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波の音、海ネコの羽ばたき。


「実家に帰ります、27日13時 B」

その書き置きに気づいたのは、10日振りでワシントンD.Cの自宅へ帰った夜。キャプテン・アメリカとしての連日激務に疲れ果て、周囲を警備してくれているシークレット・サービスの面々へ礼を告げ。取り敢えずシャワーで
汗を流し、久しぶりにゆっくりバスタブを堪能した後だ。

「……実家って、どこだよ馬鹿」

走り書きではなく、いつも意外と几帳面な筆記体に思わず吹き出してしまったが、まずは身つくろいを優先するのは、軍隊上がりの習慣だ。

クールシトラスのボディローションを全身に振り掛け、送風機で肌と髪を
乾燥させてから念入りに全身のストレッチ。ずっと切りたかった爪を揃え入念にやすり掛けを終えてから、コットン100%のボクサーパンツ、スウェットを滑らせる。

シャワーブースで髭は丁寧に当たり揃え、鏡でのチェックも完璧。
何せ今や、サム・ウィルソンはアメリカの顔そのものだ。

突然の任務でホワイトハウスへ急行する場面も多いし、最近はパーティーや慈善イベントで、裕福層との情報交換も増えている。
実姉に「完璧主義もいい加減にしてよ」と昔から愚痴られていたが、身綺麗さを保持することがどれだけ周囲に影響するか、この一年半でサムは熟知しきっていた。

「え〜と、パンもミルクもオレンジジュースも買い足されてるし。フローリングも吹かれてオッケー、エアコンフィルターも取り替えてるしな。……食洗機で腕を洗ったのはまぁバレバレだけど、B+をあげますかね」

「実家に帰ります」の書き置きは、サムが二ヶ月前に婚約したフィアンセの名刺の裏に残っている。
二人で選んだL型ソファに寛ぎ、「アレクサ、BBCを」とコール。100インチ画面で展開されているのは、白熱のウィンブルドン決勝戦。
静まり返るリビングに穏やかなボールの炸裂音が響き、やっと帰宅できた夜を実感する。

空軍に入隊し一人で暮らすようになってから、料理はサムにとって最適な息抜きで、癒しだ。貧しかった少年時代と違い、そこそこ良い給料で少し贅沢な食材やワイン、アジアのスパイスや日本産の抹茶など手に入れられるようになると更に深く追求するようになった。

軍隊での不愉快な上下関係や任務先での陰惨で血生臭い処理も、キッチンに立って黙々と手作業をするうちに、少しずつ頭から蒸発していく。
北欧銀のナイフや日本製の包丁、皿や椀など一つずつが生活を支えてくれる家族であり、同志だ。そう感じるようになって、完璧主義に磨きが掛かったのも仕方ない。

このまま、どこかの空で撃墜されない限りは長く続くだろうと考えていた
一人暮らしの小さな借家に、最初に傾れ込んできたのは七十年間氷土の中で
眠っていたスティーブ・ロジャース。つまり先代キャプテン・アメリカである。

1940年代のブルックリンしか知らない100歳の青年は、サムが並べた炒飯やラザニア、ブイアベースに青い瞳を輝かせ、「とっても美味しいよ、サム!」「いつも本当に素晴らしいね、ありがとう」と称賛の限りを尽くした。おそらく、二次大戦中の貧しい食卓しか知らなかったニューヨーカーの味覚に、漁村で学んだメニューや、動画で知ったレシピが大きく響いたのだろう。

「現代のスーパーにはなんでも揃ってるからな。リクエストしてくれれば、
大抵は作れるもんさ」

気持ちいいほど料理を平らげていくスティーブへコーヒーを手渡すと
「そんなことないわよ。私も世界中で色々食べてきたけど、サムの料理は特別に美味しい」普段は愛想のかけらもない赤毛の女スパイがゆるやかに微笑んだ。

二年と少し、色々あって逃亡生活を共にしたその二人は、彼方へ去ってもういない。今でもまだ、あの金髪碧眼の大男とロシアの雌蜘蛛へ懐かい寂しさを思い馳せる朝がある。
「サム、おはよう!」と、また突然にあのドアから彼が飛び込んでくるのではと。

だが、再びの一人暮らしに慣れる直前。今度は左腕を義手に替えた、共通の親友と同じく七十年コールドスリープさせられていた男に、不本意ながらキャプテン・ロジャース絶賛の腕前を全力で振るうことになった。

「サム、君にしか頼めない。バッキーのことをよろしく頼むよ」

星条旗の盾と共にサムの両肩に乗せられたその二つの責任は、重さこそ比較にはならないがどちらもサムにとって、人生の天秤バランスを揺るがすプレッシャーだった。

今、サムの足元で休息するヴィヴラニウム合金については、語るに長過ぎるし既に解決済みなので放置。

ウィンブルドンセンターコートでは、長年帝王位に君臨したチャンピオンが
ついに世代交代を告げられ、次世代の若者に銀の盾を渡し去って行った。

「……まずは、置き場所に困ったんだよなぁ」

先日、日本へ初めて公式訪問した際「レッドハルク騒動」で付き合いを深めたオザキ首相から贈られた、高級日本酒をグラスに注ぐ。

三日間の滞在だったが、過去に地震被災した海辺で食した生牡蠣は心底美味だった。デラクロワと似た厳しい季節に曝される土地では稲作も盛んらしく、一粒が輝く白米も透明度の高い酒も、サムの料理魂に大きな火をつけた。

それを首相に告げれば、地元で世話になった人々の動画メッセージと共に
大量のプレゼントが贈られてきた。この冷涼なアルコールもその一つだ。

風呂上がりの身体へほんわりと広がる酒気に酔いつつ、手の中の名刺を
弄ぶ。端っこには、トマトスープで沁みた指紋。
10日前にサムが作り置きしたラタトゥイユを綺麗に平らげ、後片付けを完璧にこなしてから家出したらしい。

「27日 13時」ということは、食べ終わってすぐだろう。あと半日待っていればサムの婚約者、ジェームズ・ブキャナン・バーンズ現下院議員はここで美味な酒を御同伴頂けたのに、残念な奴。

何故、こんなメッセージをわざわざ日付時間添えで残したのか。

「あいつも、いやらしい本性を隠さないようになったよな。元々、面白い性格だったんだろうけど」

「親友の、親友」「相棒の、相棒」

それがどれだけ微妙なポジションか、想像してみて欲しい。
経験済みの人間にしか理解できないアンビバレンツが、居た堪れずに横たわっている。

しかも元秘密組織の暗殺サイボーグで、百年以上の年齢差。肌の色も性格も正反対で、更には殺し合った因縁の仲ときた。
サム自身、どうしてこんなことになったのかいまだによくわからない。

「Siri、サラに電話」

iPhoneから響くコール音は六回、22時過ぎだが姉はまだ起きているはず。

「ハイ、キャップ。今日もお疲れ様」
「遅くにごめん、あ〜、うちのそっちに行ってる?」
「ちょっともう、まだ結婚前なのに亭主顔? 子供達の花火に付き合ってくれてる」
「え、もう夏休みだっけ」
「アンタねぇ、サマーキャンプだってもう終わったわよ。あっ、ねぇバッキー! ミスター・フィアンセから電話!」

平たい液晶の向こう側で、賑やかな笑い声が響いている。
多忙を極めるのはお互い様なのだが、バッキーはウィルソン家の一人息子よりも頻繁にドラクロワを訪れているのだ。古くから馴染みのご近所さんとも、ファーストネームで呼び合っている。

特に、甥っ子のクラスメイト女子からの人気は絶大だ。バレンタインに、テーブルの上で華やかに踊っていた叔父の友人宛てチョコレートギフトとカードを前に、意気消沈していた幼い顔が忘れられない。

『うちで待っていると伝えてくれ』
「……だってさ。アンタ、すぐこっち来れそう?」
「今日はゆっくり寝て、明日の昼過ぎには着くようにするよ。何か買っていくモンある?」
「バッキーがチーズケーキを持って来てくれたから、甘いもの以外がいいかな」
「了解、せいぜいこき使ってやって」
「馬鹿ね、アンタも明日からはうちの家政夫よ!」

画面をタップすると、途端に静けさが家全体を覆ってくる。一人暮らしはずっと慣れてきたはずなのに、自分だけ置いてけぼりはやはり寂しいものだ。

「はぁ、寝る。もう寝る。明日は明日の俺に任せるさ」

グラスを洗いリビングのライトを落として、サムは昼間に婚約者がベランダに干してくれていたらしいシーツの上で、意識を手放した。




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雲州鳩 マダム、ムッシュ、貧しい哀れなガンダムオタクにお恵みを……。