白子川源流域(東京都練馬区)de ブラspiritwind♪~土支田八幡宮・大泉八坂神社・中里の富士塚[大泉富士]・東京の名湧水57選no16.清水山の森 etc
2026.2.9 白子川散策と遊水地点探しをしました。



ここからバスで土支田交番バス停へ。いや~バスを待っている間、寒かったっす^^;;雪も残っていたので。この冬一番寒く感じましたねえ。
バス停からトコトコ歩いて、土支田八幡宮へ。
土支田八幡宮



土支田八幡宮は、白子川の東、練馬区土支田にある八幡宮です。土支田八幡宮の草創については不詳ながら、建久3年(1192)の創建と伝えられるといいます。土支田村(字俵久保)内にあった八幡社・神明社・稲荷社を明治7年合祀、北野神社と称していたといい、「俵久保の天神さま」と呼ばれていたといいます。昭和22年主祭神を誉田別尊に改め、土支田八幡宮と改称。









稲荷山憩いの森・豊楽園神社
参拝後、稲荷山憩いの森へ。





祠の下部に絵狐があるので稲荷社ではないかと思われますが池の上部なので水神を祀っている可能性もあるかなあ。調べましたが詳細不明。


その後、白子川北の大泉八坂神社・中里の富士塚[大泉富士]へ。
大泉八坂神社・中里の富士塚[大泉富士]





八坂神社の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿(文化・文政期(1804〜1829)に調査され、1830年(文政13)に完成)に記載があり、江戸時代には天王社と称して、橋戸村の鎮守社として祀られていたといいます。現在の社名である八坂神社に改められたのは明治初年。
Q:練馬区の大泉八坂神社。なんで天王社が八坂神社にかわったの?
A:
大泉八坂神社の「天王社 → 八坂神社」への改称は、実は全国的に起きた大きな流れの一部なんです。
■ 結論:明治政府の宗教政策で「天王社」という名前が使えなくなったから
江戸時代まで全国にあった「天王社(てんのうしゃ)」は、**牛頭天王(ごずてんのう)**という神を祀るお社でした。しかし明治維新後の神仏分離で、牛頭天王=仏教系(祇園信仰)とみなされ、神道の神社名として禁止・改称の対象になりました。そのとき政府が示した“置き換え先”が須佐之男命(スサノオ)=八坂神社だったわけです。
■ なぜ牛頭天王がダメだったのか
● 牛頭天王は本来、祇園精舎の守護神(仏教系)
→ 神仏分離で「神社は純粋な神道にせよ」とされた
→ 仏教色のある名前は排除対象に
● 祇園信仰は全国に広がっていた
→ その中心が京都の「八坂神社」
→ そこで、全国の天王社は「八坂神社」へ統一的に改称
■ つまり、名前は変わったが“中身”はほぼ同じ
祀られている神の性格は連続しています。
• 牛頭天王(疫病除けの神)
• 須佐之男命(荒ぶる神・疫病除けの神)
→ 疫病除け・厄除けの神という性格はそのまま継承。
大泉八坂神社の祭礼(天王祭)も、まさにその名残です。






左の黄色い建物は八坂神社・社務所






🔍 この石碑が語っていること
石碑の正面に大きく刻まれた 「鈴原神社」 の文字。
これは単なる奉納者名ではなく、確実に“神社名”として刻まれたものです。
つまり:
■ ① 鈴原神社という小社が、かつてこの地域に存在した
■ ② 明治の神社統合で、現在の八坂神社(旧・天王社)に合祀された
■ ③ 富士塚は講中(富士講)が管理していたため、旧社名がそのまま残った
という流れがほぼ確定します。
富士塚は「地域の記憶の保管庫」なので、こういう旧社名が残りやすいんです。
🗺 鈴原神社はどこにあったのか
石碑の位置が富士塚の脇ということは、鈴原神社の氏子・講中が富士塚を管理していた 可能性が高い。
鈴原(すずはら)という地名は、関東ではしばしば
• 湧水のある原
• 水音が響く谷戸
を意味することが多いので、大泉地域の地形と完全に一致します。白子川水系の湧水帯である大泉は、まさに「鈴原」の語感にぴったり。
🧩 大泉八坂神社との関係
この石碑の存在は、八坂神社の祭祀構造が
鈴原神社(湧水系)
+
天王社(疫病除け・祇園信仰)
→ 明治以降:八坂神社(須佐之男命)
という“複層構造”だったことを示します。
つまり、今の八坂神社は複数の小社の記憶が重なってできた神社ということ。
🪨 石碑の形式から読み取れること
写真を見る限り:
• 石材は安山岩系(関東でよく使われる)
• 正面に社名
• 側面に奉納者名(「厚…」と読める)
• 台座は後補の可能性あり
この形式は 明治後期〜昭和初期の合祀記念碑 に典型的です。つまり、鈴原神社の合祀はその時期に行われた可能性が高い。






参拝後、富士塚の南、白子川へ。
東京の名湧水57選no16.清水山の森











しばらく歩いていると・・・池がありました。
中里泉公園 湧水池




更に上流方向へ。


う~ん・・・なんだか古墳のようだなあ。。。。

コパちゃんに聞いてみた。
🧭 ① 練馬区の古墳分布から見た可能性
練馬区には古墳がいくつかありますが、大泉町・白子川上流域には古墳の記録がほぼありません。
古墳が集中するのは:• 石神井川流域(石神井台・上石神井)• 田柄川流域(光が丘周辺)
白子川上流は、古墳時代には湿地・湧水帯で、大規模な古墳を築くには不向きな地形でした。→ 地形的にも古墳の可能性は低い。
さらに白子川・上流方向へ。




八の釜の池(見学不可)


<八の釜の池>
東大泉2-28付近は、かつて「谷(や)」と呼ばれた所で、ここに湧水池があり、水の湧くところを「釜」といったところから「谷の釜(やのかま)」と称したらしく、現在では「八の釜」と表記しています。
この池は、また、富士山や御嶽山(みたけさん)など「お山」参拝に向かう人たちが水ごりをした精進場(しょうじんば)でもありました。
ここは現在もなお、美しい水の湧く場所として残り、区では東側台地斜面の森を含む一帯を、一部は区民の方からお借りし、一部は区で買い上げて、「八の釜憩いの森」として保存、公開しています。水辺で夢中になって遊ぶ子どもたちの姿が、印象的です。(※2)
(※2)現在、「八の釜憩いの森」はありません。また「八の釜の湧き水」は平成3年度に区天然記念物に登録されましたが、東京外かく環状道路建設工事のため、当分の間、見学ができません。

なんだ。残念。。。。。。

更に白子川を上流方向へ。


さすがに歩き疲れて途中の公園で休憩。と思ったら池がありました。
東大泉弁天池


弁天池ですが、練馬区公式HPによれば、弁天池からの湧水と白子川によってつくられた低湿地であり、一応は弁天池は湧水池とされているのですが、現在は「練馬区の水辺の現況」の調査対象になっていないため、どれほどの湧水があるかはわかりません。池は現在地下水を汲み上げて水位を保持しているそうで、公園内に給水ポンプ設備があります。

その後、ちょっと白子川を離れ、大泉学園駅方面へ。


う~む・・・・いいなあ。。。。^^


練馬区立 大泉井頭公園


大砲を持っているカメラマンが狙っていたので気が付けました。



なかなか迫力あります。
**練馬区東大泉7丁目・大泉井頭公園にある2本のマルバヤナギ(区指定天然記念物)**です。1本は川岸、もう1本は公園内の広場に立っています。
白子川の源流である 井頭池(湧水池) のほとりに生えていることが最大の特徴です。
💧白子川の“源流”を象徴する木
井頭池は白子川の上流に湧き出す湧水で、その水辺に 2株のマルバヤナギ(アカメヤナギ) が育っています。マルバヤナギは湿地・川岸を好む水辺植物で、湧水の存在を示す指標植物でもあります。
🔥「焼け弁天様」の伝説と結びつく木
井頭のヤナギには、“焼け弁天様”の伝説に登場する木という民間伝承が残っています。根元から湧水がこんこんと湧き出ていたと伝えられ、地域の水神信仰とも深く結びついていたことがわかります。
井頭池は白子川の源流であり、湧水が豊富なこの場所はまさに 「大泉」=大きな泉 の象徴。






というわけで、今回も、かなり歩きました。20000歩/一日。後は板橋エリアの湧水を見たら武蔵野エリアへ。
