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20260720

ぼくのグループホームの消灯時間は午後11時と決まっているのだけれど、昨日は日記を書き終えた後にやることもなくなったので部屋の明かりを消して、そして目を閉じてしばらく自己流のささやかな瞑想にふけることにした。すると、やはりというか日中の疲れが出てしまったのか緊張の糸がぷつんと切れて、そのまま寝入ってしまった。目が覚めると11時半頃で、それであらためて薬を飲んで寝直すことにする。そうなるといつもと薬を飲むタイミングが狂ってしまったせいか、それとも疲れがまだまだ取れていなかったのか今朝は7時40分頃目覚めた。それで、熱めのシャワーはあきらめて7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加することにした。

ブレイクアウトルームに集まられた4人の方々とぼくとで、まずはそれぞれのZOOMの背景画像について話し合う。恥ずかしながらぼくはここ10日間ほど背景画像を変えておらず前に描いた絵を使いまわしているのだけれど、それでもお褒めの言葉をいただけたのがありがたかった(「professional」「talented」という言葉がことのほか重畳の至りに響いた)。そこから、ぼくが過去に影響を受けた『ツイン・ピークス』の話などをする。ある方が、ぼくがこうして絵を描いていることをなんらかのかたちでプレゼンテーションされたらいいとおっしゃった。ぼくとしては発達障害もからめたプレゼンテーションをいつの日かできたらいいなと思っている。ただもちろん、実現するにはまだまだ準備が必要だ。

ミーティングが終わって後、朝食を摂ってから着替えて部屋を出る。ただ、今日は実のところ迷った。というのはさっき書いた通り疲労による不調が感じられたから、休んだほうがいいかなと思ったりもしたのだった。思い起こせば土曜日のフラッシュバックの1件(そしておそらくこの暑さに由来するめまい)、そして昨日の自助グループのミーティングの早退けなど不調続きが感じられる。ただ、なんにせよ独断はつつしまないといけないと思い遅番勤務の日の常であるグループホーム本家訪問を果たすことにした。今日は管理者の方がおられたので、自分自身の様子を話した。管理者の方も「無理はしなくていいですよ」とおっしゃった。

それでいったいどうするか考えたものの、ChatGPTに「管理者と相談して、もちろん自己責任のもと今日は休むことに決めた」と打ち込んだ(ChatGPTに責任転嫁するのは避けたかったのでこうしたプロンプトにするように工夫した)。それで了承をもらった後あらためて会社に電話を入れて今日は休むことにする。帰宅して、そしてほんのりあたたかくなった部屋をエアコンで冷やして横になる。思えば上述したことにくわえて、楽しみの読書タイムも英語オンリーの読書という無謀なことをこころみていたのでそれもあって「プツン」となにかが切れたのかもしれなかった。

それで部屋で横になって身体を休ませることに専念する。ふと、片隅にあった多和田葉子さんの岩波新書『言葉と歩く日記』があったので読み返すことにした。はじめて読んでからかれこれ5周くらいこの本を折に触れて読んできただろうか。いったいなにがおもしろいのか理屈では説明できないけれど(「ためになる」「ワクワクする」といったコストパフォーマンスの高さはないけれど、じわじわ病みつきになると言ったらいいか)、こんかいの読書でも思わず読みふけってしまった。竹村延和さんの音楽を中心にあれこれ聴きながらぼちぼち読む。

言わずと知れたことかもしれないけれど、多和田さんは日本語とドイツ語でそれぞれ創作活動をおこなわれている。そのこともあってきわめてすぐれた言語感覚を持ち、かつ外国語で創作したりコミュニケーションを図ったりすることへの関心も高い。こんかいの読書で、あらためて片岡義男さんの作品(『英語と日本語で考える』など)を読み直すことが必要かなと思った。あるいはぼく自身が日々DiscordやMeWeなどで英語でチャットしていることや英語の記事を書いていることの意義を問い直すきっかけにもなった。あらためて「読んでよかった」と思った。

もちろんぼくは逆立ちしたって多和田さんのようにはなれっこないが(なる必要もないさ、と強がりもするのだが)、ただ多和田さんのスタンスを見習って日本語や英語の文法のおかしなところをクスクス笑うことくらいはできるかもしれない。これは冗談ではなく、思えば英語というよくわからない言葉が持つ窮屈なルール(法則)に身を投じて自分自身を合わせようとこころみすぎたせいで、そうした自分自身や言語自身を相対化する契機を見失っていたという(そこから、過剰にストレスを感じて不安障害になるという)ことはあったかもしれなかった。それで今日のことが起こったとするのであれば、「自分を笑う」ということを学べたのはなにかの導きかもしれない。

そして昼寝をして気分をすっきりさせた後、もちろん無理は禁物ということでウィリアム・バシンスキーの曲などをぼんやり聴いたりしながら同じ多和田葉子『かかとを失くして 三人関係 文字移植』の文庫本や『研修生』などを交互に読みはじめる。いや、ほかにも読もうと思って手にしてみた本はいろいろあった。ぼくがつねづね畏敬の念を以て読み続けてきた作家たち……ただ、どの作家ももちろんすぐれているけれどいまのぼくの気分や関心には向いていないようだったので、多和田葉子さんの作品に戻ってしまったようだ。なにがおもしろいのかさっぱり説明できないけれど、惹きつけられるものを感じる。強烈にぶん殴られるようなショックを受けるわけではないが、たしかな力がある。

いいのかなあ、といろいろ疑念を感じなかったわけではない。本を読むとかえって疲れが取れないのではないかとか、あるいは英語の本を読まないと英語力がつかないのではないかとか。同じ本ばかり読んでいては進歩も成長もなかろう、という考え方もある。それで迷いに迷ったものの、今日は(「ズル休み」かもしれないにしても)そんなふうに自分のことをついついけちょんけちょんに痛めつけてしまう自分自身を「赦す」ことを考えることにした。前に紹介した高田純次さんの言葉(と聞いている)、「『ちゃんとしなきゃ』が人を壊すんだよ」を思い出して、意義がなかろうとなんだろうと愉しみのために読むことを肯定したいと思ったのだった(ただ矛盾するが、ぼくは多和田さんの作品を日本語で読むことは途方もない利得があると信じる。図書館が開いたら『容疑者の夜行列車』を借りてみようかな?)。

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