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ある日記「世界99」

 僕は受け入れるのが得意なのだと思っていた。嫌なことをされても、相手には相手の事情があるのだろうと、想像を働かせて溜飲を下げてきた。お笑い芸人をやっているから、仮に自分の尊厳を踏みにじられるようなことを言われても、そういうノリなのだと理解し、笑いを取るネタにするという手段があった。それに、自己表現の場が与えられているため、自尊心の回復を自分に任せることができた。この身に降りかかる災厄は芸の肥やしや人間性の涵養に使われるものだった。
 そもそも怒ることが苦手だった。感情の急上昇急降下は判断を鈍らせ、刺々しい言葉を口から吐かせ、世界を壊すだけのものだと思っていた。それに、怒ることで周囲を動かすという成功体験がなかった。幼少期に僕が怒ると、両親は両手をひらひらさせて、「ひょろろろろろろ」とおかしな声を出して、うれしそうに僕をおちょくった。僕はいつもからかいに負けて笑ってしまうのだった。不満というガスに引火させる火花が僕には少なかった。
 世の中は僕みたいな人を増やそうと進んでいるように思えた。多様性とはみんなが少しずつ損をして他者を受け入れてゆくことだ。今まで大きく損をしていた人を優先的に救ってゆくことだ。そして、すべてがうまくいったら大きな得が待ってると信じることだ。多様性の恩恵を享受するにはみんなで手を取り合って、誰一人欠けることなく損をしなければならない。
 しかし、人は今を生きている。生き延びるためにちょっとした損も看過できない人がいる。それに、うまく社会を渡っていく人は、損を誰かに押し付けて、自分は自分の欲望を変形させながら、結局なにも変わらずに生きていく。うまく社会を渡っていく人とは、ほとんどの僕らだ。
 僕は受け入れるのが得意なのではないのだと思う。自分が受け入れられるものを選んで、自分の周りに見渡す限り敷き詰めているだけなのだ。それでもいくらか成長してこれたのは、僕のぐずぐすしたところを指摘する人や文章や映像があったからだ。いや、成長できているかは自分では確認できない。少なくとも、僕の狭い視野をこじ開けて、僕が抱える世界をひっくり返してくれたのは、苦慮の果てに批判を行った人々だった。簡単に言えば、叱ってくれる人々だった。
 もし自分が親になれたら、子供をちゃんと叱れるのだろうかと思う。この上なく可愛い我が子をすべて受け入れてしまうのは簡単だ。けれど、子供は間違いを犯す。それもはっきりとした間違いだけでなく、まだ社会では白黒つけていない間違いも犯すだろう。正しいことを、正しさが変遷してゆくなかで、少なくとも正しいと信じることを教え諭してやれるだろうか。世界から飛んでくる矢をかわして傷つかずに生きる方法と、世界の誰かを傷つけてしまう矢を放たないための方法を、機を見て教えてやれるだろうか。
 怒ることと叱ることは全くもって違う。それでも人を叱るためには怒りが必要だ。非道と戦うには、ただ冷静で居ればよいなんて訳がない。心を燃やさなければならないのだ。怒りに火を点けるには受け入れてばかりではいけない。受け入れて、受け入れて、水をやり過ぎた植物のように自分の根を腐らせてはいけない。しかし、戦いに飲まれてしまうのも怖いのだった。

餡とバターが溶け合うように。


【短歌と小説】試されの石を触ってこんなにもイボが出たのは初めてなのだよ

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