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ぼくは新書になりたい

 横浜の伊勢佐木町にある有隣堂本店は2階が新書コーナーだった。フロアがコの字型で内側の手すりから1階が見渡せた。壁に設置された本棚には新書がレーベルごとに並べられ、てらっとした表紙が蛍光灯の光を怪しく反射していた。
 高校生だったぼくは授業で使う内田樹の『日本辺境論』を探しに来ていた。新書とは何たるかをよく知りもせず、タイトルだけを手がかりにうろついていると、書籍の一群に視線ががじっと掴まれた。果てなく深い緑の表紙に刈り込まれたタイトル。中公新書がそこにあった。
 ぼくはまず色に惹かれた。深緑がたまらなく格好良かった。もしかするとミリタリーグッズに憧れる感覚に近いのかもしれない。クレヨンや色鉛筆では選ばないような、絵の具でどうやったら作れるのか分からないような、深淵すら感じる緑色をセンスがいいと思った。
 そして、なんてことないフォントで白く印刷される極限まで刈り込まれたタイトル。多くを語らないことで生まれる余白で知的好奇心がむくむくと膨れ上がった。一冊を手に取って、ぱらりと開き、まえがきを読んで、目次を読んで、さあて全くわからなかった。
 うれしい。ぼくは興奮した。高校の先生が言うには、大学レベルの教養を身につけるには新書を読むといいらしい。つまり、手元のいかつい本が読めるようになれば、大学生と肩を並べて学問について語らうことも可能だということだ。そんな学問の入り口がフロアの本棚にびっしりと詰められている。しかもどれも違う題材で。やばい、うれしい。
 全部読んだらすんごいことになるぞ。これはぼくが本屋と図書館に行くたびに思うことだが、あの日ほど強く感じた日はないかもしれない。新書の棚には教養と呼べるありとあらゆるタイトルがあった。当時、ほとんど字面では内容を予想することもできなかった。
 新書とはつまるところ本の大きさを指す分類だ。1:1.618の黄金比、横105mmと縦173mmをだいたい守っていれば中身がどうであれ新書になる。各社レーベルは手抜きかと思うほど同じ装丁のカバーで毎月4冊程度の新刊を出版する。今までにない切り口の新たな教養を新書にパッケージしていく。
 これがいい。これこそ新書の美徳だ。新書はどれもおんなじような面して、表紙をめくったら死角から教養でぶん殴ってくる。特に自分が触れたことのない分野の新書に手を出せば、読書体験は猛獣の鼻息を聞きながらジャングルを歩くのに等しい。いつだって知識と歴史に噛みつかれる可能性があるし、結局読み終わるまでひっきりなしに噛みつかれる。新書は無個性な表紙と予想外に広域な内容が共存しているのが美しいのだ。
 ぼくは新書を好いている。偏愛といってもいい。なぜこんなにも新書にこだわるのか自分でも不思議だったのだが、最近ようやく答えを見つけた。
 ぼくは新書になりたいのだ。新書みたいな人、つまりはなんてことのない風貌で、にも関わらずそれはそれは色んなことを表現する人、これに憧れているのだ。自分の理想像がそのまま新書と重なるのだ。ぼくは新書になれるまで新書を読み続けるのだと思う。

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