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ある日記「芸人が短歌を詠むとはいかなることか」

 芸人は短歌に向いていると思う。正確には、日本人は誰だって短歌に向いている。劇的ではないこと、ただ生きていることは短歌にすると美しくなる。本音と建前を持ち合わせているならば、本音でも建前でもないようなゆらめいている感触を五七五七七の韻律にのせて詠うとあら不思議、詩歌が出来上がる。だから、劇的であることばかり集めている芸人は、舞台に上がるときに舞台袖に置いていくものを短歌にすればいい。心が惹かれるけれどウケないことがこの世には捨てるほどあり、芸人たちは実際に捨てているのだ。それを拾って机に並べてみれば短歌になるものも見つけられるというわけだ。
 先日、『マセキ短歌会 7』というお笑いライブを開催した。マセキ芸能社の短歌好きが集まって短歌を詠み、名だたる歌人さんたちに講評をしていただくライブだ。短歌好きといっても、シウマイが「この人なら短歌好きになってくれそう。この人は良い短歌を詠んでくれそう」という人たちも含まれている。『マセキ短歌会 7』では東直子さんにお繋ぎいただき、伊舎堂仁さんに出演してもらった。伊舎堂さんは愉快な人でばかすか笑いを取っていた。そのとき提出した短歌と伊舎堂さんによる講評は、伊舎堂さんのnoteで読めるのでぜひリンクから飛んでみて欲しい。


 伊舎堂さんの講評でそういうものかと思ったのは、芸人は短歌で「」をよく使うということだった。たしかに歌集や短歌の雑誌を読んでいても、「」で閉じられた言葉は少ないように思う。31音のなかで記号が出てくるインパクトは大きく、印象が持っていかれるからかもしれない。芸人は文章でなく舞台で発言することを生業としてるから、人が発声することの面白さに慣れていて、言葉にはイントネーションやアクセントが付きもので、その工夫をすることも常態化しており、短歌でも「」を付けて誰かが言ったという事実を作りたいのだろう。芸人は文字より発言の方が面白いと無意識のうちに思っているのかもしれない。短歌の新人賞で、候補作に「」が多用されていたら芸人が書いたと審査員が当たりをつけるようになる日が来たりして。
 芸人が歌人と違うところは普段から自らの実存を観客に晒しているところだ。売れてゆくほどにキャラ付けされ、特定の内面がカリカチュアされるとはいえ、芸人はある程度の生き方を舞台で開陳している。ということは、芸人は短歌で表現される実存が自分の全てでなくてもよい。つまり、芸人の短歌には気楽さが伴うのだ。
 もちろん、笑いにならないものを選び取っていけば、どろどろした情念や危なっかしい実人生などを作品にすることもあるだろう。それでも、まず芸人として見せているペルソナがあり、メインストーリーがあり、その脇道としての短歌が存在する。これは真剣に短歌を作っていないとか、遊びでやっているとか、そういうように形容される話ではない。芸人はどうやっても、既に見せている自分と新たに見せる自分が混ざり合うことを意識して短歌を作ることになるという話だ。
 短歌の道を真摯に進んでいけば、表現する上での自意識との付き合い方もうまくなり、短歌単体でとある世界を完全に詠むこともできるようになるだろう。しかし、短歌を始めた芸人はネタや平場や収録やSNSなどの活動の並びに短歌をまず置く。見られている自分を更に表現するものとして短歌が発生する。それでも、そんな短歌のなかにも傑作はあるだろうということを、ぼくは言っておきたいと思うのだ。



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