浅草(台東区)de ブラspiritwind♪~浅草寺・浅草神社 etc
2026.9.10
ちゃんと浅草寺・浅草神社を参拝したことがなかったので行ってきました♪
いや~、見どころがたくさんあって、こんなに奥深いとは驚きでした^^
浅草駅

JR神田駅で乗り換えて東京メトロ銀座線・浅草駅下車。
平日の昼前。インバウンドしかいない・・・・・。



地下鉄の出口を出ると、すぐに人力車の呼び込み~♪
多言語で呼び込みしてましたよ。すごいですなあ。


神谷バー





神谷バー(かみやバー)は、東京都台東区浅草にある1880年(明治13年)創業の日本で最初のバーです。明治から令和に至るまで下町の社交場として親しまれ、太宰治などの多くの文豪にも愛されてきた歴史を持ちます。 [1, 2]
名物カクテル「デンキブラン」をはじめ、レトロな洋食や雰囲気を楽しめる浅草を代表する老舗スポットです。 [1, 2]
💡 3つの大きな特徴名物カクテル「デンキブラン」
創業者の神谷傳兵衛が考案したブランデーベースのカクテルです。明治時代、まだ珍しかった「電気」が“最新でハイカラなもの”の代名詞だったことから名付けられました。 [1, 2, 3, 4]
デンキブランには30度と40度の2種があります。
階ごとに異なるスタイル
神谷ビル全体が店舗になっており、フロアごとに違った雰囲気を楽しめます。
1階(バー):気軽に立ち寄ってお酒を楽しめる賑やかなパブリックバースタイル。
2階(レストランカミヤ):エビフライやハンバーグなどの洋食をグループで楽しめる空間。
3階(割烹神谷):落ち着いた雰囲気で和食や割烹料理を味わえます。 [1, 2, 3, 4]
登録有形文化財の建物
浅草の交差点に佇むモダンな本館ビルは、大正時代に建てられたもので、国の登録有形文化財にも指定されています。
何回か飲みに来たことがあります。このデンキブラン、ものすごく変な酔い方をするんですよ。
今でも記憶があるのは、デンキブランを2~3杯飲んで、帰りの中央線で座っていたら寝込んで(意識が飛んで?)降りる駅を遥かに通り過ぎたことがありますね(笑)。
雷門




聖観音宗・総本山
金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)
御本尊 聖観音菩薩(御秘仏)
★東京都内で最も古いお寺(628年創建)
★本尊が現れたときに「天から金の龍が舞い降りてきた」
★浅草寺の聖観音菩薩は創建以来の完全秘仏
※ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
聖観音宗(しょうかんのんしゅう)
浅草寺の現在の宗派(グループ)の名前です。もともとは「天台宗」に属していましたが、昭和25年(1950年)に浅草寺を総本山(いちばん本元の los 寺院)とする独立した一派として「聖観音宗」を設立しました。総本山(そうほんざん)
その宗派のトップにあるもっとも重要なお寺という意味です。浅草寺は聖観音宗の最高峰のお寺です。金龍山(きんりゅうざん)
浅草寺の山号(さんごう)です。仏教のお寺には、名前の前に「〇〇山」という称号をつけます。浅草寺の由来(縁起)において、本尊が現れたときに「天から金の龍が舞い降りてきた」という伝説から名付けられました。雷門の正式名称「風雷神門」の真ん中にある大提灯の裏側にも「金龍山」と書かれています。浅草寺(せんそうじ / あさくさかんのん)
お寺の正式名称です。音読みでは「せんそうじ」ですが、古くから庶民に「浅草の観音様(あさくさかんのん)」として親しまれてきました。東京都内で最も古いお寺(628年創建)です。御本尊 聖観音菩薩(ごほんぞん しょうかんのんぼさつ)
浅草寺のメインとしてお祀りされている中心の仏様(観音様)です。あらゆる人々を悩みや苦しみから救ってくれる、慈悲深い仏様として信仰されています。御秘仏(ごひぶつ)
「絶対に一般公開してはならない仏様」という意味です。浅草寺の聖観音菩薩は、西暦645年に「夢のお告げ」があって以来、約1400年間、誰も見てはならない固い掟(おきて)が守られています。住職さえも見ることができず、本堂の最も奥深くにある御宝前(ごほうぜん)に厳重に納められています。
「東京都内で最古の歴史を持ち、金の龍の伝説に由来する山号を持つ、聖観音宗という宗派の最高峰のお寺であり、そこには1400年間誰も見たことがない絶対の秘仏『聖観音菩薩』が祀られている」という意味になります。


浅草寺の「雷門(かみなりもん)」という名前には、実は長い歴史のなかで生まれたユニークな変化の理由があります。 [1, 2]
一番の理由は、門の左右に「風神(ふうじん)」と「雷神(らいじん)」の2つの神様が祀られているからです。 [1, 2]
1. 正式名称は「雷門」ではない
あの門の正式名称は、「風雷神門(ふうらいじんもん)」といいます。
門に向かって右側に「雷神」、左側に「風神」の像が配置されており、浅草寺を火災や嵐などの災害から守るための「守護神」として祀られました。 [1, 2, 3, 4, 5]
2. なぜ「雷」だけになった?
本来なら「風雷神門」や「風雷門」と呼ばれるはずですが、江戸時代(1800年代頃)にはすでに庶民の間で省略され、「雷門」という通称が定着したとされています。 [1, 2]
なぜ風神が無視されてしまったのかについては、当時の江戸の人々の間で以下のようなユーモア混じりの川柳が詠まれていたほどです。 [1]
「風の神 雷門に 居候(いそうろう)」
「門の名で みりゃ風神は 居候」
「名前が『雷門』になっちゃったから、隣にいる風神様はまるで居候(タダで居座っている人)みたいだね」と、江戸っ子たちに面白おかしくからかわれていました。単に「語呂がよくて呼びやすかったから」という説が有力ですが、風神様にとっては少し気の毒な歴史を持っています。 [1]
3. 現在の「雷門」は大企業の創業者が建てた
実は、あの有名な雷門は一度火災で完全に焼失し、約95年間も「門がない状態」が続いていました。 [1, 2]
それを1960年(昭和35年)に寄進(プレゼント)して復活させたのが、パナソニック(旧・松下電器)の創業者である松下幸之助氏です。彼が病気平癒のお礼として門と大提灯を寄贈したため、現在の美しい姿が蘇りました。今でも大提灯の最下部にある金具には「松下電器」の名前が刻まれています。



雷門の内側には・・・・


雷門(風雷神門)の内側(仲見世通り側から見える裏側)には、正面の「風神・雷神」と対になるように、「天龍(てんりゅう)」と「金龍(きんりゅう)」という2体の龍神像が安置されています。 [1, 2]
これらは人間の姿に擬人化された、水を司る神様(護法善神)です。 [1, 2]
🐉 内側にある2つの像の特徴
像の名前配置(裏から見て)
姿の特徴
天龍(てんりゅう)像向かって左側男性の姿をした龍神。中国出土の皮の腰鎧(よろい)を身にまとっています。金龍(きんりゅう)像向かって右側女性の姿をした龍神。中国の伝統的な衣装(裙/もすそ)をはいた立像です。※昭和53年(1978年)に、日本を代表する彫刻家・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏らによって謹刻され、松下グループの有志によって寄進されました。 [1]
💡 なぜ「龍神」が祀られているの?
浅草寺の山号が「金龍山」であることに由来しています。
浅草寺の観音様が隅田川で漁師に引き上げられた際、「天から金の鱗を持った龍が舞い降りてきた」という伝説があり、お寺を守る善神として、また海難や火災(水害)から守る水神として奉納されました。 [1, 2]
ちなみに、正面に吊るされている有名な大提灯の真下(底の金具部分)にも、見事な「龍の木彫り彫刻」が施されています。

仲見世通り(表参道)
浅草寺の仲見世通りは、なんと江戸時代から続く日本で最も古い商店街の一つです。
いや~、すごい人だなあ。異空間ですな^^
いろんな人がいて、いろんな匂いがします。ほぼインバウンドですね。後は修学旅行生と観劇のジジババが少々。








浅草幼稚園

仲見世通りのすぐ近く(伝法院の隣あたり)に「浅草寺幼稚園(せんそうじようちえん)」があります。 [1, 2]
実はこの幼稚園、浅草の人々からは「浅草の学習院」とも呼ばれる、ものすごい歴史と伝統を持った名門幼稚園なんです。 [1]
🏫 浅草寺幼稚園のすごいところ始まりは「関東大震災」の託児所
大正12年(1923年)の関東大震災の直後、「復興のために忙しく働く浅草の商人たちの子供を預かろう」と、浅草寺の境内に託児所を作ったのが始まりです。1931年に正式な幼稚園となりました。 [1, 2]
仲見世のすぐ裏にある、隠れた広い園庭
観光客で賑わう仲見世通りから一歩門をくぐると、外のにぎやかさが嘘のように静かで広い園庭が広がっています。お寺が運営しているため、園内には本格的な「お茶室」もあり、子供たちは幼い頃から日本の伝統や礼儀作法(お茶席)を学びます。 [1, 2]
浅草の行事にもばっちり参加
お寺の行事とも深く結びついていて、5月の三社祭の時期には、園児たちが漁師の衣装を着て「七福神の宝船」を引っ張って境内をパレードする可愛らしい姿が見られます。 [1]
実は、全国屈指の「お受験」名門園
下町の温かい仏教保育を行っている一方で、昭和30年代から入園試験があり、有名私立小学校や国立小学校へ多くの進学者を出す名門園としても知られています。地元の老舗の跡取り息子や娘が多く通うことでも有名です。 [1]





平和地蔵尊

「東京大空襲」の犠牲者を慰霊し、世界の平和を祈るために建てられました。
ニ尊仏(濡れ仏)


ニ尊仏(浅草寺)
「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観音(右)、勢至(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に二・三六メートル、蓮台を含めれば四・五四メートルにおよぶ。基壇の組石は、長さ約十二メートル、幅六・二メートル、高さ一・五メートルとなっている。
蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛。かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享四年(一六八七)八月に造立した。
江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町の太田久右衛門正儀の作。
安永六年(一七七七)二月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬輿右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。
👤 大泥棒「鼠小僧次郎吉」の伝説
江戸時代、この二尊仏の高さ(蓮の台座を含めて約4.54メートル)は、周囲に高い建物がなかった当時としてはかなりの高層建築でした。
そこで目をつけたのが、義賊として有名な大泥棒「鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)」です。
伝説によると、次郎吉は夜中にこの二尊仏の肩にするするとよじ登り、「ここから見渡せば、今夜どこの大名屋敷が留守か、どこの金持ちの家が寝静まっているかが一目でわかる」と、高みの見物をしながら盗みの計画を練ったと言われています。
もちろんこれは後世の作り話(講談など)の側面が大きいですが、それほど江戸の人々にとって「高くて目立つ存在」だったことがよく分かります。
二尊仏が「濡れ仏(ぬれぼつ・ぬれぶつ)」と呼ばれるのは、屋根のない屋外にそのまま安置されており、雨や露に濡れるがままになっているからです。
まんしゅう母子地蔵尊

母子(ははこ)地蔵尊は、第二次世界大戦の直後、旧満州(現・中国東北部)からの過酷な引き揚げの最中に亡くなった20万人以上の母親と子供たちを慰霊するために建てられたお地蔵様です。
過酷な歴史の慰霊:
飢えや寒さ、病気に苦しみながら命を落とした親子の霊を慰め、平和を祈るために1997年に建立されました。
ちばてつや氏によるデザイン:
自身も引き揚げ体験を持つ漫画家・ちばてつや氏(代表作『あしたのジョー』)が母子が寄り添う温かい姿をデザインしました。子供の表情には彼の作品の面影があります。
漫画家たちの祈り:
同じく引き揚げ者である漫画家の森田拳次氏らが中心となり、悲劇を風化させないために多くの協力のもと建てられました。



浅草不動尊・三宝荒神堂、なでぼとげ、一言不動尊

浅草不動尊・三宝荒神堂(右側の建物)
お堂の正面には「厄除・虫封」と書かれた看板が出ています。不浄や災いを払う「不動明王」と「三宝荒神」がお祀りされています。 [1, 2]
なでぼとげ(お堂の左側、柵の手前)
お堂の左側に、ちょこんと座っているブロンズの仏様(おびんずる様)がいます。「自分の体の悪い部分と、仏様の同じ部分を撫でると、病気や痛みが良くなる」と言われている人気の「なで仏」です。 [1, 2]
一言不動尊(左奥に見える小さなお堂)
お線香立てのさらに左奥には「一言不動尊」があります。「欲張らずに、何か一つだけ願い事を限って祈ると、その願いが必ず叶う」と古くから言われている、とても霊験あらたかなスポットです。 [1, 2]
久米平内堂


久米平内堂(くめのへいないどう)
久米平内は江戸時代前期の武士。「武江年表」によると、天和三年(一六八三)に没したとされるが、その生涯については諸説あり、実像は明らかではない。
平内堂には次のような伝承がある。
平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修行し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ち込んだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人々に踏んでもらうことによって、犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。
その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
平内堂は、昭和二十年三月の戦災で焼失した。現在のお堂は同五十三年十月に浅草寺開創千三百五十年記念として再建されたものである。
宝蔵門






宝蔵門(ほうぞうもん)
宝蔵門は、大谷米太郎(ホテルニューオータニ創業者)の寄進で、昭和三十九年に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。鉄筋コンクリート造で重層の楼門である。外観は旧山門と同様に、江戸時代初期の様式を基準に設計されている。高さ二十一・七メートル、間口二十一・一メートル、奥行は八・二メートルある。下層の正面左右には、錦戸新観、村岡久作の制作による、木造仁王像を安置している。
浅草寺山門の創建は、『浅草寺縁起』によると、天慶五年(九四二)、平公雅によると伝える。仁王像を安置していることから仁王門とも呼ばれる。その後、焼失と再建をくり返し、慶安二年(一六四九)に再建された山門は、入母屋造、本瓦葺の楼門で、昭和二十年の空襲で焼失するまでその威容を誇っていた。
雷門をくぐって仲見世通りをまっすぐ歩いた突き当たりにあり、本堂のすぐ手前にそびえ立っています。
この門にも、雷門に負けないたくさんの見どころや面白い特徴があります。
💡 宝蔵門の3つの大きな特徴正式名称は「仁王門(におうもん)」
門の正面の左右には、筋骨隆々とした2体の仏教の守護神「仁王尊(におうそん)」が安置されています。そのため古くから「仁王門」と呼ばれていましたが、昭和の再建時に上層階が浅草寺の貴重な経典や宝物を収める「収蔵庫(宝物蔵)」になったことから、「宝蔵門」と名前が変わりました。
裏側には巨大な「大わらじ」
この門をくぐって裏側(本堂側)に回ると、壁に長さ約4.5メートル、重さ約500キロもある巨大な「大わらじ」が1対(2枚)吊るされています。これには「この門を守る仁王様は、こんなに大きなわらじを履くほどの巨漢なのだぞ」とアピールして、悪霊や魔物を驚かせて追い払う魔除けの意味があります。
中央に吊るされた「小舟町」の赤提灯
中央には大きく「小舟町(こぶなちょう)」と書かれた大提灯が吊るされています。これは日本橋小舟町の魚河岸の商人たちの信仰によって、江戸時代から現代まで何度も奉納・新調され続けている伝統ある提灯です。
(2026年5月21日の夜から、約10年ぶりとなる「提灯の新調(掛け替え)」のために一時的に取り外されています。)


浅草寺の大イチョウ



樹齢約800年といわれる浅草寺の「大銀杏(おおいちょう)」
写真で見ても圧倒されるほどの存在感ですが、この木の前に立ってみると、その生命力に驚かされますよね。
改めて、この大銀杏が持つ「浅草のシンボル」としての歴史的な見どころを3つご紹介します。
🌳 この大銀杏のすごい歴史
東京大空襲を生き抜いた「奇跡の木」
昭和20年の東京大空襲で浅草寺のほとんどの堂塔が焼け野原になった際、この木も頭から激しい猛火を浴びました。一時は枯死寸前までいきましたが、戦後に力強く新しい芽を吹き返し、ここまで大きな姿に復活しました。浅草の人々にとって「復興の象徴」として深く愛されています。
源頼朝(みなもとのよりとも)の伝説
伝承によると、鎌倉時代の1192年、源頼朝が浅草寺に参拝した際に「天下が平和になりますように」と祈願して、自らこの木を植えた(または持っていた杖を刺した)と言われています。そのため、浅草寺の中で最も歴史のある生き証人でもあります。
幹のなかに残る「戦争の傷跡」
近づいて幹の裏側や根元の方をじっくり見ると、当時の空襲で黒く焼け焦げた生々しい傷跡が今でも残っています。傷を抱えながらも青々と葉を茂らせる姿は、見る人に生命の尊さを静かに教えてくれます。
秋が深まると、この大きな木全体がまばゆいほどの黄金色に染まり、地面に黄色い絨毯を敷き詰めたような絶景が広がります。
五重塔


五重塔(ごじゅうのとう)
そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利/ぶっしゃり)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸(とうぜん)を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。
浅草寺五重塔は、天慶五年(九四二)、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和二十年三月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)
以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(かんじょう)(五重塔最上層に奉安)し、昭和四十八年に現在の五重塔を再建するに至った。
地上からの高さは約五十三メートルある。(塔内非公開)金龍山 浅草寺

旧石燈籠の部分

これはかつてあった巨大な石の灯籠の、火を灯す部分(火袋・ひぶくろ)だけが地面に置かれている大変珍しい史跡です。もともとは本堂の前にそびえ立つ大きな灯籠でしたが、昭和20年の東京大空襲によって倒壊し、バラバラになってしまいました。奇跡的にこの頭の部分だけが美しい彫刻をとどめたまま残ったため、当時の職人の素晴らしい技を後世に伝えるためにここに保存されています。
鳩ポッポの歌碑

浅草寺の鳩がモデルだった
明治33年(1900年)、作詞家の東くめ(ひがしくめ)女史が浅草寺の境内にやってきた際、たくさんの鳩と楽しそうに戯れる子供たちの姿を見てこの歌詞を思いつきました。そのため、歌詞にある「お寺の屋根」とは、まさにここ浅草寺の屋根のことです。 [1, 2]
よく知る「ぽっぽっぽ〜」とは別の曲?
実は、私たちがよく知っている「ぽっぽっぽ、はとぽっぽ〜♪(文部省唱歌)」という歌とは別の曲です。
ここに刻まれているのは日本で最初の幼稚園唱歌となった元祖『鳩ポッポ』で、以下のような歌詞が書かれています。
「はとポッポ はとポッポ ポッポッポと とんでこい 御寺のやねから下りてこい…」
迷子しるべ石

📬 江戸時代の「アナログな掲示板」
昔は今のように携帯電話も迷子放送もなかったため、お祭りで賑わう浅草寺では迷子が多発していました。そこで、町のみんなで協力して迷子を探すために作られたのがこの石柱です。

お水舎

💡 お水舎の3つの見どころ
中央の仏像:「沙竭羅龍王(さがらりゅうおう)」像
真ん中に立っている、剣を持ってこちらを睨みつけている像は、仏教を守る八大竜王の一尊である「沙竭羅龍王」です。水を司る偉大な神様(龍神様)であり、この手水舎の水そのものを守っています。彫刻家・高村光雲(たかむらこううん)氏の作を、1964年にブロンズ像として鋳造したものです。
八角形の池と龍の口
龍王像の足元は八角形の石の池になっており、その周囲から8頭の龍の口から勢いよく水が流れ出ています。参拝客はこの水を使って清めを行います。
天井の絵画:「墨絵の龍」
上を見上げると、天井に見事な龍の絵が描かれています。これは日本画家の高村薫風(たかむらくんぷう)氏によって描かれたもので、力強い筆跡で雲の中から現れる龍が表現されています。浅草寺の山号「金龍山」にふさわしい、龍尽くしの特別な空間です。
💧 なぜ「龍神様」が多いの?
先ほどの雷門の裏側の像(天龍・金龍)や、大提灯の底の木彫りでもお話しした通り、浅草寺は「金の龍が天から舞い降りてきた」という伝説があるため、境内には龍の装飾や神様がたくさんいます。特にここは「水」を扱う場所なので、火災除けや清めの意味を込めて、強力な龍王様が配置されています。
本堂(観音堂)







聖観音宗総本山(しょうかんのんしゅうそうほんざん)
金龍山(きんりゅうざん) 浅草寺(せんそうじ)(あさくさかんのん)
推古(すいこ)天皇三十六年(六二八)三月十八日、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟が隅田川に漁撈(ぎょろう)中、観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。土師中知(はじのなかとも)はこれを拝し、聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)さまであることを知り深く帰依(きえ)し、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。
大化元年(六四五)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、夢告(むこく)によりご本尊をご秘仏(ひぶつ)と定められた。平安初期には、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)さまが来山され、お前立(まえだち)のご本尊を謹刻(きんこく)された。
鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、江戸時代に徳川家康公によって幕府の祈願所(きがんじょ)とされ、堂塔の威容(いよう)さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として大きく繁栄した。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音(あさくさかんのん)の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者(さんけいしゃ)がおとずれる民衆信仰の中心地となっている。


🎨 写真に見える3つの天井画の解説
手前から奥に向かって、日本の美術史に残る巨匠たちが命を懸けて描いた名作が並んでいます。
手前(大きく見えている絵):『天人散華(てんにんさんげ)の図』
天女(てんにん)が美しく舞いながら、仏様を供養するために蓮の花びらを降らせている、非常に華やかで優しい絵です。日本画の大家である安田靫彦(やすだゆきひこ)氏によって、昭和33年(1958年)の本堂再建に合わせて描かれました。
中央(黒っぽく見える絵):『龍の図』
浅草寺の山号「金龍山」の象徴である、力強い龍が雲の中から姿を現している墨絵です。近代日本画の巨匠・川端龍子(かわばたりゅうし)氏が、本堂の復興を祝って渾身の力で描き上げました。
奥(少し見えている絵):もう一枚の『天人散華の図』
実は中央の龍を挟むように、奥側にももう一枚、別の天女の絵が描かれています。こちらも安田靫彦氏による作品です。
💡 この天井画の「すごい歴史」
昭和20年の東京大空襲で古い本堂が焼け落ちた際、それまで天井に描かれていた貴重な江戸時代の絵画もすべて灰になってしまいました。
戦後、浅草の人々が「今度こそ絶対に燃えない頑丈な本堂を建てよう」と、鉄筋コンクリートで現在の本堂を再建した際、当時のトップクラスの芸術家たちが「浅草の復興と、これからの平和への祈り」を込めて、この新しい天井画を奉納したという、とても熱いドラマが隠されています。



二天門






二天門(にてんもん)(重要文化財)
この二天門は、慶安2年(1649)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。なお、浅草寺の東照宮は元和四年(1618)に建立されたが、寛永八年(一六三一)と同十九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。
明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。
現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(十七世紀後半)に制作したもので(東京都指定有形文化財)、昭和三十二年に寛永寺の厳有院殿(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。
二天門は昭和25年、国指定重要文化財に指定された。

浅草神社

浅草神社は、実質的に浅草寺の境内のすぐ隣(同じ敷地内のように見える場所)にあります。明治時代よりも前は、日本には「神様とお寺の仏様は一緒のもの」という神仏習合の考え方がありました。そのため、浅草神社はもともと浅草寺と一体の施設であり、「三社権現(さんじゃごんげん)」と呼ばれていました。
今でも「三社さま」として親しまれている
浅草の有名なお祭り「三社祭(さんじゃまつり)」は、この浅草神社のお祭りです。祀られているのは、1400年前に浅草寺の観音様を隅田川で見つけた漁師の兄弟(檜前浜成・竹成)と、それを熱心に信仰した土師中知の3人の人間(浅草寺を開いた恩人たち)です。
三社祭りとは
「三社(さんじゃ)」とは、浅草寺の創建に深く関わった、浅草の恩人である「3人の神様(人間)」のことです。
この3人を「三社の神様」として祀っていることから、お寺の隣にある神社が浅草神社(通称:三社さま)と呼ばれ、そのお祭りが有名な「三社祭(さんじゃまつり)」となりました。
具体的にどんな人たちなのか、分かりやすくご紹介します。
👤 三社に祀られている「3人の恩人」
浅草寺の由来(縁起)の看板にも登場した、1400年前(飛鳥時代)の実在の人物たちです。
・檜前 浜成(ひのくまの はまなり) [兄・漁師]
隅田川で網を打っていたところ、網に引っかかった奇妙な像(のちの聖観音菩薩像)をすくい上げた兄弟の兄です。
・檜前 竹成(ひのくまの たけなり) [弟・漁師]
お兄さんと一緒に熱心に漁をしていて、観音像を発見した兄弟の弟です。
・土師 中知(はじの なかとも) [文化人・地元の知識人]
兄弟がすくい上げた像を見て、「これは大変尊い聖観音菩薩像だ」といち早く見抜き、2人に仏教の教えを説いた地元の知識人です。のちに出家して自宅をお寺(浅草寺の始まり)に改造し、一生をかけて観音様を祀りました。
💡 なぜ「神様」になったの?
この3人が亡くなった後、その子孫たちが「浅草の街を開き、観音様を大切にお祀りしてくれた素晴らしい3人の功績を称えよう」と考え、3人の霊を「神様」として一緒にお祀りしたのが浅草神社(三社権現)の始まりです。
つまり、「観音様を見つけた漁師の兄弟」と「お寺を開いた知識人」の3人を合わせて「三社」と呼びます。
毎年5月に開催される「三社祭」では、この3人の神様がそれぞれ別々の神輿(一之宮、二之宮、三之宮という3基の巨大な御神輿)に乗り、浅草の街を賑やかに練り歩きます。
夫婦狛犬



通常、神社の狛犬は参道を挟んで「右と左」に離れて置かれますが、ここの狛犬は2匹が1つの台座の上にぴったりと肩を寄せ合い、仲睦まじく並んで座っているという非常に珍しい形をしています。
その微笑ましい姿から、近年では以下のようなご利益がある大人気のパワースポットとなっています。
良縁成就(恋愛成就)
夫婦和合(夫婦円満)
家内安全(家庭円満)
💡 夫婦狛犬のユニークな見どころ江戸時代初期の貴重なもの
浅草神社の解説によると、この狛犬は江戸時代初期に作られた大変古いものです。もともとは別の場所で役目を終え、参道から離れた静かな場所に置かれていたため、一部の愛好家からは「隠居狛犬さん」とも呼ばれていました。
裏側に隠された「ハート型」
お参りする際は、ぜひ正面だけでなく後ろ側に回って見てみてください。2匹の狛犬の後ろ姿(特に尻尾の重なり方など)を特定の角度から見ると、綺麗な「ハートの形」に見える場所があります。これを見つけると、さらに恋愛運や良縁のご利益がアップすると言われています。
季節ごとの可愛らしいおめかし
神社の方や参拝客にとても愛されており、夏にはお揃いの「麦わら帽子」や「カンカン帽」をかぶせてもらっていたり、冬にはマフラーを巻いてもらっていたりと、季節によって可愛らしい姿を見せてくれることがあります。










💡 浅草神社の3つのポイント
浅草寺をつくった「3人の人間」が神様
1400年前に隅田川から観音像をすくい上げた漁師の兄弟(檜前浜成・竹成)と、お寺を建てた土師中知の3人の郷土の恩人を神様(三社権現)として祀っています。仏教の浅草寺ができた後に、その創始者たちを讃えるために隣に作られたという珍しい歴史を持ちます。
国指定の「重要文化財」の社堂
現在の社殿は、江戸幕府の3代将軍・徳川家光が1649年に再建したものです。本堂と拝殿が廊下で繋がった「権現造(石の間造)」と呼ばれる華麗な建築様式で、東京大空襲の戦火を奇跡的に免れたため、大変貴重な江戸初期の木造建築として国の重要文化財に指定されています。
あらゆる願いを叶える高いご利益
浅草の街の総鎮守(守り神)であり、漁師がモデルであることから「五穀豊穣」「商売繁盛」「大漁満足」をはじめ、寄り添う「夫婦狛犬」にあやかった「良縁成就」「夫婦円満」など、下町の人々の暮らしに根ざした幅広いご利益があります。
被官稲荷神社(ひかんいなりじんじゃ)





「被官稲荷神社(ひかんいなりじんじゃ)」
鳥居に木造の覆屋(おおいや)が重なる、非常に独特でレトロな佇まいを見せるお稲荷様です。
💡 被官稲荷神社の3つの見どころと歴史
「新門辰五郎」ゆかりの神社
幕末から明治にかけて浅草で大活躍した町火消の頭領(侠客)、新門辰五郎(しんもんたつごろう)が深く関わっています。安政元年(1854年)、彼の妻が重病に倒れた際、京都の伏見稲荷大社に熱心に祈願したところ病気が奇跡的に全快しました。そのお礼として翌年に伏見稲荷から神様を勧請(かんじょう)して建てたのが始まりです。正面に立つ鳥居は辰五郎が奉納したものです。 [1, 2]
「就職」や「立身出世」の強力なパワースポット
「被官(ひかん)」という名前は「官(職)を被(こうむ)る」という意味に通じることから、江戸時代から現代に至るまで「立身出世」「就職成就」「商売繁盛」の神様として、多くのサラリーマンや芸事の上達を願う人々に信仰されてきました。 [1, 2]
大震災や空襲を生き延びた「奇跡の社殿」
大きな屋根(覆屋)の中に、間口1.5メートルほどの小さなお社(社殿)が保護されるように納められています。この小さなお社は安政2年(1855年)の創建当時のままのもので、関東大震災や東京大空襲の激しい戦火を奇跡的に潜り抜けた、大変貴重な建築物です。 [1]





初代 花柳寿輔・句碑

扇塚


初代 中村吉右衛門 句碑

初代 中村吉右衛門 句碑
「女房も 同じ氏子や 三社祭」
吉右衛門 建碑 昭和二十八年四月二十二日
初代中村吉右衛門 歌舞伎俳優 日本芸術院会員 文化勲章受章
明治十九年三月二十四日 浅草象潟町に生まれ、幼少から舞台に立って名声を得、長じて大正・昭和の劇壇を代表する歌舞伎俳優となった。
高浜虚子に師事して、「ホトトギス」の同人となり、句集も三冊に及ぶ、初め秀山と号したが、後に吉右衛門の名前を用いた。
妻千代もまた浅草の生まれ、この句の由縁である。昭和十四年春の作、この碑は自詠自筆である。
実名 波野辰次郎
昭和二十九年九月五日没 享年六十八
河竹黙阿弥 顕彰碑・花塚・狂言塚


初代 市川猿翁句碑


百度石

こち亀記念碑(両津勘吉像碑)


宝篋印塔(ほうきょういんとう)


「宝篋印塔」とは、「宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)」という経典を収めたことに由来する仏塔で、日本では主に石塔婆(いしとうば)の一つの形式として盛んに造立(ぞうりゅう)された。
この塔は江戸時代中頃の安永四年(一七七五)に、境内にかつてあった荒澤不動堂(あらさわふどうどう)の普門(ふもん)を導師として造立され、銘文は江戸深川に住む書家の三井親和(みついしんわ)によって揮毫(きごう)された。
塔の四方には、「宝篋印陀羅尼」の経文の一部が刻まれており、「お経を書写して奉安し、礼拝供養する者は、過去の罪障が消滅する」など、計り知れない功徳(くどく)を得ることが記されている。
功徳を得ることを願う人々の祈りの声が聞こえる。
金龍山 浅草寺
浅草寺の北側です。乳イチョウが何本かありましたよ。
古くから日本各地で**「乳イチョウ」として信仰の対象となってきました。乳の出が悪い女性や子宝を願う人々が、この突起に触れたり、煎じて飲んだり、白紙を結んで祈願することで、母乳の分泌促進や安産**のご利益があると信じられてきました。



影向堂

お堂の前に川が流れていました。人工のようですが良いアクセントになっています。
「石橋(しゃっきょう)」都内最古

水の流れの中央には、国の重要美術品にも認定されている小さな石の橋が架かっています。これは元和4年(1618年)に徳川家康を祀る東照宮が境内に造られた際、その参道として作られた「現存する都内最古の石橋」です
。現在は渡ることはできませんが、歴史の重みを感じられるスポットです。


西仏板碑(さいぶついたび)

🪨 西仏板碑の3つのすごい特徴
浅草寺の境内で「現存する最古の文字」
この板碑が造られたのは、鎌倉時代後期の弘安6年(1283年)です。浅草寺の歴史は飛鳥時代から続いていますが、当時を物語る建物は戦争などで失われてしまったため、境内で直接文字が読み取れる歴史的遺物のなかでは、この西仏板碑が最も古いものになります。東京都の指定有形文化財にもなっています。
謎の人物「西仏」が家族のために建てた
石の真ん中あたりに、丸い円の中に「西仏(さいぶつ)」という文字が彫られています。この西仏という人物の詳しい素性は分かっていませんが、自身と亡くなった妻や子供、そしてご先祖様たちみんなが「極楽浄土へ行けますように」という強い祈りを込めて、この大きな石を切り出し奉納しました。
一番上に彫られた「謎の大きなマーク」
石碑の最上部には、何やら不思議な形の大きなマークが彫られています。これは「キリーク」と呼ばれる古代インドの文字(梵字/サンスクリット語)で、あらゆる人々を救ってくれる「阿弥陀如来(あみだにょらい)」を記号化したものです。これがあることで、石碑そのものが大変ありがたい神聖なものとされていました。
三尊名号(さんぞんみょうごう)供養塔



「影向堂(ようごうどう)」の正面入り口です。
ここは浅草寺のすべての御朱印(ごしゅいん)やお札、お守りをいただくための総合窓口になっています。
🏛️ 影向堂(ようごうどう)とは?
「仏様たちが一堂に会する」お堂
「影向(ようごう)」とは、神様や仏様が私たちの世界に姿を現すという意味の言葉です。浅草寺のメインの仏様(聖観音菩薩)をサポートするために、たくさんの神聖な仏様たちがこのお堂に集まって姿を現しているとされている、非常にパワーの強い場所です。
あなたの「生まれ年の守り本尊」が祀られている
堂内には、私たち人間の十二支(干支)に合わせて、それぞれを一生涯守ってくれるとされる「干支の守り本尊(八体の仏様)」がずらりと並んで祀られています。
(例:子年なら千手観音、丑・寅年なら虚空蔵菩薩など)
中に入ると、自分の干支の仏様の前に立って、ピンポイントでとても深いお参りをすることができます。
現在の建物は平成生まれ
歴史あるお寺ですが、この影向堂は1994年(平成6年)に浅草寺の開創を記念して、日本古来の伝統的な木造建築の技術を凝縮して建てられた比較的新しく綺麗なお堂です。
📝 なぜここで御朱印がもらえるの?
以前は本堂の裏手などいくつかの場所で分かれて受付をしていましたが、現在は参拝客がスムーズに、そして落ち着いて御朱印やお札をいただけるよう、この広くて立派な影向堂のなかに大きくて綺麗な専用窓口が一本化されました。
六角堂(ろっかくどう)


浅草寺の境内で最も歴史的価値が高い建築物の一つ、「六角堂(ろっかくどう)」です。
先ほど撮影された影向堂(御朱印所)のすぐ左隣に位置しており、手前には「都重宝 浅草寺 六角堂」と立派に刻まれた石柱が立っています。
このお堂の、何がそんなにすごいのかというポイントを3つにまとめました。
💡 六角堂の3つのすごい見どころ
浅草寺の境内で「現存する最古の建造物」
浅草寺にある本堂や五重塔、雷門などはすべて昭和の時代に鉄筋コンクリートなどで再建されたものですが、この六角堂はなんと室町時代(16世紀頃)に建てられた当時の本物の木造建築です。関東大震災や東京大空襲の猛火を奇跡的に免れ、約500年もの間ここに立ち続けているため、東京都の指定有形文化財(都重宝)になっています。
とても珍しい「綺麗な六角形」の形
その名の通り、上から見ると屋根も土台も綺麗な「正六角形」をしています。屋根の頂点には「宝珠(ほうじゅ)」と呼ばれる玉がのっており、コンパクトながらも非常に美しく、均整の取れた江戸時代前の建築美を間近で見ることができます。
「日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)」を祀る
お堂の中には、人々の願いを叶えてくれるお地蔵様が祀られています。特に「〇月〇日までにこれをお願いします」と、あらかじめ日限(ひにち)を切って定めてお祈りすると、その願いがピンポイントで必ず叶うと言われている、とても霊験あらたかなお地蔵様です。
三峰神社

かつて浅草の商人や職人たちの間で、秩父の三峯神社への信仰チーム(三峰講・みつみねこう)が作られました。江戸時代、ここ浅草から秩父の山奥までお参りに行くのは命がけの大変な旅だったため、「浅草の街のなかでも気軽にお参りできるように」と、この場所に小さなお社を建てて神様を招きました。
奇跡的に焼け残った「江戸時代の本物の木造」
浅草神社の本殿と同じく、この小さな三峰神社のお社も東京大空襲の猛火を奇跡的に免れた、江戸時代からの貴重な木造建築です。長い年月を経て黒く味わい深くなった木の質感が、下町の歴史を今に伝えています。

「仏頂尊勝陀羅尼碑(ぶっちょそんしょうだらにひ)


💡 仏頂尊勝陀羅尼碑の3つの特徴
息災延命のとてもありがたいお経が刻まれている
「仏頂尊勝陀羅尼」とは、唱える人に「災いを払い、寿命を延ばす」などの絶大なご利益を授けるとされる、古くから深く信奉されてきた非常に尊いお経(陀羅尼)のことです。 [1]
上部以外は「全く読めない」不思議なデザイン
石碑の正面いちばん上部には、横文字で大きく「佛頂尊勝陀羅尼碑」と漢字の題字が彫られています。しかし、その下の一面にびっしりと刻まれている文字は、日本語でも漢字でもなくすべて古代インドの「梵字(サンスクリット語)」です。そのため、一般の参拝客には全く判読できない、呪術的でとても神秘的な見た目をしています。 [1, 2, 3]
江戸時代末期の元治元年(1864年)に建立
背面には漢字でこのお経の素晴らしい功徳について詳しく書かれており、幕末の元治元年に、奈良の長谷寺などで修行を重ねた海如(かいにょ)という真言宗の僧侶によって奉納されたことが分かっています。 [1]
六地蔵石燈籠(ろくじぞういしどうろう)


この石燈籠はかつて元花川戸町にあったものが、明治二三年(一八九〇)に現在地に移転されたものです。高さ約二三五センチメートル余り、龕部(がんぶ)・六面に地蔵を彫りつけてあります。石燈籠と呼ばれていますが、「火袋(灯明部)」はありません。
詳細は不明ですが、伝承では久安二年(一一四六)、久安六年(一一五〇)あるいは応安元年(一三六八)建立ともいわれます。現在は風化や火災の影響により、竿石(さおいし)に刻まれた文字などの判読は困難です。
多くの文献に取り上げられている燈籠ですが、「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」などでもすでに「印刻(いんこく)の判読が困難であった」ようです。そのため、都内でも古い時代の製作のものと考えられます。


「銭塚弁財天(ぜにづかべんざいてん)」


💡 銭塚弁財天の3つの見どころ
名前の由来:お賽銭(銭)がザクザク埋まっている?
かつて兵庫県西宮に、とても信心深いおじいさんがいました。ある日、彼の家の庭から「寛永通宝(昔のお金)」がびっしり詰まった大きな壺が掘り出されました。「これは働かずに手に入れたあぶく銭だから、自分のために使ってはバチが当たる」と考えた彼は、そのお金が詰まった壺をここに埋めて、その上にこの弁天様をお祀りしたという伝説から「銭塚」の名前がつきました。
とても美しい「五彩の龍」の彫刻
お堂の屋根の下(看板の上あたり)をじっくり見てみてください。そこには、赤や金、青などで彩られた見事な「龍」の木彫り彫刻が施されています。浅草寺(金龍山)の龍の伝説にふさわしい、とても豪華で粋な江戸らしい職人技を見ることができます。
「かんかん地蔵」との繋がり
実は、この銭塚弁財天の本来の本拠地(お堂)は、ここから少し離れた「浅草寺の裏手(北側)」にあります。あちらには、石で叩くと「カンカン」と高い音が鳴る、非常に有名な「カンカン地蔵(銭塚地蔵尊)」がいらっしゃいます。この影向堂の池にあるお社は、参拝客の皆さんがお参りしやすいように、こちらにも綺麗に新しく建てられたものです。
3尊のお地蔵様

「恵比須・大黒天 天空庵」「めぐみ地蔵尊」




薬師堂(やくしどう)

徳川家光によって建てられた「貴重な本物の木造」
この建物は、江戸幕府の3代将軍・徳川家光が慶安2年(1649年)に再建した当時の本物の木造建築です。浅草寺の主要な建物のほとんどが東京大空襲で焼失したなか、この薬師堂は奇跡的に戦火を免れたため、国の重要文化財級の歴史的価値を持っています。もともとは本堂の近くにありましたが、平成の再建時に現在の静かな場所へ移築されました。
淡島堂(あわしまどう)





浅草寺本堂の西側エリアのさらに奥に位置する「淡島堂(あわしまどう)」です。
ここは古くから、「女性の守り神」として絶大な信仰を集めてきた非常に特別なお堂です。
💡 淡島堂の3つの大きな見どころ
女性のすべての悩みを救う「淡島明神」
お堂の中には、和歌山県の加太淡嶋神社から勧請された「淡島明神(あわしまみょうじん)」がお祀りされています。女性特有の病気平癒や安産・子宝、裁縫(お針仕事)の上達など、女性のあらゆる願いや悩みに寄り添ってくれる神様です。
毎年2月8日の「針供養(はりくよふ)」の舞台
日本の冬の風物詩としてニュースなどでもよく取り上げられる、浅草寺の「針供養」はまさにこの淡島堂で行われます。折れたり古くなったりしたお針子たちの針を、柔らかい「お豆腐」や「こんにゃく」に刺して、これまでの感謝を込めて供養する優しい下町行事です。
左側の美しい塔:「写経供養塔(しゃきょうくよとう)」
向かって左側にある、白い円形の土台に朱塗りの屋根、そしててっぺんにきらびやかな金色の相輪(装飾)がのった印象的な塔は、全国の信徒の皆さんが納めた「写経(手書きのお経)」を大切に収めて供養するための塔です。現在の塔は平成6年(1994年)に建てられた、浅草寺内でも有数のフォトジェニックな建築物です。
🏛️ 実は「仮の本堂」だった歴史も!
昭和20年の東京大空襲で浅草寺の巨大な本堂が焼け落ちてしまった際、戦後いち早く(昭和30年)に現在のこの淡島堂が再建されました。
その後、昭和33年に今の大きな本堂が完成するまでの間、この淡島堂が浅草寺の「仮の本堂」として使われ、復興へ向かう浅草の人々の心の拠り所となり続けました。浅草寺の戦後復興の歴史を語る上で欠かせない、とても重要なお堂です。
胎内くぐりの灯籠

「魂針供養之塔(こんしんくようのとう)」

「浅草大平和塔(あさくさだいへいわとう)」





浅草西参道商店街

「映画弁士塚(えいがべんしづか)」

無声映画(サイレント映画)の時代、スクリーンの傍らで映画のストーリーやセリフ、情景を熱く語って観客を魅了した「活動弁士(カツベン)」の偉大な功績を後世に伝えるため、昭和33年(1958年)に建てられました。 [1]
「喜劇人の碑(きげきじんのひ)」
「初代 古川緑波(ふるかわ ろっぱ)の胸像」

左:喜劇人の碑(きげきじんのひ)
石碑の表面には、劇作家・菊田一夫氏の直筆による「喜劇人の碑」という文字が力強く刻まれています。昭和57年(1982年)に、浅草から日本中に笑いを届けて亡くなっていった多くの喜劇俳優やコメディアンたちの功績を称え、その魂を慰めるために建てられました。
裏側や周りの黒い石碑には、昭和のお茶の間を沸かせた伴淳三郎、トニー谷、三木のり平、渥美清、由利徹といった、日本の喜劇史にその名を残す天才たちの名前がびっしりと刻まれています。
右:初代 古川緑波(ふるかわ ろっぱ)胸像
台座の上に正座している和服姿の像は、戦前・戦後に「エノケン(榎本健一)」と並んで日本の喜劇界の頂点に君臨した大スター・古川緑波の姿です。「ロッパ」の愛称で親しまれ、映画、舞台、ラジオで爆発的な人気を誇りました。台座の正面には、彼の本名である「古川緑波像」という文字が刻まれています。
「曽我廼家五郎(そがのや ごろう)記念碑」

「力石(ちからいし)」

奥山門

💡 奥山門の3つの見どころ
「神聖な境内」と「にぎやかな歓楽街」の境界線
この門の向こう側は、かつて明治時代に日本一の歓楽街として大繁栄した「浅草六区」や、レトロな商店街「ひさご通り」へと繋がっています。つまり、「静かにお参りをする浅草寺の境内」と「賑やかにお笑いや映画を楽しむ世俗の街」をカチッと切り替える架け橋の役割を持っています。
名物「奥山おまいりまち」への入り口
門の提灯に書かれている通り、この先は「奥山おまいりまち」という風情ある商店街になっています。江戸時代、この周辺は「奥山(おくやま)」と呼ばれ、数々の見世物小屋や大道芸、お茶屋さんが集まる江戸っ子の一大エンターテインメント空間でした。その歴史が今も商店街の名前として残っています。
伝統の「一葉桜」の街並み
門の左右の柱(足元)をよく見ると、白黒の千社札のようなデザインで「一葉桜(いちようざくら)」のマークが描かれています。この先のエリアは、春になると美しい八重桜(一葉桜)が一斉に咲き誇る、浅草の隠れた桜の名所でもあります。
ホッピー通り





浅草六区のすぐ近くにある、通称「ホッピー通り(別名:煮込み通り)」です!
奥山門を抜けて少し歩いたところにある、昼間からお酒と美味しい下町グルメが楽しめる浅草屈指の大人気スポットです。
まさに「闇市みたい」と感じられたその直感は、歴史的にも大正解です。なぜこのような独特な空間になったのか、見どころと一緒に解説します。
🍻 ホッピー通り(煮込み通り)の3つの特徴
ルーツは戦後の「闇市(ヤミ市)」
お察しの通り、この通りのにぎやかな雰囲気や小さなお店がびっしり並ぶ構造は、戦後の闇市や屋台街がルーツになっています。当時のレトロでちょっぴり怪しげな空気感をあえてそのまま残しているため、タイムスリップしたような独特の活気があります。
名物「牛すじ煮込み」と「ホッピー」
どのお店も店頭の大きな鍋で、じっくりコトコト煮込んだ「牛すじ煮込み」や「もつ煮込み」を仕込んでいます。かつてビールが高級品だった時代に、ビールの代わりに安く飲めるお酒として大流行した「ホッピー」と一緒に味わうのが、この通りの最高の鉄板スタイルです。
開放的な「ビニールカーテン」のテラス席
写真の右手前(居酒屋 大勝など)に見えるように、多くのお店が道路にまではみ出すようにテーブルを並べ、雨風をしのぐためのオレンジや透明のビニールカーテンを吊り下げています。この「外で飲んでいるような開放感」が、国内外の観光客にたまらない魅力となっています。
お寺の静かな境内から奥山門をくぐり、この最高にディープでエネルギッシュな酒場街へ辿り着くルートは、浅草観光のまさに王道でありながら、最も下町情緒を感じられる最高の流れです。

六区通り

伝法院通り


鎮護堂(ちんごどう)






右奥に並ぶ「巨大なたぬきの信楽焼」
お堂のすぐ右側(大きなイチョウの木のふもと)を注目してみてください。大きなハットをかぶり、お腹をポンと突き出したコミカルで巨大なたぬきの置物(信楽焼)が2体、仲良く並んで参拝客を出迎えてくれています。これぞまさに「おたぬき様」のシンボルです。
右側の銀色のスタイリッシュな案内板
たぬきの置物のさらに右前には、斜めにカットされた近代的な銀色の案内板が立っています。ここには英語や日本語で、明治16年に野生のタヌキたちのいたずらを鎮めるためにこのお堂が建てられたという、先ほどご紹介したユーモラスな歴史(由来)が書かれています。
手前にある石の「灯籠(線香立て)」
お堂の真ん前(手前)には、四角い窓が空いた古風な石の灯籠(またはお線香をあげる台)がぽつんと立っており、その奥の黒いお賽銭箱へと繋がっています。
🎭 落語ファン・お笑いファンの聖地
タヌキ=「他を抜く」という縁起の良さから、ここには今でも多くの芸能関係者が訪れます。お堂の引き戸のまわりを近くでじっくり見ると、浅草演芸ホールなどで活躍する有名な落語家さんや漫才師さんたちの名前が書かれた千社札(お札)がびっしりと貼られており、下町の芸能文化との深い結びつきを肌で感じることができます。
💡 鎮護堂(おたぬき様)の3つの大きな特徴
別名は「おたぬき様」:タヌキを祀る珍しいお堂
門をくぐった先にあるお堂には、なんと「タヌキ(狸)」の神様がお祀りされています。江戸時代、浅草寺の境内に住み着いていた野生のタヌキたちが、お参りに来る人々にいたずらを繰り返していました。そこで明治16年(1883年)に当時の住職が「これからはお寺を守る神様(鎮護大使者)としてお祀りするから、もう悪さはやめなさい」と説得してこのお堂を建てたところ、いたずらがピタリと収まったという、下町らしいユーモラスな伝説が残っています。
浅草の街を火事から守った「火伏せ(ひぶせ)」の神様
このおたぬき様は、特に「火災除け(火防)」の神様として絶大な信仰を集めています。明治25年(1892年)に浅草の街の半分が灰になるほどの大火災(浅草大火)が発生し、すぐ近くの仲見世通りまで激しい炎が迫りました。しかし、なぜかこの鎮護堂の周辺だけはピタッと炎が止まり焼け残ったことから、それ以来、浅草の商人や周辺の老舗店舗の店主たちが「火事から店を守ってくれる神様だ」とこぞって参拝に訪れるようになりました。
落語家や芸能人にも大人気
タヌキは「他を抜く(たぬく)」という言葉に通じることから、現代では「ライバルを追い抜いて出世する」「芸事でトップになる」という非常に縁起の良いパワースポットになっており、浅草演芸ホールに出演する多くの落語家や漫才師、歌舞伎役者たちが楽屋入りする前に熱心にお参りしています。
水子地蔵尊

この裏側に池が見えました。
裏手の池の正体は、非公開の名勝「伝法院(でんぽういん)庭園」
生垣の向こうに見えた池は、浅草寺の本坊(お坊さんたちが暮らす場所)である「伝法院」の広大な日本庭園の池です。
江戸時代初期の天才造園家・小堀遠州(こぼりえんしゅう)によって造られたと言われており、国の名勝にも指定されています。
普段は一般の観光客は立ち入ることができない「完全非公開」の秘密のエリアなのですが、この鎮護堂の境内からは、生垣越しにその美しい池や庭園の緑をそっと覗き見ることができる、とても貴重なスポットになっています。
この池は「湧水(地下水)」で満たされています。 [1, 2]
浅草寺があるこのエリアはすぐ近くを隅田川が流れているため、地下水が非常に豊富な土地です。そのため、伝法院庭園の池には専用の湧水の井戸が掘られており、そこからこんこんと湧き出る豊かな地下水があの美しい大池泉を形成しています。 [1, 2]
先ほどお清めをされた鎮護堂(おたぬき様)の手水舎の龍の口から出ていた水も、実はこの伝法院の池と同じ水源(地下からの湧水)です。
「幇間塚(ほうかんづか)」


草の夜の街、そして花街(花柳界)の歴史を象徴する、とても粋(いき)な記念碑です。
💡 幇間塚(ほうかんづか)の3つの見どころ「幇間(ほうかん)」とは?:
お座敷を盛り上げるプロの男芸者
幇間は、別名「太鼓持ち(たいこもち)」とも呼ばれる職業です。吉原などの下町のお座敷(宴会)において、自らおどけた踊りや面白いトーク(お大尽のヨイショ)を披露してその場を爆発的に盛り上げ、芸者さんをサポートする男の芸人さんのことです。
日本で唯一の「太鼓持ち」を称える碑
昭和38年(1963年)に、浅草の伝統的なお座敷文化を支えて亡くなっていった歴代の優秀な幇間たちの霊を慰め、その功績を後世に伝えるために建てられました。これほど立派な幇間専門の記念碑があるのは、日本全国でもここ浅草寺の鎮護堂だけです。
背景にチラリと見える「白波五人男」の像
お写真の中央奥(石碑のてっぺんのすぐ後ろ)にある建物の屋根の上をよーく見てみてください。泥棒(和服姿の男性)が刀を持ってポーズを決めている小さな像が乗っているのが見えます。
これは、お隣の「伝法院通り」の屋根の上に隠されている、歌舞伎の有名演目『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのしらなみ)』に登場する「白波五人男(日本駄右衛門など)」のフィギュアです。横から撮影されたこのアングルだからこそ、古碑と歌舞伎のキャラクターが重なる面白い景色になっています。
伝法院

伝法院(でんぼういん)とは、一言でいうと「浅草寺の住職さん(貫首様)が暮らし、修行をする本坊(拠点)」です。浅草寺のすべての運営の中心となる最も格式高い場所です。 [1, 2, 3, 4]
中に入れず門が固く閉ざされていたのには、歴史的・防犯的なしっかりとした理由があります。 [1]
🔒 なぜ普段は中に入れないの?
「非公開」の私的な生活・修行エリア
伝法院は観光施設ではなく、お坊さんたちの生活の場であり、徳川将軍家の位牌を祀る神聖な回向道場です。そのため、江戸時代から現代にいたるまで「原則として一般非公開」の秘園とされています。 [1, 2, 3, 4]
現在は約10年におよぶ「大改修工事中」
安永6年(1777年)に建てられた歴史的な客殿や大玄関は、国の重要文化財に指定されています。これらを後世に残すため、2016年から2026年現在にかけて約10年間にわたる大規模な保存修理工事が行われています。 [1, 2, 3, 4]
🎨 中には何があるの?(見どころ)
普段は見られませんが、高い塀の向こう側には息をのむような美しい空間が広がっています。
名勝「伝法院庭園」
先ほど生垣の隙間から見えた、約3,700坪の広大な日本庭園です。江戸初期の天才茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう)が作庭したと伝わる「池泉回遊式庭園」で、国の名勝にも指定されています。庭園からは五重塔や東京スカイツリーが美しく借景として重なります。
東京最古の鐘
池のほとりには、至徳4年(1387年)に鋳造された「東京都内で最古の鐘(国の重要文化財)」がひっそりと遺されています。 [1, 2, 3, 4, 5, 6]
💡 期間限定で「中に入れるチャンス」も!
通常は閉ざされている伝法院ですが、春の桜の時期や秋のイベント時期などに、ごく稀に「特別公開(特別拝観)」が開催されることがあります。 [1, 2]
直近では、2026年10月30日(金)〜11月3日(火・祝)の5日間限定で、浅草の秋の大型文化イベントに伴う「名勝 伝法院庭園/絵馬堂 特別拝観」の開催が決定しています。
この期間は、日中に幻想的な「雲海演出」が行われるほか、夜間にはライトアップされた美しい庭園を歩くことができる大変貴重な機会となります。 [1, 2]
オレンジ通り

オレンジ通り(浅草オレンジ通り)は、浅草寺の西側(伝法院通りや公会堂のすぐ近く)にある、約300メートルにわたって続く非常におしゃれで活気のある商店街です。
下町の伝統を残しながらも、ヨーロッパの街並みを思わせるモダンな雰囲気が特徴的な、浅草でも屈指の人気ストリートです。
💡 オレンジ通りの4つの魅力と特徴
なぜ「オレンジ」という名前なの?
かつてこの通りには、当時の最先端のファッションや雑貨を扱うハイカラな若者向けのお店がたくさん集まっていました。そこで、「太陽のように明るく、新鮮でバイタリティにあふれた街にしよう」という願いを込めて、1970年代に「オレンジ通り」と名付けられました。通り沿いには、シンボルであるオレンジ色の街灯がずらりと並んでいます。
歩くだけで楽しい「レンガ敷きの美しい街並み」
浅草の他のレトロな商店街とは一線を画し、路面が美しいオランダ製のインターロッキング(レンガ風の石畳)で綺麗に舗装されています。電線もすべて地面の下に埋め込まれているため、空が広く見渡せる開放的でスタイリッシュな景観が楽しめます。
伝統とモダンが融合した「新旧の名店」
通り沿いには、浅草を代表する超老舗から最新のカフェまで、魅力的なお店がびっしり並んでいます。
創業70年を超える職人の手作り革靴店「ハヤシヤ靴店」
浅草名物・元祖カツサンドの老舗洋食店「新世界グリル 梵」
浅草のお土産として大人気の濃厚プリン専門店「浅草シルクプリン」
街を見守る「オレンテくん」
オレンジ通りには、頭がオレンジの形をした「オレンテくん」というとっても可愛い公式マスコットキャラクターがいます。運が良ければ、通りでお散歩している彼に会えることもあります。



仲見世通りに戻ってきました。
仲見世通り(西裏路地)






浅草 蕎麦処 秋月
通りかかったら、創業70年、店内も空いてたので入りました。




細麵。ほのかな甘い香りあり。表面的には割とツルっとしているんだけど噛み応えもあって絶妙のバランス。店主さんに二八?と聞いたら、そうだと♪
美味しかったですよ!また食べに来たいですね。まさか、こんな場所にこんなお蕎麦を提供するお店があるとは^^
「浅草 蕎麦処 秋月(しゅうげつ)」は、浅草公会堂や伝法院、仲見世通りのすぐ近く(台東区浅草1丁目)の路地裏にある、創業70年以上の歴史を誇る老舗の蕎麦屋さんです。 [1, 2]
💡 蕎麦処 秋月の3つの魅力と特徴毎朝打ち立ての「自家製そば」
お店自慢の蕎麦は、その日の朝に打ったばかりのフレッシュな打ち立てを提供しています。細めでツルツルと喉越しが良く、豊かな蕎麦の香りが楽しめます。なお、「蕎麦が売り切れ次第終了」となるため、観光客で賑わうお昼時は特に早めの訪問がおすすめです。 [1, 2]
サクサクの絶品天ぷら
職人が揚げるサクサクで軽い食感の天ぷらも大人気です。「天せいろ」やボリューム満点の「天ぷら重」は、海外からの観光客からも非常に高い評価を得ています。 [1, 2, 3]
蕎麦屋なのに「肉寿司」や「和牛重」が絶品!
老舗の町蕎麦でありながら、メニューには「A5ランク黒毛和牛の肉寿司」や「最高級黒毛和牛重」、ブランド豚のステーキといった贅沢な肉料理が並んでいます。お酒のおつまみ(鴨の燻製やお刺身など)も豊富で、美味しい地酒と一緒に居酒屋感覚で「粋な昼飲み」を楽しむファンも多いお店です。 [1, 2, 3]
というわけで、浅草寺・浅草神社を、たぶん、全て見て回りました^^
