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良い新書の条件

 文章はまず書き手のためにある。日記にしろ、小説にしろ、論文にしろ、たとえそれが誰かを呪う言葉だったとしても、文章は書き手が書き手に与えるものだ。書き手は第一の読者である。完成した文章を最初に読むだけではない。書き手は書きながら読んでいる。そして読みたいように書いている。書き手は書くときに、言葉を咀嚼し、反芻する。どこからともなくやってきた考えを、書き手が味わったその記録が文章である。つまり、書くという行為はアウトプットではなくインプットなのだ。
 文章を書くのにつまずいたなら、書くとはインプットだと思い出せばいい。世界を飲みこむように、頭に浮かんだあれこれを文章にするのだ。何かを創り出すとか、無から有を生むといった方針では、言葉を紡ぐのも辛いばかりだ。人間は吐くより飲む方が楽にできる。
 書くことがインプットなのだとしたら、すなわち世界を飲む行為なのだとしたら、人が文章を書く理由がすんなりと理解できる。人は気持ちがいいから書くのだ。書くことそのものが快楽なのだ。その意味で、文章はまず書き手のためにある。
 文章の内容に目を向けても、やはりそれは書き手のためにあるだろう。書き手は自らが読んでおもしろいものを書く。社会に対する機能を最重視した文章、たとえば長ったらしい規約や、分厚い法律書、家電の細々とした説明書ですらも、書き手は書いていて楽しいに違いない。締め切りに追われたり、間違いを犯せない重責に苛まれることはあっても、文章を書くことにはよろこびがあったはずだ。なぜなら、やはりそれらの文章も世界を飲むことを再現させるからだ。
 文章を書くと世界の理解が深まる。これは甘美な経験である。頭で考えるのとはまた別種のメカニズムで、書くと分かることがある。書き出すことで思考が整理される面もあるけれど、どちらかというと手が真実を発見したような実感が生まれる。だから、自らの抱えた謎を解き明かした文章は、読むと書き手による解明の追体験ができ、強烈におもしろいと思える。
 良い新書と悪い新書を分ける条件はそこにある。つまり書き手が書き手のために書けているか、書くことで新たに何かを解明できているか、という点だ。新書は初学者、すなわちなんにも知らない人に向けて書かれる。最先端の知識というよりは、ありものの知識をつらつらっと書いても成立する形態である。だからこそ書き手による発見が重要になる。慣れ親しんだ分野の、飽きるほど考えてきた基本知識に、新たな道筋を見つけなければならない。書きながら「なるほどそうだったのか」と思えた新書こそ、良い新書だと言える。

 このところ三宅香帆の新書を立て続けに読んでいる。七月に出た新刊を読みつつ、既に読んだものも読み返している。三宅香帆の新書はおもしろい。それはなぜかといえば、三宅香帆は三宅香帆のために本を書いているからだと思う。
 大ベストセラーになった『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、超がつくほど本好きの三宅が就職して本を読めなくなったことから、問いが立てられている。三宅には本を読むために退職して、文芸評論家として生きることを選択した過去がある。つまり、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」は、「なぜ(あれほど本が好きだった私でさえ)働いていると本が読めなくなるのか」という問題なのだ。
 三宅は、近現代の労働と読書の歴史を振り返り、本が読めないのは「全身全霊」を賛美する社会風土に原因があると結論付ける。ここでいう「全身全霊」は根性論というより、人生の全てを労働に捧げることを意味する。それはすなわち、ICT技術の普及により余暇すら経済活動に従事させられる、ポスト・フォーディズムへの批判である。経済活動から逃れて生きていくにはどうすればよいか。読書のために会社を退職したものの、文芸評論家として本を飯の種にしなければならなくなった三宅は、好きなときに好きなだけ本を読むためにポスト・フォーディズムと戦わねばならなくなった。
 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、人々はポスト・フォーディズムから逃れるために「推し活」を行っている。「推し活」は一見するとエンタメにお金を使い、経済活動に大きく寄与しているようだ。しかし、実態は、労働に侵食された生活から自分の感性を守るために「推し」を応援している。「推し」に使うお金に糸目をつけないのは、「推し」を経済活動の対象として見ないためである。「推し」は労働から切り離されているのだ。
 そんな「推し」との生活を守るために、三宅は『推したちとどう生きるか』を書いている。日本の推し文化の変遷から、推し活を蝕むのは「母性の暴走」であることを見抜いた。「母性の暴走」とは、規範を押し付け、それに背く者を見放すような制裁の仕方だ。母性が支配する場では、除け者にされないように、共同性がすべてになる。みんなと同じ価値観を持つことで身を守るしかなくなる。母性の暴走によって、推し活にまつわる問題は起きている。
 では、母性の暴走、共同性の暴走から推し活を救うにはどうすべきか。それは「推し」ならびに自らのプライベートを守ることだ。「推し」を限りない詮索から切り離し、「推し」の「秘密を許す」ことで、「推し」を守ることができる。自らはファンダムの言説に流されず、「他人と異なる語り口で語ろうとする」ことで、自分と「推し」との一対一の関係を守ることができる。ここには、福尾匠が『置き配的』で提唱した〈疎〉の概念に近い哲学がある。あえて距離を取ることで、良い繋がりを作るという考え方だ。
 「推し」とする対象は大多数がアイドルだが、そこに明確な決まりはなく、アイドル以外のなんだっていい。労働から自分を切り離すための存在ならなんでもよい。それこそ本だって「推す」ことはできるのだ。三宅は生活を絡め取ろうとするポスト・フォーディズムに、「推し」という刃で斬り込もうとしている。
 共同性の暴走から「推し活」を救うために必要とされる、「他人と異なる語り口で語ろうとする」ことは、三宅にとって作家活動初期からのテーマである。『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』ならびに、それを新書化した『「好き」を言語化する技術 - 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』に明確に表れている。
 内容は、自分の言葉、自分の感性を守るために、いかにSNSで発信するか、実践的なテクニックを解説するというものだ。そもそもオタクという出自で、「推し」について文章にすることで文筆家としての立場を築いてきた三宅が、死に物狂いで獲得してきた技術と精神論を一冊の本にまとめている。三宅は自らに必要なことを書いているのだ。
 ここまでで、三宅香帆は三宅香帆のために本を書いている、と言った意味が伝わっただろうか。どの著作も三宅が自らの人生をより良きものにするために、どうしても考えなければならなかった問いに満ちている。その問いの切実さ、そして問いを解き明かす足取りの力強さこそ、三宅香帆の新書がおもしろい理由である。


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