾が二人を殺したのかは、最後まで確定しない。
これを、全員が嘘をついていると読むこともできる。
だが、もう一つの読み方がある。
銃殺刑では、執行者の心理的負担を減らすために、一部の銃に空砲を込める方式が古くから使われてきた。誰の銃が実弾かを知らせなければ、全員が「自分は空砲だったかもしれない」と思える。
この運用があったとすれば、本人にも分からないという証言は成立する。
そして、どちらであっても、構造は同じになる。
責任が分散するように、最初から設計されている。
五人で撃たせるのは、一人に殺させないためだ。とどめを別の人間が刺すのは、決定的な一撃を分けるためになる。空砲を混ぜるのは、誰も自分を殺人者と思わずに済むようにするためだ。
これは、線の話でもある。
自分が殺したと認めれば、殺された相手が自分の線の内側に入ってくる。事情を考え、名前を思い出し、家族のことを想像することになる。
分散させれば、その必要がない。
責任を切ることと、線を切ることは、同じ作業になっている。
そして、証言の食い違いには、もう一つ共通点がある。
全員が、自分のすぐ下に線を引いている。
日本兵の肉は食べていないが、別のものは食べた。撃ったが当たっていない。命じたが立ち会っていない。
全員が、自分が許される位置に線を引いている。
これは嘘というより、切り取りだと思う。
全員が本当のことを言っていて、全員が全体を語っていない。
そして、映画の中で一番静かな場面が、遺族が消えるところになる。
撃たれた二人の兵の、妹と弟だった。自分の兄の最期を知るための旅で、途中まで同行していた。
その二人が、ある時点から画面に出てこなくなる。
映画は、理由を説明しない。
観客は、気づいたときに二人がいないことに気づくだけになる。
監督は後年、なぜ二人が消えるのか本編だけでは分からないだろう、と言っている。
分からないように作ってある。
この場面が効くのは、消え方が静かだからだと思う。
怒って去ったのでも、裏切ったのでもない。ただ、耐えられなくなった。
そして、去った側は理由を言わない。
言えば、自分が薄情になるからだ。相手のほうが、はるかに多くを払っている。
だから、記録に残らない。
前の記事で、外に置かれた側は消耗すると書いた。外にいることは分かるのに、証明できない。
この二人の場合は、少し違う。
彼らは外に置かれたのではなく、自分から出た。
そして、出たことを説明しなかった。
線から出る側にも、言えない事情がある。
それが分かるのは、この映画がそこを説明しないからだと思う。
説明されていたら、たぶんこれほど残らない。
そして、この映画で一番きついのは、たぶん妻の話になる。
奥崎シズミという人だった。出会いは戦後まもなくで、夫が就職した先の寮母をしていた。就職から二か月で結婚している。
その後の人生は、夫の行動に丸ごと規定された。
夫が事件を起こして、十年収監される。結婚から九年目のことだ。彼女は三十代後半で、十年を一人で過ごす。
出所後も、夫は止まらない。そのたびに、彼女は待った。
映画の冒頭に、この夫婦が二人でバッテリー屋をやっている場面が出てくる。穏やかな朝の光景だ。店のシャッターだけが手書きの文字で埋まっているが、中では老夫婦が普通に働いている。
その彼女が、映画の途中で、遺族の役を演じさせられる。
本物の遺族が降りた後、夫は妻と知人を遺族に仕立てて、訪問を続行した。彼女は他人になりすまして、元隊長の家に上がり込んだ。
なぜそこまでしたのか。
監督によれば、夫への深い愛だったという。一目惚れだった、という話も残っている。
真偽は分からない。
だが、この記事の言葉で言うなら、こうなる。
彼女の線の内側には、夫がいた。そして、内側にいる相手のためなら、人はここまでやる。
線の内側にいるかどうかで、行動の限界が変わる。
そして、確かなことが一つある。
彼女は、夫が拘置所にいる間に死んだ。夫は死に目に会っていない。
その一年後、映画が公開された。夫は服役中で、自分の映画を観ていない。
公開中のある日、劇場で観客と関係者に饅頭が配られた。二個入りで、神と軍の焼印が押してある。
拘留中の夫から贈られたものだった。
その日は、妻の一周忌だった。
この一件をどう受け取るかは、人によって違うと思う。
弔いのつもりだったのかもしれない。妻への手向けを、映画館という場に送ったのかもしれない。
だが、俺はここに、線の話の全部が詰まっていると感じる。
刑務所から饅頭を配る男と、一年前に一人で死んだ妻。
そして、彼女の側の言い分だけが、どこにも残っていない。
自分を差し出す人間の周りでは、これがよく起きる。
払わされた側は、文句を言えない。相手のほうが多く払っているからだ。だから、記録に残らない。
残るのは、差し出した側の記録だけになる。
この映画には、もう一つ、線が動かなかった場面がある。
主人公が、最後に撃つ相手だ。
追及していた元中隊長の家に行き、対応に出た息子を撃った。
この息子は、何も知らない。戦場にもいなかった。父親の罪とも無関係になる。
つまり、彼の線の中に、家族という単位が存在していなかったことになる。
父と子は別人だから、子は守られるべきだ。この欄が、彼の中にない。
これを、冷たいと言うのは簡単だ。だが、構造として見るともう少し違う。
彼の線は、時間軸で引かれていた。過去に起きたことと、これから起きることが内側にある。
現在にいる人間は、優先順位が低い。
そして、家族という単位は、現在にしか存在しない。
過去の死者に、家族はいない。もう全員死んでいるからだ。未来の犠牲者にも、家族はいない。まだ生まれていないからだ。
内側にあるものが、全部「個人」の形をしている。
だから、外側にいる人間も、個人としてしか見えない。父の息子、という関係が処理できない。
線の形が、そのまま判断の形になっている。
そして、これは彼だけの話ではないと思う。
自分の線がどういう形をしているかで、何が見えて何が見えないかが決まる。
見えないものについては、考えることすらできない。
前回書いた通り、線の外にあるものは、存在していないのと同じ扱いになる。
存在していないものは、守れない。
そして、この映画がなぜ今また観られているのかも、線の話として読める。
四十年近く前の作品が、無料公開されて、大量の人が観ている。
理由の一つは、たぶん、あそこに映っている人間が取り繕えていないからだと思う。
訪ねられた元隊員たちは、三十八年間、この件について誰にも聞かれていない。聞かれていないということは、答えを用意していないということになる。
だから、玄関先で突然聞かれると、その場で考えるしかない。言い淀む。黙る。話を逸らす。そして、食い下がられると突然全部喋り出す。
在庫がないから、その場で作るしかない。その様子が全部映っている。
今の映像には、これがない。誰もが自分の見せ方を知っているからだ。
そして、取り繕っているということは、線が見えないということでもある。
取り繕った状態では、誰を内側に入れていて誰を外に置いているかが分からない。
崩れた瞬間に、それが出る。
あの映画が異様に生々しいのは、線がむき出しになっている場面が続くからだと思う。
誰が誰を外に置いているか、全部見える。
元隊員は追及者を外に置く。奥崎は遺族を外に置く。監督は被写体に情報を伏せる。
そして、観客は安全な場所からそれを見ている。
見ている側の線は、動かされない。動かされているのだが、そのことに気づかない。
だから、こう思える。
自分ならこんなことはしない。
たぶん、その判断も、位置の問題になる。
五 なぜ、線が急に外へ出るのか
内側にいた相手が、急に外へ出ることがある。
長年の友人と一度揉めただけで、何十年分が消える。信頼していた相手の嘘が一つ分かっただけで、それまでの全部が疑わしくなる。
これは、内側へ入るときより速い。
入るには時間がかかるのに、出るのは一瞬だ。
非対称になっている。
なぜか。
たぶん、こういうことだと思う。
内側に入れるという判断は、賭けになっている。
この相手は自分を裏切らない、という予測を立てて、その上で資源を配分している。時間も、金も、感情も。
裏切られると、その予測が外れたことになる。
予測が外れたときに起きるのは、一件の修正ではない。予測そのものの取り下げになる。
だから、一つの嘘で全部が疑わしくなる。
あのときのあれも嘘だったのではないか。あの言葉も演技だったのではないか。
過去に遡って、全部の解釈がやり直される。
これは、感情の問題というより、計算の問題だと思う。
予測を立て直すコストが高いので、いっそ全部外に出したほうが安く済む。
そして、一度外に出た相手を、もう一度内側に入れるのは非常に難しい。
なぜなら、内側に入れるということは、また賭けるということだからだ。
一度外れた賭けに、もう一度乗るには理由が要る。
だから、こういうことになる。
謝られても、戻らない。
謝罪は、行動の訂正ではあっても、予測の再構築にはならない。
戻るとしたら、時間をかけてもう一度資源を配分し直すしかない。そして、その途中でもう一度外れたら、今度こそ戻らない。
これは、人間関係の修復が難しい理由の一つだと思う。
もう一つ、外へ出る速さには別の理由もある。
外に出しても、こちらは損をしない。
内側に入れると、コストがかかる。時間を使う。気を遣う。説明を詰める。
外に出せば、そのコストが消える。
つまり、外へ出すことには即座の利得がある。
だから、迷ったときは外へ出るほうへ倒れやすい。
これは、あまり気持ちのいい話ではないが、たぶん実際にそうなっている。
疲れているとき、余裕がないときに、人が急に冷たくなるのは、この計算が働くからだと思う。
前回書いた通り、線は体調で伸縮する。
余力がないときは、維持コストの高い相手から順に外へ出る。
そして、維持コストが一番高いのは、たいてい一番近い相手になる。
家族が一番先に外へ出る、という現象は、ここから説明できる。
外へ出た相手が戻ってくる場面も、たまにある。
そして、戻る条件は、かなりはっきりしている。
一つ。相手が実際に困っているとき。
裏切った相手でも、本当に困っていると知ると、少し戻る。前の章で書いた「弱さ」の入口が、ここでも効く。
二つ。時間が経ったとき。
これは、許したのとは違う。予測を立て直すコストが、時間とともに下がるだけだと思う。
三つ。第三者が保証したとき。
信用している人間が「あの人、あれから変わったよ」と言う。それだけで、位置が少し戻る。
紹介の入口が、ここでも働く。
四つ。こちら側の余力が回復したとき。
これは、たぶん一番大きい。
疲れているときは、維持コストの高い相手から順に外へ出る。回復すると、戻す余裕ができる。
だから、揉めた直後に結論を出さないほうがいい。
余力がないときの判断は、余力がないという事実を反映しているだけの場合がある。
一晩置く。一週間置く。それで判断が変わるなら、それは相手の問題ではなかったことになる。
逆に、時間を置いても同じ結論なら、それは判断になっている。
そして、戻らない場合もある。
戻らないことを、冷たいと責める必要はないと思う。
一度外れた賭けに、もう一度乗るかどうかは、こちらが決めていい。
ただ、一つだけ。
戻さないと決めたなら、そのことを自分で認識しておいたほうがいい。
戻すつもりがないのに、関係だけ続けていると、こちらが消耗する。
外に置いた相手と、外に置いたまま付き合うのは、思っているよりコストが高い。
外へ出す判断が、正しい場合もある。
ここまで、外へ出るのが速すぎるという書き方をしてきた。だが、速く出すべき相手もいる。
繰り返し嘘をつく相手。約束を守らない相手。こちらの都合を一度も考えない相手。
こういう相手を内側に置き続けると、こちらが削られる。
前回書いた通り、内側に入れるとコストがかかる。時間を使う。気を遣う。説明を詰める。
そのコストが一方通行なら、続かない。
だから、外へ出すこと自体は、必要な機能になる。
問題は、判断の速さと、判断の質が一致していないことだけだ。
速く外へ出せる仕組みがあるのは便利だが、その仕組みは正しい相手と間違った相手を区別しない。
一つの情報で全部を疑う仕組みは、本物の裏切りにも、単なる誤解にも、同じように働く。
だから、一晩置く、という手続きが要る。
これは、許すためではない。判断の質を上げるためになる。
一晩置いても同じ結論なら、それは判断になっている。
一晩で変わるなら、それは疲れの反映だったことになる。
そして、線が動く速さには、方向によって差がある。
これを表にすると、はっきりする。
内側へ動くには、名前を覚え、事情を聞き、時間を使う必要がある。何度か会う。何かを一緒にやる。
外へ動くには、情報が一つあればいい。しかも、それが正しいかどうかを確認する必要もない。
つまり、入口は狭くて、出口は広い。
そして、この非対称は放っておくと悪化する。
年を取るほど、内側にいる人間が減っていく、という現象がある。
新しい人が入ってこない一方で、出ていく人は出ていく。
入るのに時間がかかり、出るのは一瞬だから、収支が合わない。
だから、意識して入れないと、減る一方になる。
これは、性格が悪くなったのではない。仕組みとして、そうなっている。
対処は一つしかない。
入口のコストを、意識的に払うことになる。
名前を覚える。事情を聞く。一度まともに向き合う。
面倒だが、面倒だからこそ効く。安く入るなら、安く出ることになるからだ。
線が動く話を、もう一つだけ。
自分の中で、同じ相手が内側と外側を行き来する場合がある。
家族が典型になる。
一緒にいるときは内側にいる。だが、忙しいときや疲れているときは、外へ出る。話を聞かない。説明を省く。返事をしない。
そして、少し余裕ができると、また戻る。
一日のうちに、何度も行き来している。
これは、関係が不安定なのではない。線が伸縮しているだけになる。
前回書いた通り、線は体調で変わる。
問題は、行き来していることに、双方が気づかないことだ。
外へ出されている側は、その瞬間だけを見て、自分は大事にされていないと感じる。
出している側は、出していることに気づいていない。
だから、あとで「あのとき冷たかった」と言われても、心当たりがない。
これが、たぶん一番多い揉め事の形になる。
対処は、思っているより単純だと思う。
今は無理だ、と先に言う。
これだけで、外へ出したことが伝わる。伝われば、相手はそれを一時的なものとして処理できる。
言わないと、相手は自分の位置が下がったと解釈する。
前回書いた通り、詰めていない言葉は、相手を動かさない。そして、言わなかった説明は、相手が勝手に補う。
補われた説明は、たいてい悪いほうに寄る。
六 集団単位で、線が動く
ここまで個人の話をしてきたが、線は集団単位でも動く。
そして、集団単位で動くときのほうが、速くて大きい。
分かりやすいのが、災害のときだ。
大きな地震があった直後、見知らぬ他人に対する扱いが変わる。順番を譲る。声をかける。物を分ける。
普段はしないことを、普段はしない相手にする。
一週間から一か月ほど続いて、そのあと元に戻る。
このとき、何が起きているのか。
たぶん、二つある。
一つは、情報が急に入ってくること。テレビでもネットでも、被災した人の名前と顔と事情が流れる。前の章で書いた通り、事情が入ると線は動く。
もう一つは、自分も同じ立場になりうると分かること。共通点の一種になる。
だから、遠い国の災害より、近い場所の災害のほうが強く効く。次は自分かもしれない、という計算が入るからだ。
そして、元に戻る理由もはっきりしている。
情報が止まるからだ。
報道が減り、日常が戻り、その人たちの事情が視界から消える。消えると、線も戻る。
これは薄情だからではない。維持するには情報の供給が要る、というだけの話になる。
逆方向にも、集団で動く。
事件が起きて、犯人が特定されたとき。ネットで誰かが叩かれているとき。
このとき、その人物は一気に全員の線の外へ出る。
そして、外へ出た相手には何をしてもよくなる。前回書いた通りだ。
普段は他人に暴言を吐かない人が、この場面では吐く。
人格が変わったわけではない。位置が変わっただけだ。
そして、この動きは非常に速い。一日もかからない。
なぜ速いのか。
外へ出すのにコストがかからないからだと思う。
内側に入れるには、名前を覚えて、事情を聞いて、時間を使う必要がある。
外へ出すには、一つの情報があればいい。
しかも、その情報が正しいかどうかを確認する必要もない。外に出す判断には、確認のコストすらかからない。
だから、外向きの動きだけが異様に速くなる。
集団単位で見ると、ここが一番危ないところだと思う。
一人ずつなら、確認する余裕がある。集団になると、確認しないほうが速い。そして速いほうが勝つ。
ここで、集団の線について、一つ面白い見方を書いておく。
『キングダム』という漫画に、桓騎という将軍が出てくる。元は野盗の頭で、残虐なことで知られている男だ。
その男に、こういう趣旨のせりふがある。
この世には、高い所で好き放題やる馬鹿どもと、その犠牲になる底辺の者たちと、その中間の者たちがいる。底辺の者たちは、自分の仇は高い所のクソ野郎どもだと思っているだろうが、本当はそうじゃない。本当に怒りを向けるべき相手は、無関係を決め込んでいる中間の奴らだ。数で言えば、この世界は中間の奴らで占められている。そいつらが何もしねえから、世の中の構造が変わらねぇんだよ。
これは、線の話として読める。
中間の奴ら、というのは、線を動かさない人間のことだ。
情報は入っている。何が起きているかは知っている。それでも、内側に入れない。
そして、入れないことに罪悪感もない。前回書いた通り、線の外にあるものは存在していないのと同じ扱いになるからだ。
前の章で書いた奥崎も、同じことを書いている。
彼が本当に許せないと書いたのは、天皇と、それを許している者たち、だった。
「それを許している者たち」というのが、桓騎の言う中間になる。
権力を持っていない。命令も出していない。誰も殺していない。ただ、問わない。
構造を変えたい人間は、たぶん必ずこの結論に行き着く。
理由は算術だ。権力者は数が少ない。一人ずつ倒しても、次が出てくる。構造を支えているのは、その下の大多数のほうになる。
だから、大多数を動かすしかない。
そして、大多数は動かない。
動かない理由は悪意ではない。線の外にあるものは、見えていないからだ。
だが、怒っている側からは、それが見分けられない。
無視しているのか、見えていないのか、外からは区別がつかない。
だから、怒りは向く。
ここで、この論理の危なさも書いておく。
傍観者こそが真の敵だ、という言い方は、無限に敵を作れる。
問わない人が敵なら、世の中のほぼ全員が敵になる。
実際、奥崎は選挙の政見放送で、この事実を知らない人類全員を「無知蒙昧な野蛮人であり、重症の気違いである」と述べている。
論理を突き詰めた結果になっている。
そして、この形の言い方は、歴史上しばしば最悪の結果を生んできた。
敵に協力しない者は敵だ。沈黙は同意だ。何もしないことは加担していることだ。
どれも、動員と粛清の言葉だった。
線の話として言うと、こうなる。
自分の線の内側にあるものを、他人の線にも入っていて当然だと考えた瞬間に、この論理が発動する。
入っていないのは、悪意だからだ、と。
だが、たいていの場合、単に情報が届いていないだけになる。
もう一つ、集団単位の動きで面白いのは、線が引き直されるときだ。
昨日まで同じ側にいた人間が、ある発言をきっかけに向こう側になる。
このときも、その人は何も変わっていない。
一つの情報が入って、位置が変わった。
そして、位置が変わると、それまでの発言も全部読み直される。あのときのあれも、そういう意味だったのか、と。
個人の関係が壊れるときと、まったく同じ構造になっている。
規模が違うだけだ。
ここで、集団の線が動くときの、もう一つの特徴を書いておく。
集団では、線が「揃う」ことがある。
普段、線の形は人によってバラバラだ。前回書いた通り、歪んでいて、穴の位置も違う。
だから、全体としては補完が効く。自分の穴に入っているものを、誰かが内側に置いている。
ところが、集団で同じ情報を同時に浴びると、形が揃う。
全員が同じものを内側に入れ、全員が同じものを外に出す。
こうなると、補完が効かなくなる。
全員が同じものを見て、全員が同じものを見落とす。
そして、その状態では、違う形を持っている人間が異物になる。
前回書いた通り、異物として扱われた人は、いずれ揃えるか、去る。
去ると、さらに形が揃う。
この循環が回ると、集団全体の穴が固定される。
固定された穴は、内側からは絶対に見えない。全員が同じところを見ていないからだ。
だから、外から指摘されるまで気づかない。
そして、外から指摘されたときには、たいてい反発する。
指摘してきた人間は、既に外側にいるからだ。外側からの言葉は、攻撃として処理される。
これは、組織でも、業界でも、国でも、同じ形で起きると思う。
長く続いている集団ほど、形が揃っている。揃っているから、動きが速い。速いから成果が出る。
そして、同じ理由で、同じ場所が見えていない。
集団の強さと、盲点の大きさは、たぶん同じところから来ている。
そして、集団の線が動くとき、どこから動き始めるか。
上からになる。
前回書いた通り、組織のトップの配分表は、驚くほど早く下に伝染する。
トップが誰かを外に置けば、現場も置く。
理由は単純で、内側にないものを大事にすると損をするからだ。何を叱り、何を褒めるかで、何が内側にあるかが分かる。だから、合わせる。
そして、伝染は逆方向にも起きる。
現場が誰かを外に置き始めると、その相手の情報が上がってこなくなる。
上がってこない情報は、上の線からも消える。
消えると、公式に外側になる。
この循環が回ると、組織全体の穴が固定される。
固定された穴は、内側からは見えない。
そして、外から指摘されたときには、たいてい反発する。
つまり、集団の線を動かしたいなら、上を動かすほうが速い。
ただし、上にいる人間ほど、動かされたことに気づかない。周りが情報を選んで渡すからだ。
だから、上にいる人間は、意識して外から情報を取りに行く必要がある。
そして、たいていやらない。
七 時代で、線は書き換わる
もっと長い時間で見ると、線は社会ごと動いている。
五十年前には線の外にいたものが、今は内側にいる。
逆に、昔は内側にいたのに、今は外へ出たものもある。
具体的に並べてみる。
体罰は、かつて教育の一部だった。線の内側にいる相手に対しても、殴ることが許されていた。今は許されない。
これは、子供が線の内側に入ったということではない。子供はもともと内側にいた。
変わったのは、内側にいる相手に対して何をしていいか、という基準のほうだ。
前回書いた通り、線の広さと、外側の扱いは別の話だった。同じように、内側の扱いにも基準がある。その基準が動いた。
動物の扱いも変わった。
かつては家畜も番犬も道具だった。今はペットが家族と呼ばれる。
これは、線が伸びた例になる。
そして、伸びた理由は、たぶん余力だと思う。前回書いた通り、余力がないときに線は縮む。社会全体が食うに困っている時期には、動物を内側に入れる余裕がない。
余裕ができると、入る。
労働時間の感覚も変わった。
深夜まで働くことが美徳だった時期がある。今は問題として扱われる。
これは前回書いた自己犠牲の話と繋がっている。犠牲が称賛される社会は、犠牲を必要とする社会だった。必要としなくなれば、称賛も消える。
そして、逆に外へ出たものもある。
昔は内側にいたのに、今は外にいるもの。
たとえば、近所付き合いだ。
かつては、隣の家の事情を知っているのが普通だった。今は知らないほうが普通になっている。
これは、線が狭くなったということになる。
前回書いた通り、線の内側にいる相手には、名前と事情が要る。名前と事情を交換する機会が減れば、内側に入らない。
親戚もそうだ。
かつては、遠い親戚まで内側にいた。今は、会ったこともない親戚が大勢いる。
時代の話で、もう少し極端な例を出しておく。
戦争がそれになる。
戦争が始まる前と後で、同じ国の人間が、同じ相手を別のものとして扱うようになる。
昨日まで普通に商売をしていた相手が、敵になる。
このとき、相手は何も変わっていない。
前の章で書いた通りだ。入ってきた情報が変わっただけになる。
そして、戦争のときに使われる情報の作り方は、この記事で書いてきた技術の裏返しになっている。
名前を消す。番号や記号で呼ぶ。集団の属性で括る。数字にする。
これは前回書いた「外に置く技術」そのものだ。
そして、外に置いた後は、何をしてもよくなる。
前の記事で、ある戦場の話を書いた。ニューギニアという島で、日本軍が壊滅した戦場になる。
そこでは、食べるものが尽きた末に、人肉食が起きている。そして、その行為には隠語がついていた。
呼び名がついているということは、一度きりの事故ではなかったということだ。名前は、繰り返される対象にしかつかない。
そして、名前をつけるということ自体が、外に置く作業になる。
人と呼べば人になる。豚と呼べば豚になる。言葉を変えることで、行為の意味を変えている。
動物は、こういうことをしない。
だから、あれを「人間が動物に戻った」と説明するのは、たぶん正確ではない。
動物は隠語を作らないし、順番も決めない。あの島で起きたことには、順番があった。誰を先にして、誰を後にするか。その基準は飢餓の切迫度ではなく、階級と好悪だったと証言されている。
つまり、極限状態でも線は引かれていた。
引かれていたからこそ、順番が決まった。
線がなくなったのではなく、線の位置が変わっただけになる。
この話を出したのは、時代の話と繋がるからだ。
今の俺たちが「そんなことをするはずがない」と思っていることは、線の位置が今の場所にあるから、そう思えている。
位置が動けば、できるようになる。
そして、位置は動く。この記事で、ずっとそれを書いてきた。
情報が変われば動く。集団で浴びれば速く動く。時代が変われば書き換わる。
だから、自分は絶対にやらない、と言い切れる根拠は、たぶんない。
やらないでいられるのは、今の位置にいるからだ。
時代の変化について、もう一つ書いておきたいことがある。
線が広がったように見えて、実は移動しただけ、という場合がある。
たとえば、遠くの他人への関心は明らかに増えた。地球の裏側の災害を、その日のうちに知る。
だが、その分だけ、近くへの関心が減っている可能性がある。
前回、線の総量には上限があると書いた。上限があるなら、遠くに配れば近くが減る。
実際、近所付き合いは減った。親戚も減った。
つまり、広がったのではなく、遠くへ伸びて近くが縮んだ、という形になる。
そして、これを進歩と呼ぶかどうかは、たぶん立場による。
もう一つ。
線の中身が変わった場合もある。
かつては、内側にいる相手には何をしてもよかった。家の中のことは家の中で片づけろ、という感覚が長く続いていた。
今は、内側にいる相手にもやってはいけないことがある、という形になっている。
これは、線が広がったのではない。内側の扱いに基準ができたということだ。
前回、線の広さと外側の扱いは別の話だと書いた。同じように、内側の扱いにも基準がある。
そして、たぶん一番大きな変化は、こちらのほうだと思う。
誰を内側に入れるかより、内側に入れた相手に何をしていいか。
そこの基準が動いてきた。
これらを並べると、線は広がっただけではないことが分かる。
ある方向には伸びて、別の方向には縮んでいる。
前回、線は同心円ではなくアメーバに近いと書いた。社会全体の線も、同じ形をしていると思う。
そして、ここに一つ厄介な問題がある。
昔の人を、今の線で裁くかどうか、という問題だ。
昔の常識で行われたことを、今の基準で悪だと言えるのか。
俺は、この問いには答えを出さないでおく。この記事で扱っている道具は、記述の道具であって、判定の道具ではないからだ。
ただ、一つだけ言えることがある。
今の自分たちの線も、五十年後には奇妙に見える。
今、当たり前に外に置いているものが、五十年後には内側に入っているかもしれない。
そして、そのときの人間は、今の俺たちを見て「なぜ気づかなかったのか」と言う。
たぶん、こう答えることになる。
見えていなかった。
前回書いた通り、線の外にあるものは、存在していないのと同じ扱いになる。存在していないものには、気づけない。
だから、この問いは自分にも返ってくる。
今、自分が気づいていないものは何か。
これは、原理的に答えられない。答えられたら、気づいていることになるからだ。
できるのは、外の人間に聞くことだけになる。
自分と違う線を持っている人間に、あなたから見て俺は何を見落としているか、と聞く。
そして、たいていの人はそういう相手を持っていない。
同じ線を持った人間とだけ付き合っていると、同じ穴が空く。全員が同じものを見て、全員が同じものを見落とす。
時代の話で、最後に一つ。
線が動いた後、動く前の自分がどう見えるか。
たいてい、理解できなくなる。
なぜあんなことを許していたのか。なぜ気づかなかったのか。
そして、当時の人間を責めたくなる。
だが、当時の人間には見えていなかった。見えていないものには気づけない。
これは、今の自分にも当てはまる。
五十年後の人間が、今の俺たちを見て「なぜ気づかなかったのか」と言う。
そのときの答えは、たぶん同じになる。
見えていなかった。
そして、今の自分が何を見落としているかは、原理的に分からない。分かったら、見落としていないことになるからだ。
できるのは、外の人間に聞くことだけになる。
自分と違う線を持っている人間に、あなたから見て俺は何を見落としているか、と聞く。
そして、たいていの人はそういう相手を持っていない。
同じ線を持った人間とだけ付き合っていると、同じ穴が空く。
これは前の章で書いた、集団の線が揃う話と同じになる。
規模が違うだけだ。
八 のめり込みは、線が細く深くなること
線の動きで、もう一つ特徴的な形がある。
急に狭く、深くなる場合だ。
何かにのめり込んでいるとき、線はこの形になる。
作品でも、人でも、宗教でも、活動でも同じことが起きる。
内側にいる対象が減って、その代わり密度が上がる。
具体的に言うと、こういう状態になる。
その対象のことばかり考えている。時間も金もそこに集まる。それ以外のことが薄くなる。
家族との会話が減る。仕事が雑になる。他の趣味が消える。
外から見ると、変わったな、と言われる。
本人の感覚では、変わっていない。むしろ、大事なものが見つかっただけだと思っている。
そして、たぶんその感覚は正しい。
大事なものが見つかったことと、他が薄くなることは、同じことだからだ。
線の総量には上限がある。前回書いた通りだ。だから、一つを濃くすると、他が薄くなる。
これは病気ではなく、配分の変更になる。
問題は、変更したことに本人が気づかないことだ。
減った側は見えない。前回から繰り返している通り、線の外にあるものは意識に上がらない。
だから、周りが先に気づく。
最近、あの人おかしくない?
この段階では、本人には何も見えていない。
そして、ここに危険な仕組みがある。
のめり込んでいる対象の側が、それを利用できる。
前回、線を動かす五つの入口を書いた。名前、事情、共通点、弱さ、時間の共有。
のめり込ませる側は、この五つを全部使ってくる。
そして、もう一つ足す。
外側を悪くする。
外の世界は分かってくれない。家族は理解しない。世間は間違っている。
これを繰り返すと、外側が全部敵になる。
内側が濃くなるだけでなく、外側が積極的に切られていく。
宗教でも、活動でも、閉じたコミュニティでも、この形は共通していると思う。
そして、この状態にいる人間に「目を覚ませ」と言っても効かない。
なぜなら、そう言っている人間自身が、既に外側にいるからだ。
外側からの言葉は、外側から来た攻撃として処理される。
だから、外から止めることは、原理的に難しい。
できることがあるとすれば、外側に置かれないよう踏みとどまることくらいになる。
否定しない。批判しない。ただ、連絡を切らない。
これは、消極的すぎるように見える。だが、線の外に出たら何も届かなくなる以上、内側に残ることだけが条件になる。
前回書いた通り、内側にいる相手には事情を汲む。外側の相手には行動だけで判断する。
だから、内側に残っていれば、いつか話が聞かれる可能性が残る。
外に出たら、その可能性が消える。
のめり込みの話で、実例を一つ書いておく。
前の章で出した奥崎の、晩年の話になる。
彼は懲役十二年を終えて、七十七歳で出所した。
その間に、何が起きていたか。
追及していた相手が、次々と消えていた。天皇は服役中に亡くなり、元隊員たちも高齢化し、妻も死んでいた。
つまり、線の内側にあった対象が、全部いなくなった。
出所後の彼の関心は、二つに集約されていく。
一つは、自分が提唱する理想郷の構想だった。もう一つは、独自の健康法だった。寝ながら身体の一部を揺らし続けると血栓が取れる、というもので、神から与えられたものだと語っていた。
取材に来た人間に、熱心にそれを説明する。撮影スタッフにも実演を強要する。
そして、取材者が過去の行動について語ってほしいと促しても、答えない。
話は健康法へ、理想郷へ、神へと、次々にすり替わっていく。
取材者は食い下がる。その話だけでは、あなたを知らない人には理解されない。過去の行動を説明してこそ、あなたの主張が伝わるはずだ、と。
議論は完全に平行線をたどる。
ここで起きていることを、この記事の言葉で書く。
彼の線は、極端に細く深くなっていた。
内側にあるのは、自分の健康法と、自分の構想だけになっている。
そして、それ以外が全部外に出ている。
もっと恐ろしいのは、この状態を訂正できる人間が、一人もいなくなっていたことだ。
妻はいない。戦友もいない。十二年の服役で社会との接点も切れている。
取材陣が自宅を探して近隣住民に道を尋ねると、明らかに知っているのに、不自然に話を逸らされたり、苦笑いされたりしたという。
もう誰も、彼と正面から議論しない。
残ったのは、取材に来る人間と、面白がる人間だけだった。
前の章で、線の外にいる人間を一人は確保しておけ、と書いた。
彼は、それを失っていた。
そして、この状態にいると、外からの言葉は届かない。届かないから、修正が入らない。修正が入らないから、さらに細く深くなる。
一つ、皮肉なことがある。
四十年間、説明しろと言い続けた男が、最後には説明を求められる側になって、それをはぐらかしていた。
これは、彼が壊れたという話ではないと思う。
行動は最後まで一貫している。判断力も保たれていた。明るく、よく喋り、筋道を立てて話していたという。
変わったのは、線の中身のほうだ。
追及する対象という中身が消えて、それを支えていた枠だけが残った。
枠は残るが、中身がないと空回りする。
そして、そのことは本人には見えない。
前の章で書いた通り、動いている最中には気づけないからだ。
のめり込む側の理屈も、書いておく。
外から見ると、なぜあんなものにと見える。
だが、本人の側から見ると、こうなっている。
初めて、本当に分かってくれる人たちに出会った。
これが、たいてい共通している。
そして、この感覚は嘘ではない。
前の章で書いた入口を思い出してほしい。名前、事情、共通点、弱さ、時間の共有。
のめり込ませる場所は、この五つを全部提供してくる。
名前で呼ばれる。事情を聞かれる。共通点が見つかる。相手も弱さを見せる。一緒に時間を過ごす。
日常で、これを全部やってくれる場所は、ほとんどない。
会社ではやってくれない。家庭でも、長く一緒にいると省略される。
だから、そこが唯一の場所になる。
つまり、のめり込みの原因は、そちら側の魅力だけではない。
こちら側に、それを提供する場所がなかった、という条件も要る。
前回書いた通り、近い相手ほど説明が省略される。家族には「言わなくても分かるだろう」で済ませる。
省略が続いた人間が、丁寧に扱ってくれる場所を見つけたら、そちらへ行く。
これは、弱いからではない。線の話として、自然な動きになる。
だから、誰かがのめり込んでいるとき、そこを責めても意味がない。
責めるべきものがあるとしたら、その手前に何もなかったことのほうになる。
そして、これは自分にも返ってくる。
自分の周りにいる人間に、五つの入口を提供しているか。
名前を呼んでいるか。事情を聞いているか。共通点を探しているか。弱さを見せているか。時間を共有しているか。
たぶん、ほとんどやっていない。
やっていない相手が、どこかでやってくれる場所を見つけたら、そちらへ行く。
そのときに、なぜあんなものに、と言う資格があるかどうか。
のめり込みが終わるときの話も、書いておく。
終わり方は、たいてい三つある。
一つ。対象のほうが消える。
作品が終わる。人がいなくなる。団体が解散する。
このとき、細く深くなっていた線が、急に空になる。
そして、空になった側は、しばらく動けなくなる。他が薄くなっていたからだ。
戻す先が残っていない。
二つ。要求が限界を超える。
金でも、時間でも、関係でも。
払えなくなった時点で、続けられなくなる。
そして、このときに一番きついのは、抜けた後に何も残っていないことになる。
前の章で書いた通り、外側は積極的に切られていた。だから、戻る場所がない。
三つ。外側の誰かが残っていた。
これが唯一、傷が浅く済む形になる。
否定せず、批判せず、ただ連絡を切らなかった人が一人でもいれば、そこへ戻れる。
だから、周りにできることは、否定しないことだけになる。
これは消極的に見える。実際、消極的だ。
だが、外に出たら何も届かない以上、内側に残ることが唯一の条件になる。
そして、これは残る側にとっても、けっこうきつい作業になる。
明らかにおかしいと思っているものを、否定せずに見ていることになるからだ。
言いたくなる。言えば、外に出る。
この我慢が、たぶん一番難しい。
九 線を動かされていることに、気づけるか
ここまで書いてきたことを、自分に当てはめる。
自分の線が動いているとき、それに気づけるか。
たぶん、その最中には気づけない。
理由は、動いた後の視点から見ると、動く前がおかしく見えるからだ。
内側に入った後は、なぜ今まで外に置いていたのかが分からなくなる。あの人のことを誤解していた、という形で処理される。
外へ出た後は、なぜ内側に入れていたのかが分からなくなる。自分は騙されていた、という形で処理される。
どちらの場合も、今の位置が正しく見える。
だから、動いている最中の判断が正しいかどうかは、その時点では分からない。
では、どうするか。
いくつか、手がかりになるものを書いておく。
一つ。速さを見る。
線が動くのは普通のことだ。だが、速すぎる場合は疑ったほうがいい。
数日で誰かが完全に内側に入った。数時間で誰かが完全に外へ出た。
こういうときは、何かが働いている可能性がある。
前の章で書いた通り、内側に入るには本来コストがかかる。かからずに入ったなら、入れる側が仕事をしている。
二つ。何が入ってきたかを見る。
事情を聞いたのか。共通点が見つかったのか。弱さを見せられたのか。
そして、その情報が本当かどうかを、確認したか。
たいてい、確認していない。位置が動いている最中は、確認する動機が生まれないからだ。
三つ。外側の扱いが変わっていないかを見る。
誰かが内側に入ったとき、同時に誰かが外へ出ていることがある。
総量に上限がある以上、これは自然に起きる。
だが、外へ出た相手が、以前は大事だった相手なら、一度立ち止まったほうがいい。
前の章で書いた通り、のめり込ませる側は外側を積極的に悪くする。
四つ。要求が出てきたタイミングを見る。
位置が動いた後に、何か要求が出てきたか。
出てきたなら、順番を疑う。
要求の前に位置を動かす、というのが基本形だからだ。
五つ。線の外にいる人間に聞く。
これが一番効くと思う。
自分と違う線を持っている人間に、今の自分がどう見えるかを聞く。
そして、その答えが不快なら、たぶん当たっている。
ただし、ここに落とし穴もある。
線が動いている最中は、外側の人間の言葉が届きにくい。届かないから、聞いても仕方がないと思う。
だから、動く前に聞ける相手を確保しておくしかない。
これは保険のようなものだ。動いてから探しても、間に合わない。
そして、線を自分から動かす、という話も書いておく。
ここまで、動かされる側の話が多かった。だが、自分で動かすこともできる。
内側へ動かしたい場合。
相手のことを知る作業をする。名前を覚える。事情を聞く。一度まともに話す。
これは、意志の力ではない。手続きになる。
優しくなろうと決意しても、線は動かない。相手の名前と事情を知ると、動く。
前回書いた通り、心の問題ではなく技術の問題として扱える。
外へ動かしたい場合。
これも、できる。
情報を減らせばいい。会わない。話さない。事情を聞かない。
そして、たいていの人は、これを無意識にやっている。
嫌いになりたい相手のことを、それ以上知ろうとしない。知ると嫌いでいられなくなるからだ。
別れた相手の近況を見ないようにする、というのも同じ動きになる。
情報を切ることで、位置を維持している。
これは、悪いことではないと思う。全員を内側に入れたら、生活が回らない。
前回書いた通り、外に置く技術は社会を回すために要る。
問題は、必要な範囲を超えて使われたときだけになる。
そして、意識的にやるのと、無意識にやるのとでは、後で取り返しがつくかどうかが変わる。
意識的に外へ出した相手は、必要になれば戻せる。
無意識に出した相手は、出したことすら覚えていない。だから、戻すという発想も出てこない。
自分の線が今どこにあるかを、後から確認する方法も書いておく。
一つは、過去の判断を並べることになる。
去年、誰かを外に出した。そのときの理由を思い出す。
その理由は、今も有効か。
たいてい、有効でなくなっている。そのときの余力や、そのときの情報で決めた判断が、そのまま残っている。
判断は残るが、判断の根拠は消える。
だから、定期的に見直さないと、古い線がそのまま維持されることになる。
もう一つ。自分が最近、誰の名前を呼んだかを数える。
一日のうちで、名字や名前で呼んだ相手が何人いるか。
そして、役職や属性で処理した相手が何人いるか。
比率を見ると、自分の線がどれくらい開いているかの目安になる。
これは前の章で書いた通り、順序が逆ではない。名前で呼ぶから内側に入る。
だから、この比率は結果であると同時に、原因でもある。
十 この見方の、弱いところ
ここで、自分の主張を疑っておく。
一つ目。線が情報で動く、という説明は単純すぎないか。
実際には、情報が入っても動かない場合がある。
事情を聞いても、許せない相手がいる。共通点が見つかっても、嫌いなままの人がいる。
だから、正確にはこうなる。
情報は、線が動く条件の一つになる。必要条件ではあっても、十分条件ではない。
そして、動くかどうかを決めているものが他にあるはずだが、それが何かは俺には分からない。
余力かもしれない。すでにある線の形かもしれない。単なる好みかもしれない。
ここは、書けない部分として残しておく。
二つ目。「感情ではなく情報で動く」は、言い過ぎではないか。
感情が先に動く場面は、確実にある。
会った瞬間に嫌いだと思う相手がいる。理由は説明できない。
これは情報ではない。
だから、修正する。
情報で動く場合が、思っているより多い。この程度が正確なところになる。
全部が情報で動くとは言わない。
三つ目。この記事は、人を操作する技術書にもなる。
線を動かす五つの入口を書いた。そして、それが詐欺に使われていると書いた。
だが、書いた以上、使おうと思えば使える。
これは、書く側の責任として認めておく。
免罪符にはならないが、一つだけ言っておくと、この五つは既に広く使われている。営業でも、教育でも、政治でも、恋愛でも。
知らないほうが安全だとは思わない。使われていることを知っているほうが、まだ対処できる。
四つ目。前回と同じ問題が残っている。
この道具は、何でも説明できてしまう。
線が動いた。だから関係が変わった。線が動かなかった。だから変わらなかった。
後付けで全部説明できる。そして、全部説明できるということは、何も予測できないということになる。
だから、この記事も仮説として置く。
確実に言えるのは、一つだけだと思う。
同じ相手に対する扱いが、情報が入る前と後で変わることがある。
そこから先は、観察から導いた推測になる。
五つ目。俺自身が、この記事で誰かを裁いていないか。
詐欺の話も、のめり込みの話も、外から見た書き方になっている。
そして、そう書くことで、自分は動かされない側にいるという前提が入り込んでいる。
そんなことはない。
書いている最中も、俺の線は動いている。何かに動かされているかもしれないし、それには気づけない。
前の章で書いた通り、動いている最中には気づけないからだ。
だから、この記事は、自分に当てて読むための記事になる。
他人の線を測るために使うと、必ず外す。
六つ目。線が動くこと自体を、悪いことのように書いていないか。
読み返すと、動かされることへの警戒ばかり書いている。
だが、動かないほうが問題になる場合も多い。
一度嫌いになった相手を、何があっても内側に戻さない人がいる。事情を聞いても動かない。時間が経っても動かない。
これは、線が固いということだ。
そして、固い線を持っている人間は、間違いを訂正できない。
前の章で書いた通り、線は情報で動く。動かないということは、情報を受け付けていないということになる。
だから、修正する。
動くこと自体は正常な機能になる。むしろ、動かないほうが不健全な場合がある。
問題は、何によって動いたかを見ていないことだけだ。
七つ目。この記事の入口の分類は、たぶん粗い。
名前、事情、共通点、弱さ、時間、紹介。この六つで全部を説明しようとしている。
だが、実際にはもっと複雑なはずだ。
同じ情報が入っても、順番が違えば効き方が違う。誰から聞いたかでも変わる。そのときの気分でも変わる。
六つに分けたのは、扱いやすくするためであって、これで全部だという主張ではない。
そして、扱いやすくすると、たいてい何かが落ちる。
落ちたものが何かは、俺には分からない。
八つ目。この記事は、警戒心を煽っていないか。
線を動かされる、操作される、という書き方を続けてきた。
そう読むと、誰かが自分に親切にしてくれたとき、まず疑うことになる。
これは、たぶん害のほうが大きい。
親切の大半は、本当の親切だ。事情を聞いてくれる人の大半は、本当に気にかけている。
そして、疑いながら人と付き合うと、こちらの線が閉じる。閉じると、情報が入らない。入らないと、誰も内側に入らなくなる。
だから、修正する。
疑えという話ではない。
動いたことに気づけ、という話になる。
気づいた上で、そのまま進んでもいい。たいていの場合、進んでいい。
問題は、気づかないまま進むことだけだ。
十一 取扱説明書
最後に、実際に使える形にする。処方ではなく、入り口として書く。
一。誰かを嫌っているとき、その人について何を知っているかを数える。
名前と、肩書きと、やらかしたことしか出てこないなら、それは情報の欠如から来ている嫌悪かもしれない。
知った上で嫌うのは構わない。だが、知らずに嫌っているなら、判断が早すぎる。
二。線が急に動いたときは、何が入ってきたかを確認する。
事情か。共通点か。弱さか。そして、それは確認できる情報か。
三。速すぎる動きを疑う。
数日で内側に入った相手。数時間で外へ出た相手。
本来、内側に入るにはコストがかかる。かかっていないなら、誰かが働いている。
四。要求が出てきたタイミングを見る。
位置が動いた後に要求が来たなら、順番を疑う。
上手いものほど、最初は何も要求してこない。
五。誰かを内側に入れたいなら、時間ではなく密度を使う。
毎日会っても入らない。一度、まともに向き合えば入る。
六。名前で呼ぶ。
担当者ではなく、名字で呼ぶ。それだけで、少し動く。
順序は逆ではない。名前で呼ぶから内側に入る。
七。外へ出す判断は、一晩置く。
外へ出すのは速くて安い。だから、疲れているときほど外へ出やすい。
一晩置いても同じ判断になるなら、それは判断になっている。
八。線の外にいる人間を、一人は確保しておく。
自分と違う線を持っている相手。
そして、動いてから探しても間に合わない。動く前に確保しておく。
九。誰かにのめり込んでいる人に、否定を返さない。
否定した瞬間に、こちらが外側になる。外側からの言葉は届かない。
内側に残ることだけが、条件になる。
十。自分が今、何を見落としているかを、他人に聞く。
原理的に、自分では分からない。だから、聞くしかない。
十一。誰かがのめり込んでいるとき、その手前に何があったかを見る。
前の章で書いた通り、のめり込む場所は五つの入口を全部提供してくる。
そして、日常でそれを提供している場所は、ほとんどない。
だから、責める前に、自分がそれを提供していたかを見る。
十二。自分の周りの人に、五つの入口を提供する。
名前を呼ぶ。事情を聞く。共通点を探す。弱さを見せる。時間を共有する。
これは、囲い込むためではない。
提供している場所が他にないと、他のどこかに行くというだけの話になる。
十三。線を外へ動かすときも、意識してやる。
無意識に外へ出した相手は、出したことすら覚えていない。だから、戻すという発想も出てこない。
意識的に出した相手は、必要になれば戻せる。
十四。集団の中にいるときは、線が揃っていないかを見る。
全員が同じものを内側に入れ、全員が同じものを外に出しているなら、補完が効かなくなっている。
そして、そのときの盲点は、内側からは絶対に見えない。
最後に、この記事で一番使ってほしい部分を書いておく。
自分が誰かを嫌っているとき、その人について何を知っているかを数える。
名前と、肩書きと、やらかしたことしか出てこないなら、その嫌悪は情報の欠如から来ている可能性がある。
知った上で嫌うのは構わない。全部知って、それでも許せないという場面はある。
だが、たいていの嫌悪は、その手前で止まっている。
そして、止まっていることに気づかない。
なぜなら、知らないという状態は、知らないままでは自覚できないからだ。
だから、こう聞くしかない。
あの人について、自分は何を知っているか。
答えが短ければ、それが答えになる。
一つだけ選ぶなら、二番を選ぶ。
線が動いたとき、何が入ってきたか。
動くこと自体は問題ではない。動かないほうが不自然だ。
問題は、何によって動いたかを見ていないことになる。
終章 昨日まで敵だった人間が、五分で味方になる
前回、俺は線の形を見た。歪んでいて、穴が空いていて、飛び地がある。そして、自分がその内側にいるかどうかが一番の変数だった。
今回は、その線が動く瞬間を見た。
分かったことを並べておく。
線は、感情ではなく情報で動く場合が多い。感情は、その後についてくる。
動かす入口は五つある。名前、事情、共通点、弱さ、時間の共有。
そして、この五つは意図的に作れる。作れるということは、作られうるということでもある。
外へ出るのは、内側へ入るより速い。外へ出すのにコストがかからないからだ。
集団単位でも動く。そして、集団のほうが速くて大きい。
時代単位でも動いている。今、自分たちが外に置いているものは、五十年後には内側に入っているかもしれない。
のめり込みは、線が細く深くなる状態になる。そして、その状態にいる人間に外から声は届かない。
そして、自分の線が動いている最中には、動いていることに気づけない。
分からなかったことも書いておく。
情報が入っても動かない場合がある。何が動くかどうかを決めているのかは、俺には分からなかった。
だから、この記事も仮説として置く。
最後に、一つだけ残す。
線が動くということは、相手が変わったわけではない、ということだ。
昨日まで怒鳴っていた人間が、五分後に困っている人間に見える。
その五分の間に、相手は何もしていない。
こちらが知ったことが増えただけになる。
これは、二つのことを意味する。
一つ。自分が誰かを外に置いているとき、その判断は情報の量に依存している。
情報が少なければ、外に置きやすい。そして、外に置いている相手の情報は、放っておいても入ってこない。
だから、外に置いた相手は、外に置かれ続ける。
自分で線を引いて、その線が正しいことを、線の内側だけで確認している状態になる。
二つ。逆も同じだ。
自分が今、誰かの線の外にいるとしても、それは自分の価値の問題ではない。
情報が渡っていないだけの場合がある。
最後に、この記事の中で一番使えると思う部分を、もう一度書いておく。
線が動くということは、相手が変わったわけではない、ということだ。
これは、二つの方向で効く。
一つ。自分が誰かを外に置いているとき、その判断は情報の量に依存している。
情報が少なければ、外に置きやすい。そして、外に置いている相手の情報は、放っておいても入ってこない。
だから、外に置いた相手は、外に置かれ続ける。
自分で線を引いて、その線が正しいことを、線の内側だけで確認している状態になる。
これは、自分では気づけない。
二つ。逆も同じになる。
自分が今、誰かの線の外にいるとしても、それは自分の価値の問題ではない。
情報が渡っていないだけの場合がある。
そして、これは救いにもなるし、救いにならない場合もある。
情報を渡せば入るかもしれない。だが、渡す機会がなければ、渡せない。
渡す機会を作るには、こちらから動くしかない。
そして、外に置かれている側から動くのは、けっこうきつい。
だから、内側にいる側が、少しだけ機会を作るほうが早い。
名前を聞く。事情を聞く。それだけでいい。
前回、線を広げるには余力が要ると書いた。今回、それに一つ足す。
余力があるほうが、機会を作る。
それだけの話になる。
前回、こう書いた。線の内側にいる人間だけが、人間に見える。
今回、それに一つ足しておく。
そして、人間に見えるかどうかは、五分で変わる。
だから、線を動かす作業は、思っているより安い。
名前を呼ぶ。事情を聞く。一度まともに向き合う。
それだけで動く場合がある。
もちろん、動かない場合もある。何をしても内側に入らない相手はいるし、入れるべきでない相手もいる。
だが、試す前に諦めているケースが、たぶん多い。
そして、一番安いのは、自分が動かされていることに気づくほうだ。
動かされている最中には気づけない。だから、後から確認する。
何が入ってきたか。それは確認できる情報だったか。要求は、いつ来たか。
これを一度やるだけで、次から少し変わる。
最後に、この記事を書いた理由を書いておく。
三部作の最初は、はたきの話だった。三百円で買えるものに一時間かけた、という話だ。
そこから、説明を詰めるかどうかの話になり、秩序の話になり、配慮範囲の話になった。
前回、その線の形を見た。今回は、動く瞬間を見た。
書きながら気づいたことがある。
俺は、この道具を使って人を説明することが、少し好きになりすぎていた。
あの人は線が狭い。あの組織は誰かを外に置いている。あの動きは線を操作している。
全部説明できる。そして、説明できるということは、気持ちがいい。
だが、前回も書いた通り、何でも説明できるものは、何も説明していないのと同じになる。
だから、今回は動く瞬間だけに絞った。
そして、絞ってみて分かったのは、動く瞬間には具体的な原因があるということだ。
情報が入る。それだけで動く。
これは、検証できる部分がある。誰かに対する自分の扱いが、何かを知った前と後で変わったかどうかは、確認できる。
前回、反証の形を設計できなかったと書いた。今回は、少しだけ設計できたと思う。
それだけの理由で、六本目を書いた。
三部作の最初に、はたきの話を書いた。三百円で買えるものに、一時間かけた。
あれは、会ったことのない二十年後の自分を、内側に入れた話だった。
会ったことのない相手を内側に入れるには、情報が要る。二十年後の自分がどういう状況にいるかを、想像する必要がある。
想像するには、時間がかかる。一時間かかった。
だから、たぶんこういうことになる。
線を広げる作業と、想像する作業は、ほとんど同じものだ。
そして、想像は情報からしか出てこない。
知らない相手のことは、想像できない。
