大仙古墳と沖ノ島がつながった? 古代史のニュースより
大仙古墳と沖ノ島がつながった?
大仙古墳(大阪府堺市 宮内庁では仁徳天皇陵古墳、一般には「仁徳陵」とも呼ばれる)
ニュースに驚いて、1500年前の日本をもう一度考えてみた
古代史のニュースを見て、思わず驚きました。
大阪府堺市にある大仙古墳(伝仁徳天皇陵)と、福岡県の沖ノ島。
一見すると遠く離れた二つの場所が、1500年前の甲冑の金属片によってつながったというのです。
「大阪の巨大古墳」と
「玄界灘に浮かぶ神の島」。
いったい、1500年前の日本で何が起きていたのでしょうか。
住宅街の中にあった巨大古墳
私は以前、大仙古墳を訪れました。
三國ヶ丘駅から歩き、古墳の東側をまわり、すぐ近くの陪塚も見ました。
そこで最初に感じたのは、少し不思議な感覚でした。
「世界最大級の古墳」と聞いていた場所なのに、目の前には普通の住宅街が広がっているのです。
近所の方に道を聞くと、
「古墳?ああ、ただの山だよ。見て何が面白いの?」
というような反応。思わず笑ってしまいました。
でも、考えてみると、それが古墳の面白さなのかもしれません。
1500年前には、巨大な権力の象徴だった場所が、今では町の中の風景になっている。
歴史は特別な場所だけに残るのではなく、人々の日常の中にも残っているのだと感じました。
堺市博物館で広がった古代の世界
大仙古墳の近くにある堺市博物館では、古墳時代の展示を見ることができます。
特に印象に残ったのは、石棺の復元模型でした。
巨大な石の棺。
これほど大きなものを運び、墓を造るためには、多くの人々の力と高度な技術が必要だったはずです。
また、大仙古墳は現在も謎が多く残っています。
仁徳天皇陵と呼ばれていますが、古墳の中から「仁徳天皇」と直接わかる証拠が出たわけではありません。
古代史では、「伝えられてきた名前」と「考古学的な証拠」が必ずしも一致しないことがあります。
そこがまた面白いところです。
沖ノ島とはどんな場所なのか
今回ニュースになった沖ノ島は、福岡県宗像市にある島です。
玄界灘に浮かぶこの島は、古代から航海の安全を祈る重要な祭祀の場所でした。
日本から朝鮮半島や中国へ向かう海の道。
その途中にある沖ノ島で、航海の成功や外交の成就を願い、さまざまな品が奉納されました。
出土した奉献品は約8万点にものぼり、その多くが国宝になっています。
鏡、玉、武器、馬具など、当時の最高級品が含まれていました。
今回見つかった金銅装甲冑の破片も、その時代の交流を考える大きな手がかりになります。
なぜ大阪の古墳と九州の島がつながるのか
古墳時代の日本では、海は「隔てるもの」ではなく「つなぐ道」でした。
九州北部から玄界灘を越え、瀬戸内海を通り、大阪湾へ。
そして大阪から奈良盆地へ。
この海と陸のルートを通じて、人や物、情報が行き交っていました。
大仙古墳が造られた頃、堺周辺は海外への玄関口でもありました。
巨大な古墳は、単なる墓ではなく、「ここに大きな王権がある」と示す存在だったのかもしれません。
倭の五王の時代へ
今回のニュースから、私は「倭の五王」の時代が気になりました。
5世紀、中国の史書に登場する倭の王たち。
讃、珍、済、興、武。
彼らは中国へ使者を送り、自らの存在を示しました。この頃、日本列島では巨大な前方後円墳が造られ、ヤマト王権が力を広げていったと考えられています。
卑弥呼の時代から、空白の4世紀を経て、巨大古墳の時代へ。
日本という国の形が少しずつ見えてくる時代です。
古墳を歩くと、歴史の見え方が変わる
大仙古墳を訪れた時、私は、海から外国の使節を迎え、ヤマト王権があった奈良盆地へのルート上にあったことは理解していました。
でも今回のニュースで、そこが九州の沖ノ島や、大陸との交流ともつながる場所だったことを知りました。
古墳は、過去の人のお墓であると同時に、その時代の政治、外交、技術、人々の祈りが詰まった場所なのだと思います。
住宅街の中に静かに残る巨大な森。
そこには、1500年前の日本へ続く入口がありました。
了
