ある日記「日の名残り」
地下芸人が今を生きなくなったのはいつからだろうか。おそらく発生からだ。いつかきっと日の目を浴びるはずだと現状を肯定し、ずるずると地下芸人として生きることに居心地の良さを覚え、中身のない地下芸人としての自分を手に入れる。そして、何にせよ人生のターニングポイントが訪れた者から芸人の道を閉ざす。結婚や病気や死別がおおよその内訳だろう。
メディアに呼ばれない芸人はもれなく地下芸人と呼ぶことができる。たしかに売れる意気込みがあれば地下芸人から芸で飯を食う芸人へと脱皮することが可能だ。しかし、売れるという意気込みすら、生煮えの、ぐずぐずの、あってもなくても変わらないようなものになっていっている。戦犯は賞レースだ。
M-1グランプリの芸歴制限が十五年になってから十年以上が過ぎた。十五年という期間は人生において若さを消費し尽くすには充分すぎる長さだ。さらに再結成をすればM-1グランプリには何度も出場できる。決勝戦の華々しい戦いに、敗者復活戦の再起を強調する演出、さらにはアナザーストーリーの猛者たちを身近に感じさせる構成を食らってみれば、誰だってM-1チャンピオンになれるかもしれないという幻想をつるんと鵜呑みにできるようになる。売れてなくてもぬくぬくと夢を追いかけやすい環境は、地下芸人の数を膨れ上がらせ、エントリー数の肥やしにする。
芸人として今を生きるために備えるべき考え方は何であろうか。おそらくウケてウケてウケまくることから逃げないことだ。「賞レースの調整」などという方便で、ある程度の失敗を加味して舞台に立つのではなく、自分ではもうどうしようもない練度まで準備して、全力でぶつかることだ。世の大半の芸人が都合よく見過ごしているが、賞レースの決勝に進むような芸人たちは、周りが「調整」などと抜かしている時期でも本当に爆笑を取り続けている。
芸人であることに最適化していくと、もちろん私生活の部分は消えてなくなっていくだろう。時流を読み、流行に乗り、社会に溢れる情報を取捨選択するためには、中身ではなく器を作ることに専念するしかない。芸人という器になれた者が真に芸人になれたと言えるのだ。
器が完成して、自分がどこかへ行ってしまって、振り返ると人生がこぼれ落ちたことに気づく。そんなときに満足できるかどうかは、職業に生きた者にしか分からない。
とはいえ、とはいえだ。生活があってこその芸人だとも思う。よく出来た空の器は棚に飾るにはいいが、手に取ってもらうには味気ない。

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