僕の名前は、バス停が決めた
朝、まぶしい日差しと共に目覚めた俺、田沢一郎(仮名)。
今日も平和な一日が始まる――はずだった。
窓を開けた瞬間、脳みそがバグった。
黄色と黒のポール。
「田中ん家前」。
田中ん家前だと?
うちは田沢だ。タ・ザ・ワ。どこにも「な」も「か」も入ってない。
しかも近所に田中さんなんて住んでない。
昨日までこんなもん、影も形もなかった。
リビングに駆け込んで母さんに詰め寄る。
「母さん! うちがバス停になってる! しかも田中ん家前って!」
「あらあら、そうねぇ」
お茶を啜りながら、まるで今日の天気の話だった。
親父にいたっては新聞から顔も上げない。
「まあ、田中でもいいだろ、別に」
良くねぇよ。良くねぇんだよ、それ。
だが、家族のリアクションの薄さより、俺には気になることがあった。
バス停ができたということは――データが取れる、ということだ。
俺の中で何かが切り替わる音がした。
その日から、俺は変わった。
いや、正確には、俺の中の変な回路が起動した。
まず、始発から終電までのバス到着時刻を全部記録した。
Excelに。
列は「予定時刻」「実際時刻」「誤差(秒)」「天候」「運転手の推定機嫌指数」。
三日目で標準偏差を出した。
一週間で、誤差が水曜日だけ有意に大きいことに気づいた。
「水曜日、運転手変わってるな」
誰も聞いてないのに呟いた。
二週間目、市役所に苦情文書を出した。
A4で7枚。グラフ付き。
「田中ん家前バス停における到着時刻の統計的逸脱について」
窓口の職員が明らかに引いていた。
「あの……お名前は」
「田沢です」
「バス停の名前と違いますが」
「知ってます。今そこも問題提起してます」
「そちらは別の課になりますので」
縦割り行政、恐るべし。
三週間目、俺はさらに一段上のフェーズに入った。
毎朝、近所の人が俺のことを「田中さん」と呼ぶ。
最初は訂正していた。
「田沢です」
だが訂正のたびに3秒のロスが発生する。
一日5回訂正するとして、年間で――計算した。
約91分。
1時間31分を、俺は「田中じゃない」と言うためだけに一年間使っている。
これは非効率だ。
その日の夜、俺は名札を作った。
「田中」
首から下げて歩いた。
スーパーのレジで店員に「田中様、ポイントカードは」と聞かれ、
「はい」
と即答した自分に、俺は静かに拍手を送った。
効率とは、時に自分を明け渡すことだ。
宅配便が田中様宛で届くようになった。
ガス会社の検針票が田中様になった。
町内会の回覧板に「田中さんへ」と書かれるようになった。
俺は毎回、サインした。
「田中」
もう迷いはなかった。
母さんだけが時々、
「あんた、いつからそんな達観したの」
と俺を見る目を変えていた。
達観したわけじゃない。
ただ、名前というラベルの張り替えコストと、周囲の呼称慣性を天秤にかけて、
合理的な結論に達しただけだ。
――それが哲学のようなものだと気づいたのは、ある雨の日だった。
名前とは、自分がつけるものじゃなくて、周りが毎日積み重ねてくる呼びかけの総量でできているのかもしれない。
俺はそう思った。
一度だけ、そう思った。
それ以上は、考えなかった。
考える必要がなかったからだ。
なぜなら、その夜、俺は不意に、忘れていた感覚を思い出したからだ。
バス停の屋根の下で雨宿りしていたときだった。
ビニール傘から滴る水の音。
濡れたアスファルトの匂い。
その匂いで、唐突に、婆ちゃんの台所のことを思い出した。
小さい頃、俺のことを婆ちゃんだけは「いっちゃん」と呼んでいた。
田沢でも一郎でもなく、いっちゃん。
味噌汁の湯気の匂いと、婆ちゃんのかさついた手のひらの感触が、
急に、胸の奥からせり上がってきた。
あの人は、もういない。
俺を「いっちゃん」と呼ぶ人間は、もうこの世に一人もいない。
田中と呼ばれても、田沢と呼ばれても、どっちでもよかった。
どうせ、俺を俺として呼んでくれる声は、とっくに消えていたのだから。
そのことに気づいたら、なぜか、名札の「田中」の文字が、ひどく軽く感じられた。
傘を打つ雨の音だけが、やけに大きく聞こえた。
――そして、四週間目。
俺はついに、区役所に行った。
戸籍上の氏名変更の申請書を書いた。
理由の欄に、こう書いた。
「社会的呼称と法的氏名の乖離による行政コストの累積のため」
窓口の職員は今度は引かなかった。
なぜなら、俺のあの苦情文書7枚を読んで、俺のことを覚えていたからだ。
「……また、あなたですか」
「田中です」
「田沢さんですよね」
「今から田中になります」
審査には数週間かかった。
が、通った。
この国の行政は、時々、とんでもなく素直だ。
戸籍上、俺は正式に「田中一郎」になった。
家族は誰も反対しなかった。
「まあ、田中でもいいだろ、別に」
最初に言った親父の台詞が、そのまま最終結論になった。
これで全部丸く収まった――はずだった。
名前を変えた、その翌々日。
バス停の横に、新しい標識工事が入った。
作業員が脚立を立てて、古い標識を外している。
俺は玄関から飛び出した。
「ちょっと待て! 何してる!」
「あー、これ、表記ミスの訂正でして」
「表記ミス?」
「隣の空き地、新しく家建ったんスよ。そこ、本物の田中さんなんで」
「は?」
「なので、こっちは元の『田沢ん家前』に戻します」
俺は立ち尽くした。
新しい標識には、こう書かれていた。
「田沢ん家前」
正しい。
正しすぎる。
だが、俺はもう、戸籍上、田中なのだ。
バス停は田沢に戻り、俺だけが田中として取り残された。
母さんがのんびり出てきて、標識を見上げた。
「あら、直ったんだ、よかったね」
「よくないよ! 俺、もう田中なんだよ! 戸籍上!」
「あら、そうだったっけ」
忘れてた。
この人、忘れてた。
俺は空を仰いだ。
バス停は、正しい名前に戻った。
俺の名前だけが、間違ったまま固定された。
その日から、俺は「田沢家に住む、戸籍上田中一郎」という、
誰にも説明のつかない存在になった。
役所の書類には田中。
表札には田沢。
配達員は毎回、玄関先で数秒固まる。
「えっと……田中様、で合ってますか……?」
「合ってます。ここ田沢家ですけど」
「……はい?」
「気にしないでください。慣れてください」
俺は今日も、正しい名前に戻ったバス停から、
間違った名前のまま、バスに乗る。
婆ちゃんは、もう誰も俺をいっちゃんと呼ばない。
だけど、雨の日、屋根の下でビニール傘の滴を見るたびに、
あの台所の匂いだけは、まだちゃんと戻ってくる。
名前なんて、案外、どうでもいいのかもしれない。
――とは、口が裂けても言わない。
だって俺は今、書類上、赤の他人の苗字を一生背負って生きていくことになった、正真正銘の被害者なのだから。
おわり。
