ある日記「いいよ、じゃなくて、いいね、って言って」
妻とスーパーで買い物をしていた。夕飯の材料を買うためだ。最寄駅から二つ隣りの駅にあるいつもと違う大きなスーパーに来て、二人ではしゃいでいた。まだ夕方なのに惣菜に「20%オフ」のシールが貼られていたり、パンコーナーの横にイートインスペースがあったり、海外ビールの品揃えがよかったり、見どころがたくさんあった。スーパーは一見どこも同じようだが、店によって力を入れている棚が違うので、新しいスーパーはいつだって楽しい。
豆腐コーナーで「堅豆腐」なるものが安売りされていた。堅豆腐は、多くの大豆を使い重石をのせて水分を抜いた堅い豆腐だという。手に持ってみると煉瓦のように重い。妻の弟さんが「美味しい」と言っていたらしく、食べてみることにした。
このところ豆腐にたっぷりの薬味と塩とラー油をかけて食べるのを気に入っている。薬味は細かく刻んでどっさりのせる。オクラを入れると夏っぽさが生まれてうれしい。僕は野菜コーナーにミョウガが売られていたのを思い出して、妻に「取ってこようか」と聞いた。妻は「大丈夫かな」と答え、それから冷蔵庫の中身を思い浮かべて、「ネギとしょうがでいい?」と聞いてきた。僕は「いいよ」とうなずいた。
「いいよ、じゃなくて、いいね、って言って」
妻がぷんすか怒りだした。僕は「なんのこっちゃ」と思って笑った。妻の言いたいことが分からなかったからではない。言いたいことがすぐに分かって、なおかつどうやったら自分が間違えなかっただろうかと途方に暮れてしまったからだ。
日本語は一文字違うだけで意味が変わる。会話の受け答えでよく槍玉に挙げられるのが、助詞の「で」と「が」の違いだ。それこそ夕飯のメニューを提案されたときに、「それでいい」と言うと相手をムッとさせてしまうので、「それがいい」と言うことが推奨されている。「で」だと許可や妥協の意味合いが含まれ、しぶしぶ首を縦に振る感じが出るのに対し、「が」なら積極的に選択して賛成する意味合いが含まれ、賞賛している感じが出るからだ。
「いいよ」と「いいね」のどちらを使うかは、まさに同じ日本語のニュアンスの問題だった。妻は許可ではなく賛成が欲しかったのだ。僕だっていつでも妻の味方でいたい。でっかい親指を立てて「いいね」と言いたい。しかしあのとき「いいね」と言うのは難しかったように思う。
妻は「ネギとしょうがでいい?」と聞いてきた。すでにそこには妥協の姿勢があった。僕は妻の意図を汲むつもりで「いいよ」と言ったのだった。もう少し遡れば、そもそもミョウガを諦めて冷蔵庫にあるネギとしょうがを使おうとしていた。妻はミョウガが大好きなので、ネギとしょうがだけになるのは多少のグレードダウンになるだろう、と僕は思っていた。つまり、あのときの「いいよ」は妻に同調するための「いいよ」だった。
ところが妻が求めていたのはあくまで賛同だった。背中を押す言葉だった。たしかに妥協や失望に同調されても二人で沈みゆくだけだ。買い出しという旅を終わらせるためには前進するのが得策である。必要なのは「いいね」だったのだ。
もしかすると会話において、多少の齟齬があろうとも、常に「いいね」と言うのがよいのかもしれない。人は力を失えば立ち止まってしまう。ことばは追い風になったほうがいい。
いや、そんなことを決めつける意味なんて微塵もない。だって僕ら夫婦はそれから正しい返答が「いいよ」なのか「いいね」なのか議論して、笑い合っていたからだ。どっちでもいいことはそのままに、気になったときだけ注意して、スタンスや文脈の違いを確かめて、また次の瞬間を生きればいいのだ。
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