見出し画像

悔いが、クラブを作った。

——木村正明とファジアーノ岡山の18年

2024年12月7日。岡山のスタジアムで、ある男は泣いた。 その涙が何を意味するのか、知るためにはまず、1988年の春に遡らなければならない。


ゲートの外に立っていた男

2024年12月7日、午後3時過ぎ。

岡山市内のシティライトスタジアム。Jリーグ昇格プレーオフの決勝戦——ファジアーノ岡山対ベガルタ仙台。そのキックオフ直前、ある男はピッチから遠く離れたスタジアムのゲートの外に立っていた。

サポーター一人一人の手を、順番に握っていた。

長い列だった。「いつの間にか行列ができていた」と、その場にいた人々は後に語っている。男はただ黙って、来た人の目を見て、手を握った。ここに来たすべての人への感謝を、言葉でなく手のひらで伝えようとしていたのだろう。

その男の名前は、木村正明という。

ファジアーノ岡山を知らない人のために、まず一言だけ言っておく。この男はサッカー選手でも、監督でもない。2006年に、年間予算400万円・負債1000万円超・スポンサーわずか6社という「プロクラブとしての体をなしていない」地域リーグのチームの代表取締役に、自ら就任した人間だ。

それまでの肩書は、世界最大級の投資銀行・ゴールドマン・サックス証券の執行役員。

なぜそんな選択をしたのか。なぜ一流の安定を捨てたのか。

その問いの答えはただ一つの言葉に収まる——「悔い」だ。

岡山の少年は、カープがうらやましかった

1968年9月17日、岡山市に生まれた。

小学生の頃、広島でリトルリーグの試合があった。岡山のチームは負けた。そのとき相手チームの子どもたちが言った言葉を、木村はずっと覚えているという。

「今からカープの試合じゃ!」

広島にはプロ野球チームがある。岡山にはない。その単純な事実が、小学生の木村の胸に刺さった。なぜ岡山には、地元を誇れるプロチームがないのか——。子どもらしい疑問だったが、それが消えなかった。大人になっても、ずっと。

中学校でサッカーを始めたのは、野球部がなかったからだ。消極的な理由だったが、それが始まりだった。足の速さを買われてFW(フォワード)に起用され、岡山市の中学生選抜にも選ばれた。県立岡山朝日高校でもサッカーを続け、東京大学を目指した。合格したら、体育会のサッカー部に入ろうと決めていた。

でも、そうはならなかった。

父の死と、三つのアルバイト

1988年の春。浪人生活の1年目が終わろうとしていた頃、父が病気で亡くなった。

事業をやっていた父には、借金が残っていた。仕送りはゼロになった。木村は生活費を稼ぐために、アルバイトを掛け持ちし始めた。多い時で3つ。「体育会のサッカー部には入れなかった」と、木村は後にこう振り返っている。「それに対する悔いみたいなものが、常に自分のなかに残っていたんです」

二浪の末に、東京大学法学部に合格した。

大学でもアルバイトを続けながら、時間の合間を縫って旧国立競技場へ足を運んだ。当時はまだJリーグ発足前。日本リーグの試合を、観客が300人しかいない日でも、木村は一人で興奮して観ていた。

その「悔い」は、ずっと消えなかった。

1993年、ゴールドマン・サックス証券に入社した。3月。その翌5月、Jリーグが開幕した。国立競技場で試合を観戦した。あの日の雰囲気は今も覚えている、と後に語っている。エリートの世界に足を踏み入れながら、木村の目線は常にどこかピッチに向かっていた。

エリートが、地域リーグの泥に飛び込んだ

2003年、ゴールドマン・サックスのマネージングディレクター(執行役員)に就任した。同年就任の中で、最年少という異例の出世だった。数百億円を動かす立場。モルガン・スタンレーやメリルリンチといった世界的な金融機関と競い合う日々。誰が見ても、その椅子は安定の象徴だった。

でも2005年、一本の電話がかかってきた。

小学・中学時代の友人、森健太郎からだった。当時、NPO法人として活動していたファジアーノ岡山の専務理事をしていた森が「寄付してほしい」と頼んだのだ。

そこから、すべてが動き始めた。

2006年7月、木村は決断した。負債を抱えたNPO法人を清算し、クラブを株式会社に作り直して、自ら代表取締役に就いた。ゴールドマンを辞め、37歳で故郷・岡山に帰った。理由は一言で言った。「ふるさとに恩返しをしたい」と。

就任時のクラブの実態は、数字を並べるだけで十分だ。

資本金500万円。負債1000万円超。スポンサー6社。年間予算400万円。木村は資本金の一部を自ら出資し、最初は無報酬でクラブの先頭に立った。

同時代、Jリーグは「百年構想」を掲げ、全国各地に地域に根ざしたクラブを育てようとしていた。地方都市にプロチームを作るという夢は、時代の流れと一致していた。しかし岡山の現実は、夢とはほど遠い場所から出発した。

どぶ板の先に、Jリーグがあった

岡山の中小企業を、木村は一軒一軒回り始めた。

スポンサーを獲得するために。アポなしで飛び込む日もあった。怒られながら帰り、翌日また同じドアを叩いた。ゴールドマンのエリートがやるとは想像もできない営業スタイルだったが、木村はそれを続けた。そのスタイルは後に「どぶ板営業」と紹介されることになる。

就任翌年の2007年には、スポンサーが200社になっていた。就任時の6社からの変化だ。年間収入は9000万円。地域リーグに所属したままで、Jリーグの「準加盟」を果たした。地域リーグのクラブとして、史上初のことだった。

2007年秋、熊谷での地域決勝。

ファジアーノが分厚い壁を突破した瞬間。

ホイッスルが鳴った。38歳の木村は、スタンドで泣いていた。ゴールドマンの元執行役員が、感極まって号泣していた。その場を取材していたノンフィクションライターの宇都宮徹壱は、著書『股旅フットボール』でその光景を「クライマックス」と表現した。

2008年、JFL(日本フットボールリーグ)へ昇格。スポンサー260社、年間予算2億3000万円。JFLで4位の成績を収め、Jリーグ加盟を決めた。収支も初めて黒字になった。

就任からわずか3年のことだった。

そして2009年——ファジアーノ岡山は、J2に昇格する。

プロ化の痛みと、退団した19人

華やかな数字の裏に、木村が今も忘れられない記憶がある。

クラブをプロ化すると宣言したとき、アマチュアの選手19人が退団した。プロとして生活できる保証がなかったからだ。その中には、クラブの初代キャプテン・藤井一昌もいた。「泣きながら何度も話をして」と木村は言う。「僕のことを恨んでる選手もいたと思う」とも。

2024年12月7日、J1昇格を決めたあの試合に、かつての選手たちが集まった。藤井一昌も来ていた。

そのとき木村はこう語った。

「本当に彼らに自慢できるようなクラブを作ることが、せめてもの恩返しなので——そこは自分の中で心に決めて、きょうは全員来てくれてうれしかったです」

恨まれていたかもしれない人たちへの、18年分の言葉だった。

J1は、遠かった

2016年。ファジアーノはJ1昇格プレーオフに初めて進出した。6位から勝ち上がり、決勝まで進んだ。相手はセレッソ大阪。

雨だった。試合は負けた。

8年後に木村は「8年前、雨に打たれて流した悔し涙とは真逆のコントラスト」と振り返る。たった一文に、2016年の敗北がどれほど悔しかったかが滲んでいる。

2018年、木村はクラブ代表の椅子を手放す決断をした。村井満Jリーグチェアマンから専務理事への就任を打診された。クラブ経営での実績が評価されたヘッドハンティングだった。異例にも映る転身だったが、木村は受けた。

Jリーグの実務トップとして4年間働いた後、2022年3月に退任。クラブのファウンダー・オーナー(筆頭株主)としてファジアーノに戻った。

その2022年、ファジアーノは再びプレーオフに挑んだ。しかし初戦でモンテディオ山形に敗れた。

2度の挫折。

それでも、クラブは続いた。

2024年12月7日——18年目の答え

晴れていた。

2016年のプレーオフ決勝は雨だった。あの日の悔しさは、ピッチに降り込む雨の冷たさと一緒に、記憶に刻まれている。

2024年のプレーオフ決勝は、澄み渡る青空だった。

ベガルタ仙台を相手に、ファジアーノは2-0で勝利した。シティライトスタジアム、約1万5000人の観衆が赤く染めたスタジアム。ホイッスルが鳴り、岡山が揺れた。

スタンドでは、かつての選手たちが涙を拭いていた。コールリーダーの松下大和は叫んだ。「皆さんと共に昇格できてうれしい。本当に世界一のファジアーノサポーターだと思います」

そして木村正明は、言った。

「泣けるじゃないですか……。やっぱり長かったですよね。でもこれで終わりじゃないので、J1のタイトルも取りに行きたい」

続けて、退団した19人への言葉を語った。「君たちが開いてくれた歴史だ」と。

Jリーグ参入から、16年。クラブ設立からは、20年余り。

その日の木村正明を一言で表すなら——「泣けるじゃないですか」という言葉そのものだったと思う。抑えようとして、抑えられない何かがあった。

まだ終わらない夢

2023年6月、木村は東京大学先端科学技術研究センターの特任教授に就任した。プロクラブの社会的価値や、スタジアムが地域に与える効果を研究している。ゴールドマンで培った情報収集と分析の厳しさを、今度は学術の場で活かしている。

2025年、ファジアーノはJ1に初参戦した。浦和レッズや鹿島アントラーズが岡山のスタジアムにやってくる。木村が「すごいことになる」と語っていた光景が、現実になった。

ただ、嬉しい悲鳴もある。

開幕から16試合、ホームの試合はすべてチケットが完売になった。木村は言う。「信号待ちで『木村さん、チケットが取れないんよね……』と話しかけられるたびに、申し訳ない気持ちになります」と。1万5000人のスタジアムでは、まだ足りない。

次は専用スタジアムが必要だ。

「3万人以上のチケット応募があった。そういった人が入れるスタジアムを、次の段階で求めていきたい」——木村の夢は、止まらない。

かつて、あるインタビューでこんなことを語っていた。「30年後、スクール無料化が実現できたとき、本当の意味でファジアーノが地域に認められたと思っています。そのときに初めて、『日本一のクラブ』を名乗る資格がある」

岡山のすべての子どもが、無料でファジアーノのサッカースクールを受けられる日を目指して。

悔いは、消えたのか

2024年12月7日、岡山のスタジアムで悲願のJ1昇格が決まった。

木村正明が「悔い」を抱えてゴールドマンを辞めてから、18年が経っていた。体育会サッカー部に入れなかった悔いから数えれば、36年だ。

その悔いは、あの日消えたのだろうか。

おそらく、消えていない。

「J1のタイトルも取りに行きたい」という言葉が、その答えだ。チケットが手に入らない子どもたちのこと、専用スタジアムがまだないこと、スクールがまだ有料であること——悔いは次の形に変わって、また木村の胸の中に居座っている。

それで良いのかもしれない。

悔いが消えた日に、ファジアーノ岡山というクラブの歩みも止まるのだとしたら。あの男の「悔い」が、このクラブをここまで連れてきた原動力なのだとしたら——。

岡山の空の下で、木村正明はまた何かを諦められないでいる。

記憶に残る名場面

▼ 場面1:2007年・地域決勝(熊谷)

ファジアーノ岡山、全国地域サッカーリーグ決勝大会突破

地域リーグから全国へ向かうための、最も高い壁だった。

2007年秋、埼玉県・熊谷。この大会を突破しなければ、JFLへの昇格も、Jリーグへの道もない。資金難のなか、木村はスポンサー集めと並行してこの大会を目指してきた。

ファジアーノが突破を決めた瞬間、木村はスタンドで泣いた。元ゴールドマンの執行役員が、声を上げて泣いた。ノンフィクションライター・宇都宮徹壱はその場を取材し、後に「クライマックス」と書き残した。就任1年余りで、最初の涙だった。

この突破により、ファジアーノは翌2008年にJFLへ昇格。Jリーグ準加盟を地域リーグクラブとして史上初めて獲得し、クラブの歴史が一気に動き出した。

▼ 場面2:2016年・J1昇格プレーオフ決勝(対セレッソ大阪)

ファジアーノ岡山 × セレッソ大阪、敗戦

J1へ、あと一歩まで来た日。そして、雨の中で涙を流した日。

2016年のJ1昇格プレーオフ。ファジアーノは6位から勝ち上がり、決勝まで進出した。相手はセレッソ大阪。当時すでにJ1に向けた戦力を整えた強豪クラブだ。

試合は負けた。スタジアムには雨が降り続いていた。

8年後、木村は「雨に打たれて流した悔し涙」とその日を表現した。詳細な得点やスコアよりも、その一言に、2016年のあの感触が詰まっている。プレーオフ進出のために戦い方を特化した結果、翌2017年は主力の多くが抜け、苦しいシーズンを送った。「プレーオフに出ると、他のチームが先に動く」という現実を、岡山は身をもって学んだ年でもあった。

▼ 場面3:2024年12月7日・J1昇格プレーオフ決勝(対ベガルタ仙台)

ファジアーノ岡山 2-0 ベガルタ仙台、J1初昇格決定

その日は、晴れていた。

シティライトスタジアム、約1万5000人。5位という最終節ギリギリのプレーオフ出場権をつかんで、そこから勝ち上がったファジアーノ。決勝の相手はベガルタ仙台。

ファジアーノは2-0で勝利した。

ホイッスルが鳴った瞬間、スタジアムが揺れた。創設以来ずっとクラブを見守ってきた古参サポーターが泣いた。かつて退団したアマチュアの選手たちも集まっていた。初代キャプテンの藤井一昌もその場にいた。

ゲートの外で一人一人に手を握り続けた男は、試合後にこう言った。「泣けるじゃないですか……」と。

2006年から数えれば18年。J2加盟からは16年。3度目のプレーオフで、悲願がついに実った。

クラブへの遺産

木村正明がファジアーノ岡山に残したものは、J1昇格という結果だけではない。

「地域に根ざしたプロクラブ」の経営モデルそのものだ。親会社を持たない市民クラブが、どぶ板営業でスポンサーを集め、どれだけの規模まで成長できるのかを、体を張って示した。就任当初6社だったスポンサーは、2008年時点で260社になった。その事例は、アジアのサッカー関係者が研修のために岡山を訪れる理由にもなった。

Jリーグ専務理事として全国の舞台でも活躍した後、東京大学特任教授として次世代のクラブ経営者を育てている。木村という人間の軌跡は、今やファジアーノ岡山一クラブの歴史を超えて、日本のスポーツビジネス全体への影響力を持ち始めている。

だがそれでも、木村正明という人間の本質は「岡山の子どもにプロの試合を見せたかった」という原点に収まる。子どもの頃の「カープがうらやましい」という感情が、あのクラブの礎になった。

そして今、毎節チケットが完売になっている岡山のスタジアムで、子どもたちは本物のJ1の試合を観ている。